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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【下-2】最終

2009-12-05 16:03:36 | 真摯に『文学』を思考する時
         第四章

私は定年後の自身の思いを綴る予定であったが、
先程、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
作家・瀬戸内寂聴さんが10月27日に千葉県・柏会場に於いて、
講演「強い心で、自分らしい生き方を」の三回目の連載を知り、深く精読したのである。

そして優先的にこの講演の内容を転載させて頂く。


(3)本や新聞を読まなきゃダメ!

本を読まなければ、人は成長しないんです。
本というのは脳の肥料です。
私たちがご飯を食べるのは、自分の体に対する肥料が必要だから食べるんです。
それと同じように、頭にも肥料を与えないと絶対だめになるんです。
ですから人間に生まれた以上は、本を読まないと脳は成長しないんです。

成長しないと分かっているのに、今の若い人たちは本を読まなくなった。
これは教育が悪いんです。
本を読ませようとしない。
面白い本を教えない。
本を読むとどんなに楽しいか、どんなに自分が成長するか
ということを教えない教育がずっと続いたんです。

目にみえるものしか信じなくなったんです、戦後の日本は。
戦争に負けて、焼け野原になり、まず家が欲しい、
着るものが欲しい、飾るものが欲しい……と、
目に見えるものを欲しがるようになりました。

目に見えるものが欲しいから、お金、お金、というふうになる。
物質偏重になって、そのため精神がお留守になって、脳の働きが鈍くなってきた。


今の国民は私たちの子どもの頃にくらべて、本当に知能が低下した。
しかしその危機にすら気がつかないで、こんなふうにダメになってしまったんです。
私の子どもの頃は頭の良さは世界でも1位といってもいいほど自慢していたんですけど、
今では東洋でもビリから何番目という感じでしょう。
非常に情けない状態です。
これを再生させるには、やはり食べるものも大事ですけど、
頭に、脳に栄養を与えることを奨励してあげなければいけません。

昔はろくに小学校に行けない子たちはたくさんいましたが、字を覚えることはできたんです。
どうやって覚えたか――。
新聞を読んで覚えたんです。
新聞の中に漢字が今よりたくさんあって、全部ルビがふってあった。
そのルビを読んでその漢字を覚えたんです。
だから昔の人は学校を出ていなくても文字を知っていたんです。
ひとかどの人物になったら、素晴らしい文章が書けた。
そういう人たちがいっぱいいた。

今ではろくに文章を書くことができない若い人たちがたくさんいますね。
非常に恥ずかしいことなんです。


テレビと違って、新聞は残るからいいんです。

私は5紙、新聞をとっているんですけど、同じ一つの事件でも新聞によって見方が違うんです。
社説を見ると分かります。
それから扱いを見ると分かります。

私のような商売をしているものは、新聞一つじゃ駄目なんですね。
この事件をどういうふうに見ているかということを並べてみて、
その中から自分はこれが正しいというのを選ばなければならない。

自分の考えにしなきゃならない。
だから新聞をたくさん読まなきゃいけないんですよ。
ホテルでも少なくとも三つは新聞を入れてもらってます。


テレビは、早く知るにはいいかもしれません。
この間の衆院選挙の時なんかは、当選した人、落ちた人の顔を見るだけで面白いですよね。
だからついテレビを見てしまいますけど、
じっくり情勢を考えるにはテレビでは素通りしてしまって駄目なんです。
新聞はじっくり自分で考える時間を与えてくれるんです。
そうやって考えることで脳は老化しません。

新聞が軒並み売れなくなる日が来るかどうか、分かりません。
という不吉なことを言って、私は謝礼をもらえないかもしれません(笑)。
世の中そういうものなんです。
新聞がなくなるような日が来たら、その国はなくなるでしょうね。

庶民の考えをすくいあげて発表するのが新聞でございます。
こんなに不景気になったからいろいろなものを削ろうと考えるでしょうが、
新聞から削ろうと考えるのはやめてください。
読まないでも新聞をとっているっていうのはかっこいいじゃないですか。
郵便受けからはみだしてるのかっこいいじゃないですか(笑)。

やはり人間は活字離れをしたらダメな気がします。

(2009年12月4日 読売新聞)


