夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

茶摘みの時節、ときには私の幼年期の生家の情景を思いを馳せ・・。

2014-05-03 14:33:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり.
昨夕、テレビでニュースを視聴していた時、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、と報じられていた。

そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われる中。
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、お茶を摘む情景が映しだされて、
いいよなぁ・・、と何かと時代遅れの私は愛惜を感じたりした・・。

そして単細胞の私は、心の中でひとつの歌を唄いだしてしまった・・。
♪夏も近づく八十八夜、
 野にも山にも若葉が茂る
 ・・
【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

この後、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。
                         

私は昭和19年(1944年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する昭和26年(1951年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有している田んぼの中には小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

この当時のこの地域の旧家のどの農家でも、お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。
                         
私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。

確か3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。
                         

5月の初旬の頃になると、新芽を手摘みをしていた。
一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった人々の支援も借りたりしていた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらったりした。

そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。

そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年で愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。

こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
               
やがて私が昭和28年(1953年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29年(1954年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
          

もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。

数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

やがて昭和30年〈1955年〉の頃から、生家の地域は都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32年〈1957年〉の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
                         

このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。
古来から伝えられた格言のひとつ、立春から八十八日を過ぎると、
この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きする、名言を思い重ねたりした。

昨今の我が家は、年金生活の中で私は茶坊主となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、しぐさを思い浮かべることがある。
そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる方の労力に感謝して、頂いている。

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