先程、ときおり愛読している文藝春秋の公式サイトの【文春オンライン】を見ている中、
『 本人不在でも立見が出るほど大人気 なぜ中島みゆきの歌は日本人に刺さるのか 』
と題された見出しを見たりした。
たまたま私はシンガー・ソングライターの中島みゆきさんはに関しては、
昭和の終りの頃から、歌詞、メロディー、唄声に魅せられて、ファンのひとりとなっているので、
この記事を読んでしまった。
この記事の原文は、『週刊文春』の 2019年2月14日号の掲載された記事のひとつで、
関連の【文春オンライン】に2019年2月10日に掲載され、無断であるが転載させて頂く。

《・・4月にスタートする倉本 聰(84歳)脚本の昼ドラマ『やすらぎの刻(とき)~道』(テレ朝系)の主題歌に、
中島みゆき(66歳)の楽曲2曲が決定。
高視聴率を上げた2年前の第1期『やすらぎの郷』に続く起用だ。
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「倉本 聰氏は、中島みゆきを『天才』と評するほど惚れ込んでおり、今回も倉本氏たっての願いで実現。
ドラマは老人ホーム『やすらぎの郷』での物語と、
そこで暮らす作家・菊村(石坂浩二・77歳)が書くシナリオ内の物語という二層構造。
主題歌も、各々をイメージした2曲という異例な形になった」(放送記者)
中島みゆきの楽曲は、テレビ界で常に引っ張りだ。
2000年から5年間放送されたドキュメント番組『プロジェクトX』(NHK)のテーマソング『地上の星』もしかり。
「あまりテレビに出ない中島みゆきが、反響を受け2002年の紅白歌合戦に初出場。
黒部ダムからの中継でしたが、『動く中島を見たい』と歌手別視聴率は52%に達した。
2014年には朝ドラ『マッサン』の主題歌になった『麦の唄』もヒット。
その年の紅白には2度目の出場、NHKホールで歌った。
昨年の紅白では、島津亜矢が中島みゆきの代表曲『時代』を歌い、楽曲だけが出場するという珍事も」(同前)
1975年、ヤマハのコンテスト入賞を機に、プロ歌手になって44年。
マイペースな歌手活動と謎めいた私生活を送るが、生み出した楽曲の存在感は絶大だ。
「『糸』は、結婚式の定番曲だし、とにかく中島みゆきは、他の歌手に曲をカバーされることが多い。
4年前に始まった『中島みゆきリスペクトライブ 歌縁(うたえにし)』は、
研ナオコ、由紀さおりら多数の大物歌手が、中島みゆきのヒット曲を歌うという異例のコンサート。
中島みゆき本人は、出演しないにもかかわらず、立見席まで出ることもある盛況。
今年も1月末から始まっています」(音楽誌記者)
中島みゆき自身は1989年より続いている、
コンサートと演劇を融合させた舞台『夜会』をライフワークとしている。
「長らく“屈指の入手困難チケット”として知られてきた。
現在、渡辺真知子を共演に迎え、20回目の夜会『リトル・トーキョー』を公演中。
淡々と歌い上げるオペラのような中島のステージは圧巻です」(同前)
時代はまわれど、みゆき節は不変。・・》
記事の原文に、あえて改行を多くした。
過ぎし年の2016年11月16日、私は購読している読売新聞で、中島みゆきさんの最新アルバムが、
36ページ目に全面広告として掲載されていたが、
《 中島みゆき
は
「時代」
と
「糸」
だけじゃない! 》
と大きく明記されたフレーズに、私は見て微笑んだりした・・。
私はたまたま音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて2004年の秋に定年退職した身であり、
この後も何かと音楽業界の動向、魅了されたアーティストに関して習性のように注視しているひとりである。
このような心情を秘めている私は、音楽業界の総合情報ニュースサイトの【Musicman-NET】を愛読しているが、
過ぎし8月10日に於いて『中島みゆき、20年振りのベストアルバム「前途」が11/16発売決定』
http://www.musicman-net.com/artist/59792.html
と題された記事を読み、私は中島みゆきさんの最新アルバムの概要を知ったりした。
私はアルバム発売日の11月16日、最寄駅のひとつの『成城学園前』の駅ビルにある『山野楽器・成城コルティ店』で、
20年振りのベストCDアルバム「前途」、
最新コンサート『中島みゆき Concert「一会」(いちえ)2015~2016』を収録したBlu-rayを
買い求めたりし、これ以来数か月は殆ど毎晩視聴したりしてきた。
誰しも本、映画、音楽等で、ふとしたきっかけで、その創作者に夢中になり、のめり込むことがあると思う。
私も音楽に於いて、ひとりのアーティストの出会いもそのような形であった。
私はあるレコード会社に勤め、この当時は情報畑に所属し、
平成元年の初め、昭和天皇が崩御された後、昭和から平成と年号の変換、
そして4月から日本で初めての消費税の対応で、睡眠時間を削りながら奮闘していた・・。
1月のある日曜日、土曜休日も奮戦していた為、昼過ぎまで寝過してしまい、パジャマ姿でぐったりしていた・・。
日曜日の夕方、疲れきった私は、パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送ったりした。
そして足早に過ぎていく、夕陽を見ていた・・。
お茶を淹れた後、カセット・テープをラジカセに何気なしにかけたりした。