注)講演の記事としてここまで掲載されたすべてを転載させて頂いたが、あえて改行などを多くした。


私は読書を第一趣味として年金生活を過ごしているが、
このサイトの2005(平成17)年10月27日に於いては、
【文字・活字文化の日』と私のブログ・・♪】
と題して投稿している。


今朝、読売新聞を見ていたら、本日は『文字・活字文化の日』と綴られていた。
何故、この日がこうして制定されたのか解らないが、
多分、本日から11月9日まで読書週間にちなんで命名したと思う。

私は活字による文字を読む新聞、雑誌、小説、随筆、教養の歴史学、現代史などを読むのが好きである。

言葉から文字へと人々の営みの中から、
文明が生まれ、その中の一部として、文化が発生している。

綴る創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれの人々が受けとめ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
私なりの感性と感覚で創作者から導かれながら、その世界に思い馳せるこの魔力を高校生の時から愛好している。

私は伝える手段として、たとえばブログなどを活用して、文字のみで投稿し発信しているのは、
この理由に他ならない。

写真、飾りを付けられている方が多いが、私は今後も文字のみで表現する手段としたい。
私の綴づった内容が充分に伝わらなかった時は、私の文章修行が未熟であることに他ならない。


このような私なりの思考が根底にあり、何よりも読書は欠かせない日常を過ごしているのである。



         第五章

私が定年退職後、ただちに年金生活を過ごした理由のひとつとして、
このサイトに2009(平成21)年8月22日に於いて、
【 改めて、私なりのブログと自己存在感・・。】
と題して、あますところがないような心情で発露している。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨日、【『ネット検索、月間4775万人…6年で3倍・・』の記事、私は読んだ後は・・。】と題して投稿した。

そして、この投稿文の結文の前に、
【・・
私は退職後の年金生活で驚いたのは、
ブログの飛躍的な利用者の増加であり、私と同様に、心の思いを自己発信する人が多いことであり、
そして2007年6月より、【YouTube】に於いて、日本語版を開始し、
音楽のバンドラの箱が開けられた、
と思いながら音楽の曲が大半自在に聴くことができたことである。
・・】

と綴ったりした。
命題の検索の急増はもとより、私は日常にブログは欠かせない存在であり、
ときおり【YouTube】に於いて、音楽を甘受しているが、
昨夜の深夜に、私はとってはブログはどのような存在なのかしら、
と考え込んでしまったのである。

私は2004(平成16)年の秋にある民間会社を定年退職したのであるが、
まもない時、ブログの世界を知り、
あるサイトに加入して、2005年2月7日に於いて、
『ブログと自己存在感・・。』と題して、投稿していた。

【・・
ブログが昨今に急速で、加速されたかのように広がっている。
何故、これほど話題になり、注目され、利用されているか、
私が利用した理由を書き込めば、ひとつのヒントになると思ったりしている。

昨年の秋の定年退職の前後、私はホーム・ページを立ち上げようとしていた。

理由として、この星の下で生まれ、育ち、何を考えて、やがて死んでいくことに、
生きたいたことのひとつの証(あかし)を残していきたい、
と思ったのである。

ホーム・ページの場合は、原則として実名公表なので、
政治・外交・軍事・社会・宗教・文化等の公表に、
著名人でない上、これといった専門知識がない素人の私には、一種のためらいがあった。

私の好きな山川草木のよしなごとは書けても、
身過ぎ世過ぎの年金生活の日常を過しているので、文章にほころびが生じる、と思ったのである。

世の中の専門知識を有する学者の随筆は、
論文等、或いは大学教授としての前提で、一面の遊び、としても綴ることが出来るので、
私のような素人としては、こうしたためらい、たじろいがあり、
開設したところで、来訪者が少なく、
そのうちに自身が書き続けられるか、と自問したのである。

こうした折、ブログ、ブログに準じた簡素なホーム・ページのブログを知ったのである。

ブログの場合は、匿名が圧倒的に多く、ある程度の心の節度があれば、
公表できる利便性の要素が十二分ある。

新聞、雑誌の投稿には、それぞれの発行元の編集部などのの見解のもとで、
掲載が決められている現状であるが、
このブログの場合は、ある程度の節度があれば、何の制約も無く、
その方の自身の政治・外交・政治・軍事・社会・宗教・文化等の分野の思いでも、
自在に公表できる。

