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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、ときおり私が月を眺めたりする時は・・♪

2009-05-17 17:44:52 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
夜のひととき、玄関庭に下り立ち、煙草を喫ったりしている。
そして、ときおり月を眺めながら、満月に近い時などは、
月もにっこりと微笑(ほほえ)でいる、と私は感じながら思わず微笑させられたりしている。

ある時、星がきらめている付近に三日月を眺めたりした。
私が三年前の秋頃は、三日月を見ると、絢香(あやか)ちゃんだ、
と呟(つぶや)いたりしていた。

ご年配のお方の一部には、お解かりにならないと思うが、
若き女性でシンガーソング・ライターして折、
初期の頃は『三日月』などの名曲を発表された才気あふれるお方で、
私は久々に優れた感性のある人と直感し、魅了された人である。

この絢香(あやか)ちゃんに私は魅せられた頃、
私はあるサイトに【 秘かに、絢香という歌手に魅了・・・♪ 】と題し、
2006年11月5日に投稿しているが、一部を再掲載をする。

【・・
この三ヶ月、ラジオなどで絢香という歌手の歌声に魅了されている。

私は定年退職後の年金生活をし、齢を重ねた62歳の身である。

私は日頃から音楽も好きであるが、
ここ5、6年は若手の音楽には興味を薄れている。

・・

先程、ヤフーの無料動画で、
絢香(ayaka)の『I believe』、『Real voice』、『三日月』の三曲を視聴したが、
歌詞と歌声に改めて魅せられている。

何が好いかといわれても、男女の間の恋しさと同様に、
感覚、そして感性の問題である。

62歳の齢を重ねた身であるが、
ブームなどという浮ついた時代を超える名曲のひとつ『三日月』を
改めて毎晩視聴するつもりだ。
・・】

このように熱中していたひとりであった。


今の私の心は、絢香ちゃんの世界からは遠ざかっているが、
月を眺めれば、過ぎ去った日々に思いを馳(は)せたりしている・・。

私は齢を重ねた64歳の身であるが、
それなりに幾たびの出来事を思い返したりし、微苦笑をしている。

そして時折、ほのかな思いに心を寄せたりし、
私はそれぞれの時節の月から享受をさせられている。

古人の時代より歌人達が、月を眺め哀歓を寄せたりして、
詠(よ)まれた歌が数多く残されている。

あの頃から長い歳月が過ぎているが、人の心は変らぬ思いがあり、
私なりに月に眺むる時、ときおり残されている名歌を心の中で呟(つぶや)き、
心を寄せたりしている。


巡り逢ひて見しやそれとも
     分かぬ間に雲隠れにし夜半(よわ)の月かな
        
                    作者・紫 式部


秋風にたなびく雲の絶え間より
       漏れ出づる月の影のさやけさ

作者は・・確(たし)か・・左京太夫・・あきすけ・・だったかしら、
と思い返したりしている。


私は月は眺(なが)むることであり、月に行き探検されるなどは、
私にとっては論外と思っている。

そして私は科学などの発達より、
何よりも情緒や情感をこよくなく大切にし、日々を過ごしている。


最後に、齢を重ね年金生活の私さえ、感動を頂き、
瞬時に綾香(あやか)ちゃんの歌詞と歌声に魅せられた『三日月』に敬意をし、
添付させて頂く。

【 『三日月』 作詞・綾香、作曲・西尾芳彦、唄・綾香(ayaka) 】

http://www.youtube.com/watch?v=cGGIBgCuTTs





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私の人生の応援歌のひとつは、『旅の夜風』・・♪

2009-05-17 01:01:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
私は時折、苦節した時などに口づさむ歌がある。

現役時代のサラリーマン時代だった時、業務で苦戦した時とか、
親戚との確執にさいなまれた時など、ときたま唄ったりした。


♪花も嵐も 踏み越えて
 行くが男の 生きる道
 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
 月の比叡(ひえい)を 一人行く

【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】


と心の中で唄ったりして、自身を慰め、そして励ましたりしていた。


私が小学三年の春、祖父が亡くなり、
その前年に父に死去されて、母は私を含め五人の子供が残されたので、
母がよく鼻歌を唄ったりしていた。


♪優しかの君 ただ独り
 発(た)たせまつりし 旅の空
 可愛い子供は 女の生命(いのち)
 なぜに淋しい 子守唄

【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】


この頃は、ラジオからよく流れていた、と子供心に記憶がある。


家内は戦前、戦後の歌謡曲は、私より詳しい。
家内の父が歌謡曲が好きで、唄に自信を深めていたので、
家の中、勤務先の交際の折、よく唄っていたらしい。

時折、こうした歌を私が鼻歌を唄ったりすると、
家内が、NHKの『素人のど自慢』の鐘の音を真似て、
『カァ~ン』と微笑みながら、云ったりしている。


私は人生の苦節の折、よく鼻歌として唄ったりし、心の中で唄ったりし、
励まされる貴重な唄のひとつである。


尚、この歌が昭和13年に上映された松竹映画の『愛染かつら』の主題歌であり、
原作が小説家・川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載された、
と知ったのは恥ずかしながら5年前であった。



