夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『小笠原諸島 世界自然遺産に決定』、私たち夫婦も父島の旅路をして、限りなく心に残る思いは・・。【下】

2011-06-25 01:30:53 | 旅のあれこれ
     第4章  小笠原ビジターセンター

ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。

そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆

頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。

そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。

この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。

『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。

そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。

このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。

そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。



        第5章  それぞれ魅力を秘めた『ホエール・ウォッチング』

今回の旅行で家内の念願である『ホエール・ウォッチング』なので、
2月27日、3月2日、そして3月4日と3回に及び一日ツアーに加入した。
いずれもこの時節は、ザドウクジラが父島の周辺で子育ち期間で、親子の遊泳するのが多い、と知られている。

私達は数多くの『ホエール・ウォッチング』の遊覧船によるツアーがあるが、
下記の三種類の遊覧船ツアーを利用した。


2月27日
http://pinkdolphin.p1.bindsite.jp/index.html
☆ ピンクドルフィン号 ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に青灯台を前方に見える岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてピンクドルフィン号は疾走した・・。

私達は船長のクジラ発見の合図で洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
南下にある南島に寄る予定であったが、波高しに伴い、父島の北部にある兄島に進路を変更とし、
この島に上陸して昼食を頂いたりした。

その後、この兄島の海中公園で魚群を観賞した後は、再びザトウクジラの姿を追い求めて、
私達はイルカの群れ共にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船首のそば、ときおり船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時15分で、上陸した後、付近の大神山公園の休憩所で、
ひと息ついた時、私の顔が日に焼けた、と家内は笑い転げていた。


3月2日
http://www.d7.dion.ne.jp/~chichitx/
☆ 小笠原観光(旧・父島タクシー)  ドリーム号III ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてドリーム号Ⅲは疾走した・・。
出航前に船長の自己紹介、女性スタッフの紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
さわやかな笑顔の船長、女性スタッフに私は瞬時好感をしたのである。

今回のツアーの7名ぐらいは、一眼レフに超望遠レンズの高価な撮影器具でザトウクジラを写しており、
リピータの方かしらと私は微笑んだりした。

船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、私達一同は洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
この後、ドリーム号Ⅲは南下し南島に接岸し、私達一同は未知の南島に上陸した。
この南島の秘めたる魅力については後述する。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のザトウクジラの姿を徹底的に追い求める熱意で、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は午前中は船首のそば、午後は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時40分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


3月4日
http://www.interq.or.jp/blue/papaya/tour-information.html
☆ パパヤ MissPAPAYA ☆

今回の私達のようなツアー参加者は30名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてMissPAPAYAは疾走した・・。

出航前に船長の紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
数多くの女性スタッフが配置され、大型高速船に相応しく、コーヒー、紅茶などのサーピスを受けたりした。

今回のツアーの15名ぐらいは、洋中を潜水や遊泳するシュノーケリングをされる方も折、
私達が宿泊したホテルで知り合った若い女性も加わっているので、
私達夫婦はマリン・スポーツに苦手な身であったが、何かと興味を持ちながら、
シュノーケリングされる多くの方を眺めたりしていた。

肝要のザトウクジラに関しては、船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、
私達一同は歓声を上げながら見つめたりしていた。

そして南島に接岸は、大型高速船なので小船に乗りついて上陸した。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のサービスなのかザトウクジラの姿を追い求めて、
父島の西岸を遥か北部から南部、西の彼方まで疾走して下さる、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の4時45分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


このように私達夫婦は、『ホエール・ウォッチング』ツアーに三回ばかり乗船し、
私は長ズボン、長袖のシャツを少し腕まくりしていたが、顔と手、手首まで日焼けをしたのである。
家内は万全の対応策をしていたが、手袋をしていなかったので、手だけ日焼けをし、
私達は微苦笑をしたのである。

