夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

お正月飾り、東京郊外の年金生活の我が家は、恥ずかしながら簡素となり・・。

2012-12-28 13:23:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、家内は朝早くから『お正月飾り』を始めた・・。

もとより飾り初めに於いては、『一夜飾り』の大晦日の31日は、お葬式の飾り付けなどを一夜で片付けることとつながり、
縁起が悪いから古来より避け、
或いは29日も『二重苦』に関連するので避け、従って27日から29日、31日を除いた日となり、
家内は28日は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
              
              主(あるじ)の私の性格が悪いせいか、少し斜めに撮られている。 
              
              後方にある掛け軸は我が家のいつも掲げているものであるし、
              右隅みにあるのは2009(平成11)年7月に京都の夏祭りのひとつの『祇園祭(ぎおんまつり)』を拝観した時、
              厄病災難よけの『ちまき』を頂だいた品である。

そして、家内も幾分寂しいと感じ、玄関の窓辺の片隅に、たわむれの置物を置いたりした。
左に視えるのは、獅子舞であり、右側を七福神を乗せた祝い船であり、
6年前頃に家内は百円ショップで買い求めた品である。

そして背景の陽よけの簾(すだれ)を布地に変えれば、我が家の『お正月飾り』は完成となる。

恥ずかしながら我が家の『お正月飾り』は、たったこれだけであり、
日本広しといえども我が家は一番簡素な飾り、と私は微苦笑したりした。


過ぎし私が若い33歳の時、2年ばかり賃貸マションで新婚生活を過ごした私たち夫婦は、
私の実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

こうした時、家内は中学生の時から茶事を学んできたので、私は若さで世間知らず、気負いもあり
住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、パート、契約社員などで、3年ぐらい援軍を受けたりした。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、
程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

そして何とか世間並みに玄関の軒下に、ホームセンターで買い求めた小さな門松、
可愛らしい松飾り、玄関と居間には程ほどの大きなお供え餅を備えたり、花を活けたりした。


遥か遠い昔、私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに小さな神棚が備えられいた。

そして毎年12月20日過ぎた頃から、この当時は江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。

祖父の家の順番になると、祖父が中核となり、私の両親、父の妹の叔母、兄ふたりの家族総出で、
ご近所の主人たちが5人来てくださり、餅を搗(つ)いたりした。

こうした時は、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つ)いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
そして新年を祝う『お供え餅』を幾つも作ったりしていた。

夕方の6時頃になると、搗(つ)きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
こうした中で、ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

そして年末近くになると、祖父と父は注連飾り(しめ飾り)、注連縄(しめなわ)、輪じめを作ったりし、
神棚を清めたりしてして、新しい注連飾り(しめ飾り)、注連縄(しめなわ)で飾り、
各所に『お供え餅』を備えた。


こうしたことを思い馳せたりしたが、年金生活の今は余りにも簡素な『お正月飾り』となり、
神様はあきれているかしら、とぼんやりと私は苦笑していたが、
居間にあるテレビ台に、『お正月飾り』として可愛いお供え餅に見立てた香合を思いだした・・。
               
               テレビ台にある香合を居間のテーブルに移動して、記念撮影をすると、
               このように小さいながら、我が家の年末年始の情景を見守ってくれる品でもある。

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コメント (2)
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