【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】
http://www.youtube.com/watch?v=YRJvKrI76MU





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ときには、『白い花の咲く頃』を鼻歌で唄いながら・・。

2009-05-16 22:42:04 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
曇り空の中、庭の手入れをする為に9時過ぎに下り立った。
家内は初夏の衣料準備をしているので、お互いに孤軍奮闘する日中でもある。


玄関庭から樹木の剪定をしたり、草抜きをしていたが、
紫露草(ムラサキツユクサ)、秋海棠などこの時節から容姿を現(あらわ)し、
初夏から彩る草花に微笑んだりしていた。

主庭にある小判草(コバンソウ)は、麦穂の色合いのように薄緑色から淡い黄金色に染められ、
半化粧(ハンゲショウ)と唐糸草(カライトソウ)は成長しはじめ、
アメリカン芙蓉(フヨウ)も姿を現して二週間が過ぎ、伸長している。

そして、伊予柚子(イヨ・ユズ)がたわわに白い花を咲かせて折、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草抜きをしていた時、


♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


思わず鼻歌を唄っていたのである。

♪さよならと 言ったら
 黙って うつむいてた
 お下髪(さげがみ)
 悲しかった あの時の
 あの 白い花だよ

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】

私が小学校に入学する前の年、ラジオから盛んに流れていて、
幼児なりに心で覚えてしまい、
その後、白い花を見ると、何かしら鼻歌を小声で唄ったり、
或いは心の中で唄ったりしている。


この後、歩道に面した垣根の周囲を草抜きをしながら、


♪白い雲が 浮いてた
 ふるさとの 高いあの峰

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


と鼻歌を唄っていたら、人影を感じたので、見上げたら、
近所で見かける小学4年生ぐらいの男の子が立ったいた。

『おじさんの唄っている歌・・
 うちのお爺ちゃん・・よく唄っているよ・・』
と男の子は私に云った。

『そぉ・・じゃ・・君のお爺ちゃん・心清き人だょ・・
 私とお友達になれそうだょ・・よろしく云っていてね・・』
とお調子者の私は男の子に云った。

男の子は少し首を傾げたが、少し微笑みを浮かべて立ち去った。


この後、私は心の中で、

♪さよならと 言ったら
 こだまが さよならと
 呼んでいた
 淋(さみ)しかった あの時の
 あの 白い雲だよ

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


と唄ったりした。


そして、私は午後4時過ぎに疲労困憊となり、作業は中止とし、
お風呂に入った後、昼食を抜きだったので、早めの夕食としたのである。
そして、居間の食卓テーブルから、わずかに見える伊予柚子の白い花を眺めたりし、
微笑んだりした。


【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】
http://www.youtube.com/watch?v=DGYq9QSq1eQ




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『母の日』には、私なりに『ハナミズキ』の歌を心の中で唄い・・♪

2009-05-09 13:02:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
過日の6日の夜10時からNHK総合で【SONGS】を視聴した。
この番組の今回は『SONGSスペシャル 女性ヴォーカリストBEST』と題して、
番組のナビゲイターとして永英明さんが進行を進め、唄い、
こうした中で麗(うるわ)しき七人の女性が、その人となりの魅力ある歌を唄っていた。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-05-06&ch=21&eid=31989

私は最も魅了を受け、感動したのは、
一青窈さんが『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・
この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったのである・・。


私は小学2年の昭和28(1953)年に父に病死され、
母の下で兄ふたり、妹ふたりの中で育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服の買う時に足しにして頂戴、
といくばくかの現金を包み、母に手渡したりし、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去れた。
古来より男は父親に対してはともすれば忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
私もときおり母の言葉やしぐさを思い出されている。
そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
家内が何より母を信頼した言動をしてきたので、家内は母に可愛がれたりしたのが、
せめての私の救いとなっている。


私達夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、
ときおり国内旅行をしてきた。

私の定年退職の直前に家内の父が亡くなり、
独り住まいとなった家内の母と私達夫婦は、年に数回は国内旅行に行っている。
そして、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多い。

今年の春先、鹿児島の知覧の特攻平和会館を観たいわ、
と家内に行ったりしたので、
私達夫婦は、少し『母の日』には早いが、鹿児島市内・霧島温泉に4泊5日で行き、
この間のひとときに家内たちは知覧の特攻平和会館を訪れたのである。


このような思いが私なりにあり、一青窈さんのメッセージを聴いたので、
今年の『母の日』には、私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと決意したのである。

今朝、あるサイトで【SONGS】の番組を視聴され、
私と同様に一青窈さんのメッセージに感銘を受けた女性が『ハナミズキ』と題された投稿文を拝読し、
私は思わず微笑んだりした・・。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/masamikeita/diary