もとより家内は、『ホエール・ウォッチング』を観る為に今回の旅行を立案したので、
十二分に観賞でき、満足している。

私の本音といえば、最初から数回ザトウクジラを観た時、迫力あるねぇ、と歓声をあげ、
この後は、ザトウクジラか、と感じたぐらいであるが、
洋上からの島、海岸などの景観は深く魅了されたのである。

そして各船長のひたむきなサービス精神、そして各スタッフの健気な言動に、
海に無知な私でも感動させられたのである。



        第6章  南米チリの巨大地震:津波発生に伴い父島の人々も避難となり

2月28日の朝、私はシーサイド・ホテルの『ホライズン』で早朝に目覚めた。
昨日、私達夫婦は初めて『ホエール・ウォッチング』の遊覧船に日中の大半を乗り、
少し疲れを感じていたので、のんびりと日中は過ごそうとしていた。

薄日の射す穏やかな海の色合いを眺めた後、
私はNHKのニュースを視聴しょうと、部屋に戻りテレビをぼんやりと見たりしていた。

そして、南米のチリで巨大地震が発生し、この周辺一帯は甚大な災害を受けた、と知ったのである。
この後、日本の海岸にも津波が押し寄せる、と報じていた。

私はチリの震災に遭われた方は、大変にお気の毒で被害が少なければよいが、
と思いながら家内と話したりしていた。

レストランで朝食を頂いた後、4人グループの男性とロビーで談笑し、
本日の父島の二見港の午後2時発の船便で明日の午後3時半に東京・竹芝桟橋に下船した後、
東京の赤坂にあるホテルで1泊した後、お住まいの愛媛県に帰られる、
と聞いたりした。

私達夫婦は、ここ2日ばかり4人グループのひとりの方と談笑を重ねてきたので、
まもなくお別れだなぁ、と名残り欲しく感じたりしていたのである。

そして、女性のふたり連れの方とは、挨拶をする程度に話したり、
あとは30歳前後のビジネスマン風と男性と目礼をする程度であったが、
閑散期のホテルの客は、私達夫婦を含めても9人だけであった。
いずも私達夫婦以外は、本日の船便で帰京されるので、少し寂しくなる感じていたのである・・。


まもなく9時35分過ぎに、村役場のアナウンスがホテル前の拡声器から聴こえ、
『浜辺にいる方は、高台に避難して下さい』
と津波警報が報じられたのである。

この後、11時過ぎにホテルからは、
ホテルから荷物を全て持ち、避難場所に退避する準備をして下さい、
と連絡があり、私達夫婦は3階の部屋で海面からは少なくとも17メートル以上あるから、
手持ちバックだけにしょう、と話し合ったりした。

まもなくホテルの方が、私達一同をホテルから付近の避難場所の『扇浦 交流センター』に自動車で誘導して下さった。

『扇浦 交流センター』の入り口に入り、退避人名表に記載した後、
扇浦地区にお住まい方、私達のような外来者、そして警察官の3人、村役場の職員か青年支援者で、
総数50名前後であり、時刻は12時過ぎであった。

私達夫婦は、津波などを含めても避難のは初めての体験であり、
戸惑いながらも、街中の避難場所は小・中学校の体育館などの大多数よりも、
この豪壮なログ・ハウスの『扇浦 交流センター』が水の確保、トイレだけでも配慮した場合、
少人数でよかったかしら、と思えたのである。

まもなくホテルのご好意により、私達の客一同はお弁当とペットボトルの煎茶を頂き、
昼食とした。

この後、村役場の公報が、
津波の第一波は、午後一時は10センチが観測されました、報じられていた。

そして、午後2時過ぎに津波の第二波は、午後2時は20センチ、
午後3時過ぎに津波の第三波は、午後3時は30センチ、と報じられていた。

この間、船舶への注意報がされて、午後2時発の東京・竹芝桟橋行きの『おがさわら丸』も順延となり、
停泊していた二見港の岸壁から二見湾の中核に移動され、停止していた。


私達夫婦は何時になったならば避難の解除が発令されるか、と思ったりしたが、
私達よりも本日乗船する予定の方たち、村民の方たちの方が遥かに心配される立場であるので、
私は無言のまま『扇浦 交流センター』の外で煙草を喫ったりしていた。

