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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『疲れないパソコン術・・姿勢は?』、私は微苦笑し・・。

2010-08-06 22:56:15 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようとした。

たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
この中に『編集長のおすすめ』のコーナーがあるが、
この中のひとつに、『健康 疲れないパソコン術・・姿勢は?』
と明記されていたので、思わずクイックして、読みながら微苦笑してしまったのである・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
    疲れないパソコン術  (2)目や体に楽な姿勢で

画像の拡大 パソコン作業は、イスに座り、同じ姿勢が続きがちになる。

人間工学の専門家で、富士通デザイン(川崎市)で製品設計を手掛ける松本啓太さんは、
「目や体に負担をかけない作業環境を整えて」と呼びかける。

まず気をつけたいのが姿勢。
イスに座ったとき、画面が自分の目線より低い位置にあり、
キーボードに手を置いたときのひじの位置が机の高さに来るようにしたい=イラスト=。もっとも自然な体勢だ。


小柄な女性や子供、お年寄りで多いのが、
イスの位置が低く、画面を見上げるような格好になっているケース。

だが、上目遣いは、疲れ目につながりやすい。
イスは高さが調整できるものにし、座面の位置を上げ、
床に足が届かないなら、足台を置く。

パソコンの設定も大切だ。
画面は、文字と背景のコントラストが強い方が見えやすいが、目は疲れやすい。
松本さんによると、購入したてのパソコンはコントラストが強めに設定されていることが多い。

「まぶしさを感じず、はっきりと文字が読める程度がちょうど良い」。
調整は、キーボード上でできる。

また、文字サイズは3ミリ以上が適当。
画面に付いたホコリや手あかも、見えにくさによる目の疲れにつながるので、
清潔に保つ。

(略)

(2010年8月6日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=28960&from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】 疲れないパソコン術 (2)目や体に楽な姿勢で☆


私がコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、
1969(昭和44)年の4月であった。
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして挫折し、
何とか民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んでいた時であった。

この当時は、パソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに結びんだディスク・トップを端末機として使用していた。

私達生徒は、概要の処理過程の流れ図を作成した後、詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んでいたので、
このような正しい姿勢などは余裕もなく、二の次であった。


その後、1970(昭和45)年4月に、何とか大手の民間会社に中途入社した後、
まもなくこの会社の中で、一部がレコード会社として独立し、
新たなるレコード会社に私も転属させられた後、
半年後に本社でコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などを大手の民間会社に何かと教示されて管理していた。

そして処理を委託していたIBMのデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい修正データなどを打ち込んだりしていた。
私は指定された時間に、データ入力する必要があったので、
このような正しい姿勢からは程遠かったのである。

この後、1983(昭和58)年からは、すべて自社処理となり、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ、ノート形を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら入力したりしていた。
そして運営の処理の指示、データ入力をしていたので、
やはりこのような正しい姿勢からは程遠かったのである。

そして20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機、或いは私が保有していたノート・パソコンを開き、
適時に入力したり、検索をしていた。

このノート・パソコンは、富士通のノートパソコン(『ウィンドウズ 98』)であり、
1998(平成10)年の夏に会社と自宅で使うので購入し、
自宅では居間の食卓テーブルなどで、表計算ソフトで、会社の資料を作ったり、
或いは日記ソフトで私自身の日記を書いたりしていた。


2001(平成13)年の秋になると、
定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。
富士通のディスクトップ(『ウィンドウズ XP』)のタワー型であり、
この頃の時代は、液晶ディスプレイが普及し始めたであったが、
迷ったりしたが安定性を配慮し、19型のフルフラットCRTとした。

そして、10年ぐらいは大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

しかし定年後の生活に備えたパソコンは、2006(平成18)年9月中旬に、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超えるので、
やむ得ず新製品の購入としたのが、現行機種なのである。

買い改めたのは、液晶の富士通のディスクトップとした。
ディスプレイはこの当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、ドライブはスーパーマルチ等で、
この当時としてはある程度最強版となっている。


私は定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
パソコンが故障、或いは国内旅行をしている以外は、数通は投稿している。
こうした時、散文ふうに綴るように努力しているので、
つたない脳裏から文章をつむぐことができず、ときには苦心惨澹たるする時もある。

こうした時は、とても正しい姿勢で考えながら文章を入力するのが、
程遠い姿勢となる。
ディスプレーの左側に、お盆の中の煎茶の湯のみ茶碗からお茶を飲んだり、
或いは玄関の軒下か、テラスに下り立ち、煙草を喫ったりして思案したりする。

このような考えたり、迷ったりして5年半ばかり、
デイスプレーに向って、キー・ボードに入力している。


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広島に向かい、午前中に二度ばかり黙祷をして・・。

2010-08-06 12:29:06 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となる。

しかし、少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして35年ちかくになる。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


今朝8時15分少し前、私の住む調布市では、
近くの高台の拡声器からは、
『広島に原爆を落とされた日です・・
皆様で・・亡くなわれて多くの人たちに・・哀悼の意を表して・・黙祷しましょう・・』
とゆったりと判りやすいように、伝えられた・・。

私は思わず、姿勢を正して、広島の方面に手を合わせて黙祷した・・。

その後、私は若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
本日の『広島被爆』はもとより、
6月23日の『沖縄慰霊の日』、
8月9日の『長崎被爆』、
そして8月15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』・・
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


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夏季休暇、私の現役時代の旅行は・・。 最終 作並温泉『一の坊』

2010-08-06 11:26:48 | 旅のあれこれ
1993(平成5)年の夏季休暇の夏季休暇で、
万座温泉『万座亭』滞在の旅行を終えた前後は
この当時、私が勤めいたレコード会社が統合し始めたのは5月初めであり、
何かと対応に多忙な時でもあった。