♪ひらり蝶々を
 追いかけて 白い帆を揚げて
 母の日になれば
 ミズキの葉 贈って下さい
 待たなくもいいよ
 知らなくてもいいよ

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

私はかって永英明さんがこの『ハナミズキ』をシルキー・ヴォイスの魅力あふれる声で唄っていたけれど、
無念ながら彼のように唄えないが、私なりに心を込めて精一杯唄うつもりである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

ここまで唄うと、たぶん私は涙ぐんでしまうかしら、と思ったりしている。


尚、私は齢を重ねるたびに、『ハナミズキ』の歌に愛惜感が深まって折、
いままで聴いた10数人の歌い手の中、最も心酔できたのは、
このおふたりが共に唄われた曲である。


http://www.youtube.com/watch?v=Fk7ldepb3Zw




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午前のひととき、思わずアグネス・チャンの『草原の輝き』を心の中で唄えば・・。

2009-05-04 17:36:35 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
いつものように家内からスーパーのチラシを渡されて、
独りで買物に出かけた。

皐月晴れに恵まれた大型連休で幾分閑散とした中、歩道を歩いたりしていたが、
川の橋のふもとで足を止めて、
せせらぎのような水の流れ、川辺に草が帯状に生い繁ったりしている情景を眺めたりした。
ときおり、微風が吹くと、草が揺らいでいた。

この後は歩道を歩き出すと、歩道と道路のグリーンベルトに
白と薄紅色の躑躅(つつじ)が咲いていた・・。

このような情景を眺めながら歩いていると、

♪居眠りしたのね いつか
 小川のせせらぎ きいて
 レンゲの花を 枕に
 今 目がさめた

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】

と私は心の中で唄いだしたのである。


どうしてこの歌なのと思いながら、たわわなツツジの花が咲いている情景を観たり、
戸惑ったりし、苦笑しながらも、
続けて心の中で唄ったりしたのである。

♪恋しい気持ちが 夢で
 逢わせくれた あの人
 君は元気かと聞いた
 手を振りながら

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】


私はカラオケは苦手の身であるが、サラリーマンの現役時代には、
ある程度のおつきあい程度は唄ったりしたが、
このアグネス・チャンのような清純な乙女の歌は唄った記憶にはなかったが、
心の隅に覚えていて、川辺の情景に魅せられて、
思わず心の中で唄ったのだろう・・。

♪今 涙をかくして風の中
 ひとりゆけば はるかな
 私の好きな 草原

【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】

確かこのような歌だったよなぁ、と思い出しながら、
心の中で唄ったりしていたら、スーパーの看板が見えたので、
私は気持ちを切り替えた。


このアグネス・チャンの『草原の輝き』が街に盛んに流れていたのは、
昭和48(1973)の7月を過ぎた頃であった。
この頃の私は、あるレコード会社の本社で、管理畑のコンピュータの専任者として勤務していたが、
シャンソンに熱中していて、余りヒット曲の動向には無知な方だった。

私がつたないなりに知っていたのは、
この少し前までは天地真理がヒットチャートの連続首位を重ねた後、
麻丘めぐみの『わたしの彼は左きき』、チューリップの『心の旅』、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』、
西城秀樹の『ちぎれた愛』、南こうせつとかぐや姫の『神田川』等の中で、
このアグネス・チャンの『草原の輝き』は大いに健闘していた、
この程度であった。

私の勤めた会社は、アグネス・チャンの所属した会社とは、ライバル関係であり、
ある時に所用で、レコード会社の協業の物流倉庫に会議に出席した折、
通路の壁面にアグネス・チャンのつぶらな瞳であどけない表情を浮かべ、
提灯袖の可愛いミニドレスの容姿の大きなポスターが何枚にも貼られていた。

私は何気なしに見て、アグネス・チャンかょ、と
ライバル会社の清純スターの名を心の中で呟(つぶや)いたりしていた。


あれから少なくとも35年以上の歳月は流れ、
私はNHKのテレビで偶然にアグネス・チャンを視聴したりすると、
あどけなさの表情を残こしながらも、確かな大人の女性の品性を秘めたアグネスに
好感しているひとりである。

余談であるが、アグネス・チャンの『ひなげしの花』、『小さな恋の物語』等もあるが、
私は『草原の輝き』が一番に魅了されている。


【 『草原の輝き』 作詞・安井かずみ、作曲・平尾昌晃、編曲・馬飼野俊一、唄・アグネス・チャン 】
http://www.youtube.com/watch?v=HCg7qDE3D2U




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私が皿洗いをする時、思わず鼻歌を唄い・・♪

2009-04-28 09:18:12 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
我家は家内と2人だけの家庭であるが、
家内は独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

高齢者の家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回は22日(水)~30日(木)となり、8泊9日で家内は孤軍奮闘しているのである。


私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、食べたりしている。

こうした時、台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、皿洗いをしたりしている・・。

前掛けをして、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。

昨日もしていたのであるが、この時どうした心境が解からないが、

♪嵐も吹けば 雨も降る
 女の道よ なぜ険(けわ)し
 君をたよりに わたしは生きる
 ここに幸あり 青い空

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄いだしたのである。

私は苦笑しながら、私の小学五年生の時にラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない、と思ったりしていたが、
思い出すように、