そして、何曲目から、人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。
♪エレーン
生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン
その答を誰もが知っているから 誰も問えない・・(略)・・【『エレーン』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私は聴きなが感極まって、やがて目頭が熱くなり、涙があふれ出た・・。
このカセットテープは、倉本 聰(くらもと・そう)さん・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックであり、
私の勤務する会社から発売され、試聴用として頂いたのを、初めて聴いたのであった。
この映画に使用された音楽は、金子由香利さんの『時は過ぎてゆく』、五輪真弓さんの『恋人よ』、
中島みゆきさんの『エレーン』、浜田麻里さんの『ハート・ライン』、高橋真梨子さんの『モノローグの九月』、
北原ミレイの『石狩挽歌』、森昌子さんの『越冬つばめ』等であった。
このように各レコード会社の所属する有数な歌手を使用したので、
レコード会社の発売先が難題であったが、テーマ曲が金子由香利さんであり、私の勤務先の会社で決まった、
と上司から聞いたりしていた。
私は初めて中島みゆきさんを心に留めたのは、この曲からである。
中島みゆきさんは他社のレコード会社に所属していたが、勤務先の関係より、
中島みゆきさんの名と曲ぐらいは、制作に直接に関係のない情報畑の私でも、
私の務め先でアイドル歌手用に、何曲か作詞・作曲をして頂だしたりしてきた。
たとえば、♪記念にください ボタンをひとつ 青い空に捨てます・・(略)・・【『春なのに』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私からみれば、感性のあるシンガーソングライタのひとり程度だった・・。
そして『時代』、『わかれのうた』、『悪女』にしても、
当然知っていたが、何事もなく私の心は通りすぎて行ったのであったが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。
多くの方が魅了されたアーティストに対し、初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。
こうして私は、中島みゆきさんのデビューアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私はまたたくまに購入した。
そして、多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。
今、思い出しても、この当時に百回以上聴いた曲は、『アザミのララバイ』、『歌をあなたに』、『時代』、『冬を待つ季節』、『忘れるものならば』、
『ホームにて』、『時はながれて』、 『玲子』、『おまえの家』、『世情』、『根雪』、『小石のように』、『エレーン』、『異国』、『夜曲』、
『肩に降る雨』、『HALF』、『白鳥の歌が聴こえる』、『クリスマスソングを唄うように』、『ローリング』、『黄砂に吹かれて』、『群集』、
『儀式(セレモニー)』であったりした。
こうした中、随筆集も求めて精読したが、文体は軽く、随所とらえる感覚が鋭いところがある程度だったが、
意識的に、読みやすく工夫をしている、と解釈した。
ラジオ放送は、わずかしか聴いていなかったが、随筆と同様と判断した。
そして、中島みゆきさんに関しての評論本も購入して読んだりした。
こうした結果として、中島みゆきさんの生命線は、やはり作詞・作曲、そして歌につきる、と深く思いながら、
コンサートを観る機会を待ち焦(こ)がれたりした。
平成元年(1989)11月、業界の注目の中で、渋谷の文化村にあるシアターコクーンで『夜会』が公演されたが、
私は前売りの予約も取れず、キャンセル待ちをわずかな望みを託しが、敗退した。
そして翌年に第2回の『夜会』を平成2年11月29日であり、私は少し高揚しながら鑑賞した。
こうして私は中島みゆきさんの曲を知り初めて3年間ぐらいは、物狂いのように無我夢中で、
殆ど毎晩聴いたりしていた。
そして熱病から平熱になっても、週に一度ぐらいは聴いたりしていた。
やがて私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院生活をして、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたりした。
この後、私が勤めていた会社がリストラ烈風の中、55歳から出向時代していた中で、
『ヘッドライト・テールライト』が支えのひとつとなったりした。
私が初めて『ヘッドライト・テールライト』聴いた時、瞬時に魅了され、そして感銘を受けたのは、
♪語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は
忘れられても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】
という詞であった。
そして何よりも出向となっていた私の心情を支えてくれたり、
この後の定年退職後の年金生活の今でも、最も励ましてくれる詞が、
