夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし年に60代を卒業して、70代を過ごす中、初めて実感させられることに、微苦笑を重ねて・・。

2017-02-21 15:35:33 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったで、たった二人だけの家庭で、
雑木の多い小庭の中で、古惚けた一軒家に住んでいる。

こうした中で、つたない半生を過ごしてきた私でも、年金生活の60代の10年間は、
予期した以上に、苦より歓びが圧倒的に多く、安楽に過ごしてきた・・。

たとえば平日にのんびりと散策したりすると、働くことなく自由に散策できるなって許されることかしら、
と定年前の多忙なサラリーマン生活を思い馳せたりして、年金生活を始めた当初は、戸惑ったりした。

或いは私たち夫婦は国内旅行を幾たびか旅路を重ねてきたが、
旅立ちの時、東京駅、羽田空港などで働いで下さる諸兄諸姉を見かけると、
少し後ろめたい心情もあったりした。

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇することなく、私は60代の年金生活10年間を卒業した。
             

過ぎし年の2014年(平成26年)の9月下旬、私は古希(こき)と称される満70歳を迎えることが出来た・・。

もとより古希は、還暦に続く長寿の祝いの70歳のことであり、
中国の盛唐時代に西暦700年代の詩人の敬愛している杜甫(とほ)が、
『曲江詩』の一節の中、人生は70古来稀(まれ)なり、から伝承されている。

しかしながら、この2014年(平成26年)の当時は、総務省の公表に寄れば、
日本の70歳以上の方は2383万人で、総人口の19%近くの長寿社会を迎えている今日、
古来稀(まれ)なり・・は死語だよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりした。、

私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そしてお互いに体力は衰えて、心持ちは溌剌としているが、
いつの日にか介護にお世話になる、と漠然としながらも思ったりする時もある。

もとより日本人の平均寿命は男性80歳、女性87歳と公表され、
健康寿命は男性71歳、女性74歳と明記されたりしている。

そして男性80歳、女性87歳時点で、半数が死亡し、 男性71歳、女性74歳時点で、
半数がやむなく介護を必要とする状態になる可能性が高い、と私は学んだりしてきた。

こうした中で、何よりも健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、人生は気合だ、と時折つぶやきながら、年金生活を過ごしている。

或いは風邪気味の時は、病院などに行かず、市販の薬も敬遠して、
早めに布団にもぐり、本を読み、そして睡眠時間を多めにして、克服したりしてきた。
                           

しかしながら、70歳を過ぎた頃から齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。
       
しかしながら、私の幼年期のことなどは、何故かしら鮮明に思いだせるのである。

たとえば祖父と父が健在だった頃、所有していた田畑、雑木林、竹林、田んぼの中で流れていた小川などの情景、
或いは初めて観た映画作品は、1950年(昭和25年)の夏、『長崎の鐘』を母に連れられて鑑賞したこと、
今でも心の片隅に残っている・・。

ここ数年、物忘れが多くなり、溜息を重ねたりしているが、確か私が小学3年生の頃、
亡き脚本家の菊田一夫(きくた・かずお)さんの『・・忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ・・』と、
名作の『君の名は』で遺(のこ)された名言に、私は独り微苦笑したりしている。

そして昨今でも、新聞、ネットのニュースなどを読んだり、テレビでニュースを視聴したりすると、
やがて数日後には、忘れてしまうこともあり、つたない私の小さな悩は、収容できずオバー・フローになり、
忘れてしまうことで、悩が適度な記憶量に調整を図っている、と無念ながら思ったりしている・・。
                          

私はこの寒い時節、和室の寝室で朝に布団から目覚め、
やがて起きだして、部屋の片隅に置いている靴下を履こうとする時、
身体か或いは骨が固くなった為か、苦難する時もある。

このようなことは60代の時は感じたことはなかったが、
無念ながら老化現象で齢なのかしら、と独り苦笑したりする。

或いは知人宅で正座したり、あぐらを掻(か)いたりして、一時間ぐらい談笑した後、
すぐに立てなくなり、苦笑をしたりしてきた・・。
             

何よりも恥ずかしいことは、オシッコが近くになったことである。

ここ半年は布団にもぐるのは、真夜中の12時前後であり、
目覚めるのは朝の7時頃が多くなっている。

こうした中で、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして目覚めた時、ぼんやりと今日は・・と予定事項を思い浮かべたりして、
15分ぐらい過ぎた時、オシッコだ、と感じて、布団から起きだすが多くなっている。
       
日中は、近くお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗を三つに、煎茶を淹れて、
そしてコーヒー・カップにインスタント・コーヒーを淹れて、愛飲している。

昨今の寒い時節、こうした煎茶、インスタント・コーヒーを飲んだりしていると、
一時間半ごとにトイレに行き、オシッコをしたりしている。

私は年金生活を始めて当初から、平素の買物に関して、家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーか、ときには駅前のスーパー、専門店に行ったりしている買物メール老ボーイの身であるが、
70歳の頃からは、家を出る直前に、トイレに行き、オシッコをしたりしている。

そして買物の責務を終えた後は、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたりしているが、
一時間半ぐらい歩く間、水分補給は十二分にしている為か、
小公園などのトイレに行き、オシッコをすることが多い。
             
こうした事態に私は戸惑って、苦笑したりしている。
                           

そして私は高齢者に入門した65歳の頃、作家・渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんの随筆を読んでいる中で、
『その年にならなければ、解らないょ・・』、
このような意味合いの言葉を学んできたので、昨今の私は、そうですよねぇ、と同意を深めたりしている。

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