♪いのちの限り 呼びかける
 こだまのはてに 待つは誰
 君に寄り添い 明るく仰ぐ
 ここに幸あり 白い雲

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄ったりしたのである。

私はカラオケは苦手であるが、現役時代におつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、唄ったこともないのである。

私の少年期に聴いた曲が心の隅にあったのかしら、
と少し照れたりし、戸惑ったのである・・。


【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】
http://www.youtube.com/watch?v=nio-JzYf3UY&feature=related


こうして、皿洗いをして、台所を清めると45分前後の作業だったが、
成果のある小綺麗になった台所を見ながら微笑んだりした。

この後、私は居間にあるパソコンに向かい、
このサイトで昨年の今頃はどのようなことを綴っていたのかしら、
と読み出したのであるが、思わず微苦笑したのである。


昨年の4月27日に於いて、
【 皿洗いの時、ロックが最適・・!? 】
と題して、投稿していたのであり、少しためらいもあるが、
再掲載をする。

【・・
家内が留守なので、昼食後のひととき、
私は台所に立った。

台所のひとつの戸を開け、そして前掛けをして、腕まくりをした後、
皿洗いなどをしたのであった・・。

CDラジカセを持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。

少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったのである。

心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境である。


♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】


この後、台所専用の洗剤で皿などをこすった後は、
水洗いを盛大にしたのであるが、


♪もう二度と届かないこの思い
 閉ざされた愛に向かい
 叫びつづける

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】


この歌は私は小声であるが、
ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。

この名曲は、ロックバンドのX JAPANであり、
この歌はある時代には、高校野球の応援歌で、演奏されたりしていた・・。

私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、
唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。

余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、
小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。

この後、台所の戸を開けていたので、
煙草を喫いはじめていたら、
玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』鳴り出し、
私は玄関が見える窓から、そぉ~と見たら、
30前後の綺麗なご婦人が幼児を伴い、立っていた。

私は自治会の役員のお方が、
共同募金の収集でお見えになったのだ、
と解かったが、前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、
少しあわてたのである。

そして、私は『はぁ~い』と大声で云いながら、
前掛けを取り、応対したのであった・・。

私は15分ほど早かったら、
X JAPANと共に、小声で唄っていたのであるから、
見せられる格好でなく
今であってよかったよ、と呟(つぶや)いたのである。
・・】

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】
http://www.youtube.com/watch?v=JN6Io-tDVFI&feature=related
注)ロックに伴い、程々に音量は大きいと思われますので、
  ご注意の程を♪


このように投稿したのであるが、
私はレコード会社の管理畑に長年勤めた身であり、
楽譜も読めなく音楽の素養もないが、
年金生活の五年生になった今でも、ときおり聴いたり、
何となく鼻歌も唄ったりしている。



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年金小父さんでも、ときには、セリーヌ・ディオン・・♪  

2009-04-23 10:14:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
小説、随筆、現代史などの読書を優先趣味としているが、
ときには音楽も聴いたりしている・・。

私は洋楽は苦手な分野であるが、
ときおり1950年代~2000年の頃までを聴いたりしているが、
街中の洋楽ファンより無知な方である。

昨日の深夜11時過ぎに、たまたまビデオ棚より、
セリーヌ・ディオンのライブ版を視聴したりした・・。


1997年に公開された映画の『タイタニック』のテーマ・ソングの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』に於き、
音楽ファン以外にも世界的に魅了させ、認知させた歌姫である。


http://www.youtube.com/watch?v=saalGKY7ifU&feature=related

私が視聴したのは、このテーマ・ソングの以前の『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)と、
以降の休業直前、大スターさえもあこがれのニューヨークにあるラジオシティ・ミュージック・ホールに於ける
『HOLY NIGHTU LIVE』である。

短絡的に云えば、世界の頂点のまじか、そして頂点の直後のビデオである。

洋楽に関しては、知らないことが多過ぎるが、
特にアメリカ音楽はプロデューサーの力量いかんで、と周知されている。

今や伝説のひとつとして、セリーヌ・ディオンが12歳の時、
音楽マネジャーをしていたレオ・アンジェリルが彼女の才能と歌声に魅了されて、
自宅を担保としてデビュー・アルバムの資金を調達したことで知られている。

そしてフランス語のアルバムが成功し、ケベック地方のスターとなり、
数多くツアーの勧誘があったが、
この才能をつぶされてしまうのはほしい、
とレオ・アンジェリルは断り、破産の宣告を受けたのである。

これ以降は、セリーヌ・ディオンに英語を習得させ、
著名な音楽演奏、関係者との機会を与えて、ショウ・ビジネスの頂点の一角に導いた、
と私は思ったりしている。

そして何よりセリーヌ・ディオン自身が不断の努力で、
ハイトーン・クリアー・ヴォイスの歌声、
そして肝要な歌詞の表現力に磨きをかけたことは云うまでもないことである。