私のメモ帳を見ても、
10月9日~3泊4日 会社の結成記念旅行『台湾』
11月12日~1泊2日 友人の結婚披露宴 秋田の『富士屋ホテル』

翌年の1994(平成6)年に於いて、
2月9日~2泊3日 芦の牧温泉の『大川荘』
6月9日~2泊3日 湯ヶ島温泉 公民宿舎『翠嵐荘』
11月5日~1泊2日 家内の両親を誘い、伊東の『小湧園』

翌年の1995(平成7)年に於いて、
2月9日~2泊3日 湯西川温泉の『伴久ホテル』
6月3日~1泊2日 家内の両親を誘い、土肥温泉の『今井荘』
10月26日~4泊5日 勤続25年特別休暇
            石垣島の『日航八重山ホテル』連泊、本島の『サンマリー』、首里の『日航ホテル』

この後、1996(平成8)年に於いて、
8月初旬 3泊4日 作並温泉
8月下旬 2泊3日 熱海のビジネスホテルに宿泊し、『初島』、『大島』

と記して、あった。

この当時、私も人事異動で業務対応で多忙な身で、
私の母が入退院をしていたので、更に公私共々忙しい時であった。
この間、会社の慰安旅行は毎年1泊2日が恒例で、欠かさず参加したりしていた。

そして、1998(平成10)年に於いて、
一月中旬に私の母が死去し、
5月初旬に会社のハワイ旅行4泊5日に参加した後、
まもなくリストラ旋風となったりしていた。

この後、1999(平成11)年2月に於いて、
私は出向となり、関連先の物流情報センターで5年半勤務して、
定年退職を迎えた。
この間は、職場の業務関係で多忙で、とても夏季休暇で旅行は考えられなかったので、
せめてと思いながら年末年始の旅を始めたのである。


従って、私の現役時代の夏季休暇の旅行は、
1996(平成8)年の8月初旬に3泊4日で作並温泉を滞在し、
そして8月下旬に2泊3日で熱海のビジネスホテルに宿泊し、『初島』と『大島』を訪れた旅が最後となった。


ここで作並温泉の夏の旅を思い浮かべて、
この連載してきた【夏季休暇、私の現役時代の旅行は・・。】最終として綴る。

この当時、私達はJR東日本の旅行パンフレットを何かと見ていた。
そして、仙台市の郊外にある作並温泉は未知であったので、
夏季休暇を利用して、3泊4日で滞在し、周辺の観光めぐりをしょうとした。


上野駅から新幹線に乗り、たった2時間ばかりで仙台駅に到着したのは、
私はかっての国鉄時代の『L特急』大好きだったが、
新幹線の威力に改めて驚かされた。

そして在来線の仙山線に乗り継ぎ、仙台市の郊外の情景を眺めたりし、
『愛子』と名づけられた駅、街を思わず微笑んだりした後、
1時間弱で、作並駅に到着した。

駅前から宿泊先の観光ホテルの迎えのマイクロバスが待機して折、
私達は乗り込み、樹木の多い林の中を通り抜けると、
宿泊先の看板、そして建物が観えた。

http://www.ichinobo.com/sakunami/
☆ 作並温泉『一の坊』 ホーム・ページ ☆

広瀬川に沿ったゆるやかな傾斜に館内の露天風呂の数々があり、
私達はそれぞれの風呂を享受した。
そして川べりに近いところからは、広瀬川の清流に小魚が遊泳する情景も見られ、
水は清き、という言葉がぴったりだ、と私は家内に話しかけたりした。


この後、ホテルから数キロにあるラベンダーの丘陵に行ってみよう、
とロビーの外れで私達は話し合っていると、
ホテルのご好意でワンボックス・カーで送迎して下さり、私達はラベンダー園に行った。

このラベンダー園は、ゆるやかな丘陵に数多くの品種のラベンダーを育てられ、
私達は歩き廻り観賞させて頂いた。
そして休憩所を兼ねた軽食処は、広いテラス風で木のテーブル、椅子が、
ゆったりと配置され、もとよりラベンダー畑も見えるのである。

こうした中で、家内はラベンダー入りの紅茶を飲んだり、
ラベンダー入りのアイス・クリームを食べたりしたが、
私達夫婦はラベンダーの香りは強すぎて、苦手な身であったので、
微苦笑したりしていた。
そして私は、ビールを呑みながら、煙草を喫ったりし、
前方のラベンダーの丘を眺めれば、何かしら開放感がある。

この後は、ホテルの周辺を散策をしたりし、のんびりと過ごしていた。


翌日、本来であったならば、仙台の七夕を観に行かれる方が多かったが、
人の多過ぎるところは、なるべく避けていたので、論外であった。

或いは近くにある『ニッカ・ウィスキー』の仙台工場の敷地を歩いたり、
試飲させて頂いた後、私なりのお好みの品を購入する予定であったが、
仙台工場はお休みのようです、と教えられ、
私達はやむえず断念した。

こうした中、仙台市の駅前より、観光バスの定期周遊の半日コースで、
松島めぐりのコースがあり、私達は仙山線に乗り、駅前より私達は参加した。
そして松島で遊覧船に乗ったりし、海上の美景を楽しんだりした。


翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。

私は昼の風呂上り、何気なしロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。

数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。

《 らいねんもこのホテルに
     家族そろってこられますように 》

と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。

私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが心に沁みた。

そして私は華美な仙台の七夕より、遥かにこの短冊に魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたのである。


そして旅の終わりは、
仙台駅から程近い伊達政宗の廟所(びょうしょ)である『瑞鳳殿』を2時間半ばかりで、
観賞して、帰京した。


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