そして時折、交流センターの広間のテーブルに解除を待ちわびている地元の人たちのひとりが、
50年前のチリ地震に伴う父島での津波の災害、台風時の災害などを話されていたのを聞いたりしていた。

夕暮れの6時頃に、災害救助用の食料品が置かれて、
私は生まれて初めて『災害救助用 クラッカー』をひとつ頂いた。
この袋には、88グラム(26枚入)、納入年月:平成20年8月、賞味期限:平成25年8月と明記されて折、
私は口に含み、そして噛み砕いたが、味の薄く、やはり保存食だ、と苦笑したのである。

この後、私は疲れを感じ、部屋の角にある災害救助用の毛布が残っていたので、
一枚を床に敷いて、私のフィールド・ジャケットを身体にかけて、横たわった。
そして、ホテルからのご好意の夕食のお弁当を頂いたりしていた。

夜の8時が過ぎた頃、避難解除が発令されて、私達一同は解放されたというのが実感であった。

ホテルの方が私達夫婦をホテル前まで、
別の車で本日に乗船する4人グループ、女性のふたり、そして30歳前後のビジネスマン風と男性を送迎して下さることとなり、
私達夫婦は『扇浦 交流センター』の駐車場で慌ただしく別れを告げた。


私達はホテルの部屋に戻りと、ときおりベランダから夜景の二見港の『おがさわら丸』を注視していた。
『おがさわら丸』が出航する時は、父島と並んだ母島より『ははじま丸』が連絡して折、
平常時には母島港10時30分発で父島に12時40分に入港した後、父島発14時の『おがさわら丸』に人々は合流して、
一路『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を翌日の午後3時半に着岸するのが定例であった。

このような状態であるので、母島が津波警報の解除が父島と同様に行われていたとしても、
『ははじま丸』が母島港を夜の9時に出航しても父島に入港できるのは夜の11時過ぎであり、
この後の『おがさわら丸』が出航できるのは夜の12時過ぎとなるのである。
このような思いで、父島の二見港の夜景を見つめていたのである。

しかし11時少し前に過ぎ『ははじま丸』らしき船は見えず、私は疲れを感じて、
部屋に戻り、ベットにもぐり寝込んでしまった・・。

翌日、ホテルの方の風の噂によれば、未明時に『おがさわら丸』が出航でき、
東京の竹芝桟橋に接岸できるのは翌日の深夜であり、この時間帯になると公共の交通機関はなく、
結果的には二晩船中で過ごされる、と聴いたりした。

そしてNHKのニュースで津波の実態報告によれば、
小笠原の父島は、昨日の午後4時21分に42センチが観測されました、と報じていた。



        第7章  ホテルの客は私達夫婦だけとなり

2月28日の津波の襲来で避難した翌日の3月1日、
滞在しているシーサイド・ホテルの『ホライズン』のレストランで朝食を頂いたが、
私達夫婦以外の客はいなく、少し戸惑いを感じたりした。

私達は国内旅行が共通の趣味であり、新婚時代から四季折々各地を旅行してきたが、
リゾート・ホテル、シティ・ホテル、ビジネス・ホテル、観光ホテル、旅館、民宿などを宿泊してきたが、
私達夫婦だけの宿泊客となったのは初めての体験であった。


このことは小笠原諸島の『父島』、『母島』の交通の便が大きく左右されているのが、
主因と思われる。
この『父島』にしても、東京の竹芝桟橋と父島の二見港を小笠原海運に寄る『おがさわら丸』の客船が、
定期航路として随一あるだけである。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
☆ 小笠原海運 ホーム・ページ ☆

定期船が運航するのは、年末年始、5月の連休、7月下旬~8月中旬の夏季期間を除けば、
6日毎のサイクルで順行する。

たとえば3月8日(月曜日)の午前10時に『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を出航した場合、
翌日の9日(火曜日)の午前11時半に父島の二見港に入港する。
そして10日(水曜日)、11日(木曜日)は停泊し、
12日(金曜日)の午後2時に父島の二見港を出港し、
翌日の13日(土曜日)の午後3時半に東京の竹芝桟橋に入港する。