私は未熟でつたない洋楽歴に於いて、
このお2人の二人三脚の成功ぐらい他の例は知らないのである。

全米の音楽市場に於いて、多くの有数な大スターさえも、
一時的に全米の頂点を立てて、
やがて、ある期間が過ぎると、個性がまさり色あせてしまうからである。

私はセリーヌ・ディオンの唄声に酔いしれながら、
『パワー・オブ・ラブ』、『ツゥー・ラブ・ユー・モア』等を聴くたびに、
どなたにも魅了させる普遍性である、と感じたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=YaItPjWo7Ks

http://www.youtube.com/watch?v=Zq17mbj8RHI

個性を強く全面に押し出すと、頂点も早いが、飽きられる欠点があるので、
たぐいに稀(まれ)なお2人は、この点は充分ご承知で、
ゆっくりと世界の頂点を目指されたのだろう、
と私は2本のビデオを視聴して深夜のひとときを過ごしたのである。


今朝は少し寝不足でぼんやりとし、
このビデオのライブ版の実感を伝えたくて、無料音楽の【You Tube】サイトで検索していたが、
2時間半ばかりセリーヌ・ディオンの唄声に聴き惚れて、心酔したりしていた。
結果としては、やむえず上記に添付したシーンしかないかしら、
と少し無念さもあるので、微苦笑しているのが本音である・・。





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改めて、私の若き頃、五輪真弓の唄声と共に・・♪  

2009-03-29 16:24:24 | 音 楽
私は東京オリンピックが開催された少し前に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごしたりした。

この後は、コンピュータの専門学校で一年間ばかり学んだ後、
遅ればせながら昭和45年(1970年)の春に、
ある大手企業に中途入社ができた・・。

まもなくして、この会社の音楽事業本部の中の大手レーベルのひとつが、
レコード専門会社として独立した。
私はこのレコード会社に異動されて、コンピュータ専任者として配属していたが、
制作畑のように直接に音楽に携わる部署でなく、
管理畑であったので、ある程度は気楽に職場に流れる音楽を聴いたりしていた。


昭和47年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。


♪あたたかい陽のあたる
 真冬の縁側に
 少女はひとりで
 ぼんやりと座ってた

【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は思わず手を止めて、ソファに座り、
煙草に火を点(つ)けた・・。


♪つもった白い雪が
 だんだん とけてゆくのを
 悲しそうに 見ていたの
 夢が大きな音を
 たてて 崩れてしまったの

【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は瞬時に感性の鋭い人と思い、初めて作詞・作曲し、そして唄っている人が、
五輪真弓と知ったのである。


翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。

本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を言った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティスであったが、半分得意げで言った。

たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。

この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく言うょ・・』
と微苦笑された。

私はレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世の中の怖さも知らず、颯爽とし風をも切るような27歳の時であった・・。


この後、五輪真弓のレコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは昭和47年(1972年)の10月の下旬であった。

この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この頃の機器は、私の基本給の月収より数倍高く、
私はローンで返済していた。

そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、
殆ど毎日聴いていたし、会社の友人はもとより次兄にも賞賛をしたりしていた。

翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。

確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、
この頃に交際していた女性と私は観たのである。

この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを目指している人であり、
私はピアノを専攻する人に多少なりとも気後れしながらも、
この女性をピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。

この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響のことなどを話したりした後、
五輪真弓に関しては才能のある人ね、
と私は聴いて、私なりに五輪真弓のデビュー以来才能を認めたひとりとして、
賛意されたので、安堵したりしていた。

そして、この間も、渋谷、新宿で度々待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。

私の住んでいる所にも来て貰ったり、
私の実家にも連れて行ったりしていた。

このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然のような気持ちで、このコンサートを観たのである。
ただ開演前、ロビーにいる時、
私が今までの人生で体験したことのない、音楽大学の現役、卒業生の20代から50代の人たちが、
特有な雰囲気につつまれていると感じたりしたのである。


私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と言った。

確かに毎日少なくとも8時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの家庭に多くある生活ペースは無理もあるが、
私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。

数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、
と私は言われ、
私は失恋をしたのである。


私は五輪真弓に関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。


私は数年後、妹の嫁ぎ先の父親が茶事で知り得た女性を紹介され、
しばらく交際した後、この女性と結婚した。

私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、
数年続いた折、私は懐かしい歌声を聴いたのである。


♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り
 雨に壊れた ベンチには
 愛をささやく 歌もない

【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、
と心の中で祝杯したりしていた。


♪恋人よ そばにいて
 こごえる私の そばにいてよ
 そしてひとこと この別れ話が
 冗談だよと 笑ってほしい

【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】

私はピアノニストに熱望した人は、今はどうされているか解からないが、
私にとっては青年期の終りの頃の貴重な苦い想いのひとつである。



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年金青年の私、ピアノの名曲で好きな曲は・・♪

2009-03-29 09:37:07 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、私は主庭のテラスに下り立ち<
樹木、草花を眺めながら、煙草を喫っていると、
近所のお宅からピアノの音色が聴こえてきた・・。