♪行く先を照らすのは
まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは
あどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】
この励ましてくれる詞が、私にとっては何よりも大切な言葉となっている。
この間、カセット、CD、DVDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、名曲の数々に救われ、今でも私の秘かな女神となっている。
このように私に取っては、中島みゆきさんは秘かな女神の御方であり、
この記事を読み終わった後、微笑み返ししたりしている。
彼女が札幌の学生時代(藤女子大学)に入り浸っていたという喫茶店「ミルク」も聖地巡礼のように訪れたことがあります。
夢逢人さんのように彼女の素晴らしさを分析することはできませんが、日本のシンガーソングライターにおいては別格の存在のように思います。
4月から始まる「やすらぎの刻(とき)」も楽しみです。
>私も夢逢人さんほどではありませんが、中島みゆきの詩は心に突き刺さる思いをしながら聴いています。
>彼女が札幌の学生時代(藤女子大学)に入り浸っていたという喫茶店「ミルク」も聖地巡礼のように訪れたことがあります。
私も北海道を訪れる時、中島みゆきさんの足跡を思い馳せたりする時もあります。
帯広、札幌しないが多いですが、たとえば2012年1月下旬に、
札幌市の郊外にあるガトーキングダムに6泊7日に宿泊して、札幌の各地を観光めぐりをしていた中、
この中の或る日、北海道大学の構内を訪れたりしました。
《・・突然に初めて北海道大学の構内を訪れる理由は、ふたつの私の秘めたることであった。
ひとつは、今の67歳の身としては、せんなきことであるが、
私が読書に目覚めたりは遅ればせながら高校一年からであり、せめて3年早く熱愛していたならば、
北海道大学、或いは京都大学で、文学部国文科に学んでいただろう、
と自責の念があった。
もとより人生は誰しもやり直しはなく、
20代の前半に映画・文学青年の真似事をした私の体験時期に、
やりきれない後悔をしたことがあったのである。
残りのひとつは北海道大学の学生食堂を観てみたいことであった。
私の敬愛するシンガーソングライターの中島みゆきさんは、帯広の高校を卒業された後、
札幌の藤女子大学で文学部国文科を学ばれている。
確か高校時代の頃から、歌で自己表現を学ばれていた、と何かの本で私は読んでいた。
中島みゆきさんは1952年に生を受けられたのであるから、
藤女子大学で入学したのは1970年と推測する。
この当時の少し前は、大学の学園紛争時期であり、硝煙が残っていた頃でもある。
こうした時代に、近くにある北海道大学の学生と歌の勉学の交流をしていた、
と私は推測してしまう。
このことに関連して、読売新聞の2011年11月9日の夕刊に於いて、
中島みゆきさんは、イカタビューに応えている。
《・・シンガー・ソングライター、そして人としての在り方に影響を与えたのは、
1970年代前半の学生時代の体験。
学生運動が挫折し、
「先輩らが掲げた理想が矛盾し、内部分裂していった」
と、真剣な口調で振り返る。
「そうするとね。思想だけのために純粋に突っ走ることは、もはやできなかったんだよね。
しらけ世代なんて言われたけど、自分で考えたかったの。
そこからずうっと引っ張ってきて、今言えることは、愛でなら走るよ、
私はってことです」
・・》
こうしたインタビューされた記事が、私は読み、深く理解を重ねたので、
一度は大学で出入りがしやすい学生の食堂を見たかったのである。
私は1963年春に、東京の私立大学に入学して、
翌年の1964年の東京オリンピックが開催された秋に大学を中退し、
映画青年の真似事をした時代であった。
もとより学生運動の思想に無縁で、彼らを遠くから眺め、必死に名画を鑑賞したり、読書に熱中し、
原稿用紙に向っていた・・。
やがて映画、そして文学青年の真似事も挫折し、やむなくコンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
1970年の春に、何とか大手の民間会社に中途入社した。
私たちは学生の食堂内の片隅で、私はコーヒーを飲みながら、
若き学生諸兄諸姉を見たり、食堂の建物を見たりし、
1970年・・40数年過ぎて、風化してしまった時の流れを受け止めたりした。
このようなことを思い馳せた後、家内と共に広大な構内の路を歩いた・・。
冬場れの中、雪道は殆ど除雪され、歩道は脇は50センチぐらいの積雪を見たり、
未知の各学部の建物を眺めたりした後、
地下鉄の南北線の『北12条』駅を目指して歩いた。・・》
このような思いを旅の記録としてブログに記載したこともありました。
>夢逢人さんのように彼女の素晴らしさを分析することはできませんが、日本のシンガーソングライターにおいては別格の存在のように思います。
>4月から始まる「やすらぎの刻(とき)」も楽しみです。
私も倉本 聰さんを敬愛していますし、
何かしら『やすらぎの刻(とき)~道』の出演者の平均年齢は、74歳と学び、
私も同年齢ですので、更に親近感が深まり、待ち焦がれているドラマです。
今年の札幌市は平年より寒さが厳しいとニュースで知り、貴兄、奥様共々お身体を程々に御自愛されて、
お過ごしして下さい。