最終章 初冬の天人峡温泉に別れを告げて
私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在し、
8日の早朝の6時過ぎに、大浴場に身をゆだねて身体を温めた後、隣接されている露天風呂に行き、
粉雪舞う情景に見惚れたりしていた・・。
そして早くも旅の最終日となり、今回の旅路は雪の中を一時間半ばかり散策した程度であったが、
館内からも小雪の降りしきる情景を眺めたりした・・。
そして私たち夫婦は、国内旅行が共通趣味のひとつであるが、
何かと雪が舞い降る冬の旅を幾たびも重ねて、ひたすら宿泊地の周辺などを散策したりしてきた。
こうした私の根底には、幼年期の頃からだった、と思い馳せたりして微苦笑をした。
私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
こうした中で私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、ときには薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受し、現在に至っている。
このように私たち夫婦は、なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、
冬の時節になると家内を誘って、北に旅をしてしまうことが多いのである。
今回のフリープランに参加した私たち一行は、9時50分に集合して、
宿泊した『天人閣』のご厚意で、旭川空港まで送迎バスを出してくれた。
そして館内のスタッフがロビーから各自の旅行スーツケースを運んで下さったり、
私たち一行は、バスに乗り込むたけの気楽さで、私は恐縮したりした。
やがてバスは積雪20センタぐらいの忠別川沿いの道を下り、
私たち一行は滞在中の思いでをそれぞれ秘めて、初冬の天人峡に別れを告げた。
そして旭川空港の館内で、サンタクロースの飾り、モミの大きな樹のクリスマス・ツリーを私たち夫婦は眺め、
まもなくクリスマス、そして年末が近づいてきていることを教示されたりし、
指定された羽田空港行きの航空便を出発ロビーで待機したりした。
《終わり》
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私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在し、
8日の早朝の6時過ぎに、大浴場に身をゆだねて身体を温めた後、隣接されている露天風呂に行き、
粉雪舞う情景に見惚れたりしていた・・。
そして早くも旅の最終日となり、今回の旅路は雪の中を一時間半ばかり散策した程度であったが、
館内からも小雪の降りしきる情景を眺めたりした・・。
そして私たち夫婦は、国内旅行が共通趣味のひとつであるが、
何かと雪が舞い降る冬の旅を幾たびも重ねて、ひたすら宿泊地の周辺などを散策したりしてきた。
こうした私の根底には、幼年期の頃からだった、と思い馳せたりして微苦笑をした。
私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
こうした中で私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、ときには薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受し、現在に至っている。
このように私たち夫婦は、なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、
冬の時節になると家内を誘って、北に旅をしてしまうことが多いのである。
今回のフリープランに参加した私たち一行は、9時50分に集合して、
宿泊した『天人閣』のご厚意で、旭川空港まで送迎バスを出してくれた。
そして館内のスタッフがロビーから各自の旅行スーツケースを運んで下さったり、
私たち一行は、バスに乗り込むたけの気楽さで、私は恐縮したりした。
やがてバスは積雪20センタぐらいの忠別川沿いの道を下り、
私たち一行は滞在中の思いでをそれぞれ秘めて、初冬の天人峡に別れを告げた。
そして旭川空港の館内で、サンタクロースの飾り、モミの大きな樹のクリスマス・ツリーを私たち夫婦は眺め、
まもなくクリスマス、そして年末が近づいてきていることを教示されたりし、
指定された羽田空港行きの航空便を出発ロビーで待機したりした。
《終わり》
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