女の子の弾くのは、バイエルの何番かしらと思ったりした・・。

私は小説、随筆などの読書、居間で映画を観たりしているが、
ときおり音楽も聴いたりしている。


音楽に関しては、小・中学期の音楽の通信簿は『2』の劣等性であり、
音譜も読めない素養のない身である。

25歳の時に、民間会社に中途入社した時、この中の音楽事業本部に要望し、
この中のひとつの大手レーベルが、まもなくレコード会社として独立され、
私も配属されて30数年勤めたのであるが、
私自身は管理畑で情報部門を大半を所属した身であるが、
職場上は音楽が流れたりしていたので、何かと音楽の数々を聴く機会が多かった。

これまでの私は、二十歳の頃に偶然に、
モーツァルトの《ピアノ協奏曲 第20番》に魅了されたぐらいで、
クラシックの名曲を殆ど知らなかったひとりであった。

こうした中で、業務上の関連として音楽の曲の話題になると、
恥をかく無邪気な私であったが、
それなりに各分野の曲を平然と聴いたりしていたが、
いまだにオペラとジャズは苦手である。


私が昭和48年前後の頃、ある休日の時に、
ショパンの『12の練習曲 作品10』を聴き、瞬時に魅了された・・。
ピアニストのポリーニのレコードであり、
私は熱愛し、半年ばかり殆ど毎晩聴いたりした・・。

その後、『25』も発売されて、私なりに愛聴した。

そして10数年後、CDの時代となり、レコードと同じ録音であるが、
たった一枚で『12の練習曲 作品10、25』が収録されているので買い求めたりした。


年金生活の今、各分野の音楽をその日の心情で聴いたりしているが、
クラシックのピアノの名曲の中で、
最も聴くことが多いのは、2枚のCDである。

小説の世界にたとえれば、
長編小説としては、モーツァルトの『ピアノ協奏曲 第20番』で、
短編の小説を集めたれたのがショパンの『12の練習曲 作品10、25』であり、
私としては、最上の作品として、愛聴しているのである。


つたない感性から選定したのであるが、
具体的に何が良いのか、と問われれば、
ご自分の愛している女性のどこが良いのか、
と同様な質問と思われるので、明記しょうがないのである。



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戸川昌子の『リリー・マルレーン』の名曲を久しぶりに聴いて・・♪

2009-03-28 17:02:09 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後のひととき、【YouTube】を開き、
シャルル・アズナヴールの『帰り来ぬ青春』、『遠い想い出』、『イザベル』、
『ボエーム』、『愛のために死す』等を視聴したりした。

この後、エディト・ピアフの『水に流して』などを聴いたりしたが、
この曲も数多くの歌手に歌い継がれている。
日本の私にとっては未知の歌手も唄って折、
私は視聴した後、この方は『リリー・マルレーン』の曲も唄っていたので聴いたりした・・。


『リリー・マルレーン』の名曲に関しては、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
【・・
『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。

1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ (Hans Leip) が
ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に
創作した詩集 "Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht" に収録されていた詩をもとに、
第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、
歌手のララ・アンデルセンが歌った。

歌詞は、兵営の大門の前に街灯が立っている。
そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。
男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い。

第二次世界大戦下では、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に、
多くのドイツ兵が、戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。
また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、
北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。

日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、
アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問、この歌を歌った。
このためにドイツでは彼女は敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
・・】


このように解説されているが、
私はマレーネ・ディートリッヒに敬意しながら、彼女の歌声に心酔した後、
著名な海外の歌手の3名のお方のも視聴したりした。

この後、日本語も聴きたくなり、
【YouTube】の検索で、戸川昌子、とキーインしたら、
数々の歌曲が明示されたので、驚いたのである。


♪ いくさに行く前の夜
  子どものように泣きじゃくり
  私の名前をあなたはつぶやく
  ※いとしいリリー・マルレーン
   いとしいリリー・マルレーン

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。

『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。

こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。

私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいた折、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。


♪ 窓の下を兵隊の
  長い列が町を出る
  私を見あげてあなたは叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


この『リリー・マルレーン』は『失くした愛』と題されたアルバムの中のB面の一曲目に収録されてあるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。


♪ 夜空の下鉄砲を
  抱えたまま眠る歌
  汚れた私の写真を取り出し
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを百回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝レコードで・・シャンソンで戸川昌子さんの今度のアルバム・・
凄いですよ・・私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。


♪ 地獄のような戦いに
  身を捧げて傷ついて
  倒されたあなたは最後に叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。


♪ 平和の日は来たけれど
  あなたはまだ帰らない
  瞳を閉じれば聞こえるあの声

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


このようなことを思い重ねて、私は2回ばかり、
20年ぶりに聴いたりした・・。

そして、私は齢を重ねた64歳の身となったが、
今でも戸川昌子さんの『リリー・マルレーン』の唄声を聴くと、
まぎれなく人生の姉貴だ、と感じたのである。




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西條八十・作詞の 『越後獅子の唄』の発想を教示され・・♪