そして一旦発信されたならば、当人が削除しない限り、
この星の下で存在し、ある一面、怖いところも付随するが、
読まれるか、無視されるかは別問題として、確実に残るのである。

そして誰にしても、ある程度の知識があれば、日常生活を綴っても、
自己の存在感を提示できる世界がブログ、と思ったのである。

ここで思い出したのであるが、十五、六年前、腰痛が酷く、救急車にお世話になり
三度目の入院となり、徹底的に治療に専念しょうと観念し、
一ヶ月近く、入院していた時であった。

病室のベットに休んでいても、周囲の社会は順調に動いて、
自分の存在は一体どこにあるのか、ということであった。

私はこの時、シンガー・ソングライターの中島みゆきさんを熱愛していた時期で、この中で特によく聴いた曲がある。
ベットの中で、腰を牽引しながら、CDウォークマンで何度も聴いたりしていた・・。
慰め、救い、そして再起への励みを頂いた曲を転記させて頂く。


       『永久欠番』   作詞・作曲  中島みゆき

♪どんな立場の人であろうと
 いつかはこの世をおさらばをする
 たしかに順序にルールはあるけれど
 ルールには必ず反則もある
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 100年前も 100年後も
 私がいないことでは同じ
 同じことなのに
 生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
    かけがえのないものなどいないと風は吹く

    (略)

    100億の人々が
    忘れても 見捨てても
    宇宙(そら)の掌の中に
    人は永久欠番
    宇宙の掌の中
    人は永久欠番

【 『永久欠番』 作詞、作曲・中島みゆき、 編曲・瀬尾一三、 唄・中島みゆき 】

この中島みゆき女史は、私にとってこの星の下での女神である確信し、
現在でも、希有な存在感を提示できる人であり、敬愛をしている。

・・】

このような歌詞の転載がもとより著作権に抵触するかは解からなかったが、
自己存在の証(あかし)の思いが強く投稿したのである。


私はこの投稿文を深夜に読み返し、自身の定年後の心の思い、揺れを振り返ったりした・・。


私は定年退職するまでは、屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に小さくても少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観視にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、もとより短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


このような思いが、つたないなりに私は秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日数通ぐらいは投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影があるので、
余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。


このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
年金生活は暇、安楽というのは私にとっては死語である。

長々と綴ったりしたが、最後に信愛している中島みゆき女史に敬意し、
『HAFE』、『エレーン』に続き、最も感銘している『永久欠番』を掲げることにする。

この『永久欠番』は、『歌でしか言えない』と題されたアルバムの中で、
六曲目に選定された曲で、1991年10月23日に発売され、
私の人生観に影響を受けた稀(まれなアルバムのひとつである。

【YouTube】に投稿されたお方の中で、特に魅了された方から拝借させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=720iyPtOQRc
☆【 『永久欠番』 作詞、作曲・中島みゆき、 編曲・瀬尾一三、 唄・中島みゆき 】☆


                             《終わり》



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作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【下-1】

2009-12-05 09:20:46 | 真摯に『文学』を思考する時
         第二章

ここで作家・瀬戸内寂聴さんが10月27日に千葉県・柏会場に於いて、
講演「強い心で、自分らしい生き方を」の内容を転載させて頂く。

もとより「創刊135周年スペシャルフォーラム」として、
「自分らしさ」「がんに打ち勝つ」「艶のある人生」の3つをテーマに、
8月から11月まで、全国10か所で開催してきた中のひとつの講演である。


(1)小説家への道

すべてが移り変わる世の中で、だんだん新聞が読まれなくなっています。
その中で、読売新聞は一番部数を誇ってまいりました。
私も2度ほど連載小説を書かせてもらいまして、
「たくさんの人に読まれるんだ」
といううれしさと誇りと気負いがございまして、一生懸命書いた覚えがあります。
最近は全然お声がかかりませんが…(笑)。

また、読売新聞は文学にたいして非常に熱心でありまして、
「読売文学賞」というのがございます。


私は小説家になる前に、福田恆存(ふくだ・つねあり)さんという、
その頃一世を風靡(ふうび)していた素晴らしい評論家と出会いまして、
福田さんの奥さんになったのが私の女子大の1年先輩。
非常に美しい人で、私も一方的にあこがれておりました。
その方が、卒業と同時に福田さんの奥様になって、私は卒業してすぐに北京に行きました。
私もその時は結婚しておりました。