このようなパターンであると、9日(火曜日)の午後より12日(金曜日)の午前中まで、
島内で滞在することとなり、自在に周遊できる。

数多くの旅行客は、船中泊の2泊、島内で3泊の5泊6日の日程が多く、
父島にしても『おがさわら丸』が停泊していない期間は旅行客は大幅に減少するのである。
私達のような退職後のリタイアした60、70代の人たち、
或いはマリン・スポーツなどで熱意ある人たちのリピータの一部が、
この間に滞在しているのが多く見られたのである。


このような状況なので、シーズン・オフの今、たまたまホテル『ホライズン』さえも、
私達夫婦だけとなってしまったのである。
そして、2月28日(日曜日)の夜から3月3日(水曜日)の『おがさわら丸』が入港するまで、
私達夫婦はたった一組の客となり、レストランで朝食、夕食を頂いても、何かと落ち着かないのが本音である。


        第8章  父島の内陸を散策すれば

3月1日の午前中は、昨日の2月28日の津波の襲来で避難しりしたせいが疲れを覚え、
ホテル内でのんびりと私達夫婦は過ごしたが、
『父島 ガイドマップ』を見たりしていた。

そして、初心者向けの『森・山歩き』のツアーで島内の森を散策しょう、と私達はツアー先に連絡した。
島内は『おがさわら丸』が昨夜の未明に出航した後、観光客は閑散とした状況なので、
何とか連絡が取れて、特別に施行して下さる方に依頼したのである。

http://www.e-ogasawara.com/activity/shima.html
☆ ボニンブルーシマ ☆

私達の滞在しているホテルに自動車で12時半過ぎに来て下さり、
体力の衰えた夫婦のやさしい森の散策を、と私は40歳前後の方に依頼したりしたのであるが、
三言ばかり話し合っているうちに、私達はこのガイドのお方に魅了されてしまったのである。

そして父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたのである。
家内はガイドさんの指導で、双眼鏡を眺めながら、クジラが観えるわ、
と歓声を上げたりしていた。

この後、山道を走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。
この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。

そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、ガイドさんは、
二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたのである。

そして夜のとばりになり、ガイドさんは私達の滞在しているホテルまで送迎して下さり、
私は初めて父島の秘めたる情景に心は充たされたのである。



        第9章  峻久な時を秘めたる無垢な南島

私は『ホエールウォッチング』の2回目の3月2日で、父島の西岸の彼方に南島に上陸したと記載したが、
たまたまこの日は、『おがさわら丸』が父島の二見港がなく、観光客は少ない日となっていた。

そして私が未知の南島に上陸したのであるが、優しい女性ガイドの説明を受けながら、
私達一行の10名のほかは人影も見当たらず、歩き出したのであるが、
私は島の無垢な情景の数々に圧倒されたのである。

小笠原村観光協会の解説文の言葉をお借りすれば、
《・・
この南島は都の天然記念物に指定され、また、新東京百景の1つに選ばれた石灰岩でできた小笠原随一の景勝地。
世界的にも珍しい沈水カルスト地形の島でまぶしいほどの白い砂浜、
エメラルドグリーンの扇池、そして青く澄み切った空がとても美しい。
手つかずの自然以外何もない、別世界の時が流れているこの空間へ
・・》

大半の観光地の美麗な写真、解説には、一番良い時節にプロの方が撮る景観を掲載していることが、
殆どであるが、今回の南島の光景はまぎれなくこの写真以上に美しいのである。


しかしながら、私はこの後3月4日の三度目の『ホエールウォッチング』の時も南島を訪れたのであるが、
数多くの観光船のグループの人たちが上陸されて折、私は途中で断念した。
この秘めたる無垢な情景は、できうる限り少人数で歩き、
それぞれが心の留められれば、心の片隅に深く残る、と確かに教えられたのである。