2009-03-26 23:27:44 | 音 楽
私は年金生活5年生の64歳の身であるが、
午後のひととき、中断していた筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりした・・。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969

この本に関しては、過日に於いて、
【・・
私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。

何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。


こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。

このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。
・・】

このように綴ったりしていたが、私は西條八十氏が数多く作詞された中で、
特に関心のあったのは、
『越後獅子の唄』の歌であった。


私は2007年10月19日に於いて、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が爽(さわ)やかな時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と名曲のひとつの『私は街の子』という歌を勝手に変更して、唄ったりしていた。
・・
(略)
・・】


このような深い想いがあったので、著作者の筒井清忠氏に導かれて、
西條八十氏が『越後獅子の唄』を作詞された発想などを知りたくて、
読み込んだのである・・。


無断であるが、引用させて頂く。

【・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。


それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。


浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・】
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。


このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。

尚、余談であるが、
【美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという】

注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。

このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。



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改めて、年金小父さんは、『YouTube』に仰天して・・♪

2009-03-24 08:00:31 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
ときおり音楽を聴きたくなる時は、
居間の音楽棚からカセット、CD、或いはDVDを取り出してる。

昨夕のひととき、昼下がりに【改めて、私なりのビートルズの『イエスタディー』の想いで・・♪ 】と題して、
このサイトに投稿したのであるが、
この中の一部に、
【・・
まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛したりした。
・・】
と綴ったりしたので、
久々にシャルル・アズナヴールの名曲を聴こうとしたが、
私はこのお方に関しては、レコード5枚ばかり保有しているが、
無念ながらレコード・プレイヤーを手放しているので、聴くことが出来なかったのである・・。

やむえず、期待半分で【YouTube】を開き、
検索項目を《 シャルル・アズナヴール 》とキーインしたのであるが、
『イザベル』、『ボエーム』、『愛のために死す』などの名曲が、
当然フランス原語で表示されていたが、
仰天し、小躍りしたり、ため息をしながら、聴き惚れたのである。

この後、エディト・ピアフの歌声が聴きたくなり、
『水に流して』などを聴いたりしたが、『愛の賛歌』を聴いた後、
確か美空ひばりさんも唄っていたと思いだし、
美空ひばり、とキーインし、このお方の『愛の賛歌』が表示されて、
私は再び仰天しながら、
この【YouTube】は、何でも有りの世界、に驚いたのである。

そして、どうしてなの・・どこまでやるの、と深くため息をしながら聴き惚れたのである。

私は【YouTube】の世界を知ったのは、
遅ればせながら昨年の6月初旬であった。

この時の心情は、
【 遅ればせながら、『YouTube』・・♪ 】
と題して、このサイトに綴ったりしているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は齢を重ねた63歳の身であるが、音楽を聴いたりするのも好きである。

現役時代は、たまたまレコード会社に勤めていたせいか、
若いアーティストの音楽も、ときおり聴いたりしている。

しかし退職後の年金生活の4年生の身となれば、
アーティストと曲、そして世間の流行っている音楽が解からないのである。

こうした折は、流行の曲は、『オリコン』サイトで、
シングル、アルバム別のベストテンで知ることが出来るが、
困ったことに肝心のアーティストと曲の内容が解からないのである。

こうした時、私は無料の動画《音楽サイト》を検索して、
こういうアーティストだったの・・、意外と良い曲ね、
と感じたりしている。

昨年の秋の頃、私はこれらについて、
下記のように綴り、このサイトに投稿している。



・・この後、何気なしに最近の音楽を視聴し、
【YAHOO! JAPAN】の動画サイトで、
コブクロ、GLAY、徳永英明、セリーヌ・ディオン等の歌の数々を10数曲を視聴した・・。

無料でプロモーション・ビデオのような曲を視聴できるので、
びっくりするほど享受できるのである。

10数年前の頃であったならば、
音楽CD、DVD、ビデオ・テープの販売店で、
プロモーション・ビデオが店の一角で映し出されていたが、
現世は簡易にネットで自分の好みの曲を選定し、ある程度視聴できるので、
時代の流れにため息をしたりし、視聴していた。



私はこれ以前に、ラジオでたまたま聴いた綾香ちゃんの『三日月』が、
発売日まもなくして聴き、瞬時に魅了させられ、
【YAHOO! JAPAN】の動画の音楽サイトで百回以上視聴した体験があった。

そして、コブクロの名曲の数々も教示したりしていた。


私は音楽の無料公開のレパートリーを増やしたく、
本日『YouTube』の無料入会登録をした。

ここ昨今、世界中の話題と数多くの方たちが利用している『YouTube』、
遅ればせながら、どのような範囲までの音楽が視聴できるのか、
そして最近の風潮として著作権の許容はどこまでクリアーできているのか、
少しボケた年金小父さんは関心があったりしている。
・・】