福田恆存さんが新進気鋭の評論家だと知ったのは、帰国後です。
これはちょうどいいと思い、私が小説家になりたいからということで、
下手な小説を奥様を通して送りつけまして、
そしてモノになるかどうか読んでもらったことがあったんです。
当時、私は京都に住んでいたんですが、何かの間違いで、
その返事が私の徳島の実家に届いたんです。


その頃、母は防空壕(ごう)で死んでおりまして、
父は生きていたのですが病気で働けなくなって養生していたんですね。
退屈しているところへ福田さんからの手紙が届きました。
父は無教養で他人の手紙も平気で開けてもいいと思う古い人間で、
結婚している私のところへ男の名前の手紙が来たものですから、
怪しいと思って勝手に開けて読んでしまったんです。

すると、「あなたの原稿を見た限りでは、モノになるとも言えない、ならないとも言えない」
と書いてあったんです。
それを読んだ父が、晴美(旧名)の馬鹿が小説家になろうと考えているようだが、
この偉そうな先生のお返事によると……
「モノにならない」という方に重点を置いてとったようなんですね。
こんなやつに仕送りをする必要はない、というので、
それから私に仕送りをしてくれなくなったんです。

私はその手紙を見まして、「モノになる」という方に重点を置いて、
「やってもいい」と考えて小説を書くことにしたんです。


読売文学賞への思い

その福田さんが読売で文学賞をおもらいになったんです。
その時、私は東京におりまして、小説を書こうとしておりました。

私が文学少女の出来そこないみたいなものですから、それを知っておりまして、
福田さんが初めて読売文学賞をとる時に「いらっしゃい」と呼ばれたんです。
私もいそいそ出かけていきまして、読売文学賞なるものを見て、
「私もいつかあれをもらおう」
とうっとりと見ておりました。

会が終わり、楽屋で福田さんを待っておりましたところ、
小説家の阿川弘之さんが同じく文学賞をおとりになっていて、福田さんと2人一緒に出てきたんです。
そして3人で会場の近くの喫茶店に行ったんです。


福田さんは私を阿川さんに紹介してくださいました。
みんなが欲しがる読売文学賞をもらった偉い評論家と小説家がどんなことをするのだろうかと興味があるので、
私はじっと見ていたんです。
立派な紳士の2人は、私がそばにいることを忘れて、
「もらった副賞の中身を見ませんか?」
とニコニコして話しているんですよ。

家に持って帰るのが待ちきれないで、コーヒーが運ばれてくる前にその場で包装紙をむいて、
中から取り出してみると、万年筆だったんですね。
それを見せ合って、子どものような顔をして喜んでいたんです。

その時、読売文学賞の素晴らしさを身にしみて初めて知りまして、
そして「いつか私も」と誓ったんです。
その後、どうにか小説家になりまして……30年間、賞らしい賞をもらったことがないんです。

よく辛抱したなあと思います。
とにかく名前も知らないファンたちが私の小説を読んでくれて、
支えられて書き続けてこられたのだと思っています。
阿川さんも福田さんも偉くなっていかれましたが、
その頃には私も小説家の端くれとして同等のお付き合いができるようになっていったんですね。

いろんなことを教えていただき、いろんなことを情報交換し、年月が流れました。
福田さんはもう亡くなられました。
阿川さんはご健在ですが、私にとっては残り少ない同世代の作家ということなんですね。


私は自分に賞をくれない表彰式には行かないことにしているんです。
授賞式の案内が来ることはあるんですが、ほとんど行ったことがないんです。
読売文学賞もくれないから「誰が行くもんか」と思っていたんですよ(笑)。

ところが、そのうち私よりうんと若い山田詠美さんが受賞し、
同時に伊井直行さんももらったんです。
私が早くから認めていた作家さんで、好きな2人が賞をもらったので、
「行ってみるか」と思って読売文学賞に出たんです。
福田さんと阿川さんが受賞して以来なんです。
当時よりずっと賞は大きくなっており華やかになっていました。