        第10章  ふたたびホテルは活気となり

相変わらずホテルの客は私達夫婦だけで、朝食を終えた後、
散歩かわりに歩いて一キロ程近くにある『亜熱帯農業センター』に出かけたのである。

ゆるい登り道路の脇の歩道を歩き、少し汗をかいた頃に到着したのであるが、
人影もなく、桜の花、亜熱帯の植物を観賞したが、数多くの花の咲く時節の谷間であり、静寂な情景であった。

一時半ばかりセンター内を散策した後、ホテルの前にあるバス停の『扇浦海岸』までの下り道を歩き、
この後は村営バスで街の中心街に出たのである。

そして家内は、昼食は緬類を食べてたい、というので、素朴に食堂風の店に入った。
店内の一昔の看板が展示するように数多く見られた。
私は家内に懐かしい看板だね、と云いながら、その当時の思いで話をしたりした。
私はチキンのガーリック味を頂きながら、ビールの大瓶を2本を呑んだりした。
店を辞する時、『波食波食(ぱくぱく)』と店の看板があり、私は思わず微笑んだりした。

そして街中を歩き、家内は長袖のスポーティなシャツを買い求めたりした後、
私達は村営バスに乗り、ホテルに戻ったのは午後2時前であった。

そしてバルコニーで二見湾の情景を眺め、煙草を喫っていると、
『おがさわら丸』がゆったりと二見港に入港してきた。

『おがさわら丸』の定時入港は午前11時半であるが、
過日の津波により少なくとも10時間以上遅れて出航したので、
少しは挽回して4時間遅れの午後3時半に入港したのである。


そしてこの船に乗船してきた一部の人たちが、
ホテルの宿泊者となり、70歳前後の女性の4人グループ、50歳前半のご夫婦の二組、
70代のご夫妻、30代のご夫妻、そして女性の30代前半が宿泊者と加わり、
私達夫婦を含めて15名となり、
私達はレストランで隣席の人たちと穏やかに談笑したり、或いはロビー等で話したりしたのである。



        第11章  夜の浜辺、里の情景は

私達はホテルのベランダからは、夜のひととき前方の扇浦海岸、二見湾、
そして彼方に観える二見港の船舶の灯り、大村の街灯りを眺めたりしていた。

観光のひとつとして『ナイト・ツアー』があり、浜辺、里山の情景を観せてくれるのを知っていたので、
日中に観る情景とはまったく変貌すると思われるので、私達夫婦は3月3日の夜にツアーに参加した。

この日は『おがさわる丸』に入港したので、若い20歳前後の女性3人とグループとなり、
ガイドさんの導きに観賞したのである。

私達は暗い小浜海岸で特有のの蟹(カニ)を観たり、
付近の大きな樹木の実が、たとえ川に流れようとしても、やがて岸辺の地に根付く、
たくまし樹木を眺めたりした。

そして、たまたま午前中に訪れた亜熱帯農業センターで、
この小笠原諸島に住むコウモリの生態を見つめ、椰子の花などを食べている状況を見るができたのである。

その後、幻のキノコを観るために山沿いのせせらぎに行ったのであるが、
湿度と温度の微妙な環境を要求されるキノコであるので、
無念ながら拝見できなかったのである。

私は蟹、コオモリに余り興味がなく、家内は喜んでいたが、
独り夜空の星の方に魅了されていたが、曇り空で余り観えなかったのである。
そして雲間に恥ずかしげに隠れてしまった数多くの星に、
どうして内気なの、と私は恨めしげにわずかな星を眺めていたのである。

ホテルに戻り自動車の中で、ツアーのさなか若い女性3人の歓声、ため息、話し声、そしてしぐさに、
カニ、コウモリより遥かに学んだことを思いだし、
独りで微苦笑していたのである。