その時、読売側からごあいさつがあったんです。
渡辺恒雄さんがおいでになって、読売文学賞がいかに立派な賞かということを話し出したんです。
「だいたい今活躍している作家で読売文学賞をもらわない人は一人もいない」
「読売文学賞をもらわないような作家はだめだ」
っておっしゃったんですよ。

それで私はムカムカッときましてね(笑)。
授賞式が終わり、雑談などになった時、
私は辛抱しかねて渡辺さんのところに歩いていって、
「わたくし、もらっていません!」って言ったんですよ。
「私は作家じゃないんですか?」と聞くと、
「あなたにはとっくにあげたんじゃないの?」と言われまして、おたおたして困っていました(笑)。
でも、今ももらっていません(笑)。

でも、私が思う才能のある作家はどんどん賞を貰って、
それを土台にして、ますますいい作家になっていますから、
読売文学賞は文学賞の中でも非常に権威のある、貰っておかなければ一人前じゃない、みたいな賞なんですよ。

ですからこの中にも将来小説を書こうと思っていらっしゃる方が何人かおられると思います。
やめたほうがいいですよ(笑)。

それでも、書こうと思っている方は、
いつか読売文学賞をもらいたいと思ってお書きになるのがいいと思います。
私も「今度はくれるかな」と思って、励みになりましたよ。

(2009年12月2日 読売新聞)



(2)小説家で食べていくことの難しさ

私は5月15日が誕生日なんですが、いま満87歳なんですよ。
数えだと今年のお正月で88なんです。

私は大人の小説を書く前に少女小説も書いていたんです。
だからその時間をいれると60年近くペン1本で食べております。
ほかのことで生きたことがありません。

私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、
源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。


私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
円地さんと同じように、私も源氏物語の現代語訳をやらせていただいたのですが、
円地さんのもの、谷崎潤一郎さんのもの、与謝野晶子さんの訳したものを机に並べて、
それと同じようにならないように訳したんですね。

ですからそういう風に3人を無視できなかったように、
これから訳す方は私の訳を無視して訳すことはできません。
私よりわかりやすく、より現代の人に魅力のあるように新しく訳すかということですけれども。
まあ、何も見ないで訳す方もいらっしゃるかもしれませんが、そういうのは売れません。


文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。

しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。


私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。
目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだんもちきれなくなっている。


新聞社も大変なんです。
今日(のフォーラムへの参加)はただ?(笑)。
さらにさらに、みなさんに新聞を読んでもらおうと思ってこんなことやっているんですよ(笑)。
もっと大変なのが出版社。出版社も本が売れなくなっています。

(2009年12月3日 読売新聞)

注)講演の記事としてここまで掲載されたすべてを転載させて頂いたが、あえて改行などを多くした。


現状、『小説家』と自称している方は、少なくとも5000人はいると思われるが、
筆1本で小説だけで生活をしている方は数100人ぐらいと思ったりしている。

ある程度の自身の感性と感覚が独創的と思い、小説をこよなく愛読している方の大半は、
一度は小説を書き発表して、人から認められたい、という欲望がある、
と私は思っている。

たとえば大学の文学部の国文科を学んだ人の多くは、このように欲求ずある、
と思ったりるが、殆どの人は数作品を創作されるが、やがては挫折する。

あるいは他分野で小説家を目指して、習作を重ねても、
自身の生活面で追われて、挫折するのも多いのである。

こうした中で、ごく稀な人だけが小説家として創作活動をされ、更に発表しつづけ、本が売れて、
筆1本だけで生活をされる小説家は、ほんのわずかな人である。

改めて、作家として筆1本だけで60年を生活されてきた瀬戸内寂聴さんの講演で発露された言葉は、
このように感じたのである。


         第三章

私も若き頃、映画・文学青年の真似事をして、その後は小説家を夢みたが挫折したひとりである。
私はこのサイトに於いて、このような心情を痛切であったが、懺悔のように発露して綴ったことがある。

今年の10月30日に於いて、
【  我が人生、ほろ苦(にが)く切ない青年時代は・・。 】
と題して投稿している。

【・・
(略)
私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=hzNZzMGeRQs
☆【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】☆



このような綴っているのであったが、
今の私は年金生活をして、このサイトに殆ど毎日のように散文として綴っているが、
こうした私なりの思考は次章以降に発露する。

                               《つづく》





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