       第12章  そよ風を海辺の休憩所で受けながら

3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。

私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。

10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。

そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。


思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。

そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。

26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。

27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。

そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。

3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。

2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。

3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。


このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。

前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。

この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。



       第12章  『おがさわら丸』父島・二見港の出航の光景は

6日の朝食後、午後2時に出航する『おがさわら丸』に乗船する為、
ホテルの方が船客待合所に私達の大きめの旅行バックを届けて下さるので、
チエック・アウト後は私達は身軽に村営バスに乗り、二見港から近くにある『小笠原ビスターセンター』に行った。

そして過日、感銘を受けたビデオを3作品を観賞した後、
付近の大神山公園の東屋風の休憩所で、昼食として煎茶を飲みながら、お弁当を頂いたりした。

そして船客待合所に行き、数多くのいる人々中、予約券の指定乗船券を本券に代え、
券の右側にある乗船名簿欄に記載したりした。
そして、確約した午後1時15分過ぎに、ホテルの方が所定場所に私達の旅行バックを届けて下さり、
私達はホテルの方に滞在中に何かとお世話になった意味合いのお礼を云ったりした。

この後、ホテルのお方から、私達にそれぞれ真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を頂き、
私達は大きめの旅行バックを持ちながら乗船し、指定されたBデツキ・フロアーの『特一等』の一部屋に入室した後、
船室と船べりの間のデッキに行ったが、
岸壁に面した右舷は私達と同様な船客で鈴なりになり、上階のAデツキでも同じように船客で満ちていた。

下方に見える船客待合所の前の岸壁に面した広場は、数多くの観光関連の村人、滞在されている観光客が折、
中央には太鼓を打ち響かせる青年がいて、活気ある歓送の宴となっていた・・。
私達の船客は少なくとも600名ぐらい折、お互いに思いを残しながら、手を振ったり、大きな声で感謝の言葉を張りあげていた。


そして『おがさわら丸』はドラの音を鳴らすと、船は岸壁を静かに離れはじめた・・。
乗船した私達も見送りに来て頂いた下方に見える人々に手を振り、
ホテルのお方も見えて、私達夫婦は手を大きく振ったしていた。

私はこの後、華やかな真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を岸壁に向かい、
お世話になりました、と心に呟(つぶや)きながら投げたのである・・。

そして盛大な歓送をして頂き、岸壁から50メートル以上離れたので、
船室に戻ろうとしていた時、『おがさわら丸』の右舷の数10メートル離れた周辺に観光船が少なくとも30隻以上が見え、
私達の乗船している『おがさわら丸』に並列するように小さな波間を疾走してきたのである。

それぞれの観光船は船長をはじめ、男性、女性スタッフ、滞在客も乗り、大きく手を振っていた。
そして、この中の一隻は後部に太鼓を響かせ、
最上部の狭い観覧席でひとりの青年が逆立ちをして、両足を開き『V』サインをしばらくの間し、
私達乗客600名ぐらいの殆どは、盛大な拍手と歓声を上げたりしたのである・・。

二見湾の中央付近になっても、それぞれの色彩を帯びた観光船は波間を疾走し、
私達が『ホエール・ウォッチング』に利用させて頂いた『ピンクドルフィン号』、『ドリーム号III』、『MissPAPAYA』の三隻も観え、
思わず私は大きく手を振り、そして遊覧船のスタッフも盛大な手を振りあげていた・・。

この後、二見湾から外洋に出る前に、それぞれの遊覧船のスタッフが海に飛び込み、やがて海上から手を振っていた時、
私は涙を流していたことに気付いたのである。

『おがさわら丸』は外洋に出て、速度を上げ、私は潮風を顔に受けながら、過ぎ去っていく二見湾、そして父島を眺めていた。



       最終章  『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に

7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。

私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。

私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。

定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。

このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。

冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。

そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。


私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。


                                 《終り》
・・】

このように私たち夫婦は、東京都の一部である都心から遥か彼方の小笠原諸島の父島の旅をしてきたが、
これまで日本にある幾たびか島めぐりの旅を重ねてきた私共は、
小笠原諸島の父島は、限りなく素朴さの秘めたまぎれない美しい島であった。


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