このように綴ったりしていたが、
私はこのサイトに音楽に関しても多くを投稿しているが、
昨今、少し悩んでいる。

その曲の思いを発露し綴ったりしているが、
安易に『YouTube』などを貼り付けた方が投稿分に効力があるかしら、
と考え込んでいるのである。

私は高校生以来から、何よりも言葉の力を信じ、
出来うる限り散文の世界に心身ともゆだねているので、
私の心の思いが伝わらなかった時は、私自身の筆力、表現力の修行が足りない、
と反省しながらも迷っているのである。





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改めて、私なりのビートルズの『イエスタディー』の想いで・・♪

2009-03-23 14:40:29 | 音 楽
ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。

確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
私はこの曲を知ったのは、妹がビートルズを熱愛して、
数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていた。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、
小説の数多くの作品を読みふけっていたので、余り音楽には興味がなかった時だった。

妹が応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
うるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。

ある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。

その後、妹はビートルズが来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に云ったりしていた。

このように妹は団塊世代で高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、
音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。

私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。


その後、私が1970年(昭和45年)にある企業に中途入社して、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。

私は音楽に関してはメロディーも大切であるが、
このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視していたので、
作詞を優先するひとりである。

まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛したりした。

このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、
あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という以外の言葉は見つかず、唖然とさせられたのである。

この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。

私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、
そしてCDで聴いている。


こうした間に、映画の『ワンス・アホン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた。
私はこの感覚には思わず(うな)り、そして感銘した・・。

映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。

このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。

私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
このたった一曲であるが『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、ここ40年は絶賛している。


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雨の日、ときには『西條八十』を学び・・。

2009-03-23 08:01:17 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
先程、ぼんやりと地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時過ぎ12度で、昼下がりには17度前後となり、夜の6時は10度前後と予測され、
快晴の一日であるが、ときおり北風が強く吹きますので、
幼児・ご高齢者は特にご注意の程をお願いします、
と私には聴こえたのである・・。


昨日は朝の10時すぎから雨が降りだし、ときおり風の舞う日中となった。

こうした折、私は一冊の本の読むのに最適と思い、
居間のソファーの椅子に座ったり、そして寝室の布団にもぐり、
文庫本を読みはじめたのである・・。

この文庫本は数日前に買い求めた一冊であり、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)である。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969

私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。

何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。


こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。

このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。


従って、もとより読了していないので、書評は綴れないが、
私の幼年期に於いて、このお方が作詞された名曲のひとつから、
慰められた想いである。


【 幼年期の心の歌は、『越後獅子の唄』・・♪ 】
と題し、2006年11月24日にあるサイトに投稿したが、
改めて西條八十氏に敬意し、あえ再掲載をする。

【・・
私は目覚めた時、ときおり鼻歌を唄うことがある。

今朝はどうした心持ちであるのか解からないが、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 
   【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十】

口ずさんでいた。

家内は笑っていて、
『貴方・・どういう風のふきまわし・・』
と言ったりした。

私にもどうしてこの歌を口ずさんだか、
瞬間解からなかった・・・。


私は昭和19年に東京の郊外で、農家の子と生を受けた。
男の子ばかり続けて生まれた三男坊であったので、
余り期待されていないようで、いじけた屈折のある可愛げのない私の幼年期であった。

小学校の幼年期、映画が何よりの楽しみであったので、
映画館にひとりで行くのが好きだった。

こうした時に映画で観た中で、幼年心として、ひとつの歌が心に沁みた・・。


♪わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十】


私は周囲から孤独感を勝手に感じ取り、
寂しい時は心の中で、この歌を唄っていた・・。

後年、この歌は『越後獅子の唄』であり、昭和26年に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、
と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
・・】

このようにつたない綴りであるが、
このほかにも数多くの西條八十氏の作詞された歌の想いである、
と私は思わず微笑んだりした。



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改めて、2000年(平成12)の頃、私は小柳ゆきに熱愛し・・♪

2009-03-22 07:26:36 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
昨日、私が大学中退後、彷徨した時代、そして企業に中途入社できる前後まで、
サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』、
『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等に魅せられた曲に思いを重ね綴ったりした。

このようなことを読み返したりしていたが、
サラリーマンの50代の後半の頃が、蘇(よみがえ)ってきた・・。

この私なりの心情は、
【 2000年(平成12)、小柳ゆきに熱中・・♪ 】
と題して、2007年3月10日にあるサイトに投稿していたので、
あえて再掲載をする。

【・・
昼過ぎ、何気なしにX JAPANと小柳ゆきが聴きたくて、
先程までCDを取り変えりながら、
ある程度の音量を上げて、聴いていた・・。


私が勤めていたのはレコード業界のひとつの会社で、
1998年をピークに業界全体が縮小し、
この前後からそれぞれの会社が再構築がよぎなくされ、
リストラなども行われた。

こうした中で、私の勤務した会社も組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職、
このような形で同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
中には業界から去った人も数多くあった。

そして、私は本社勤務の管理畑を30年近く勤めていたのであるが、
出向となり、ある物流情報会社に勤めたのは、
1999年の春で55歳を迎える年であった。

不馴れな商品センターの現場もさることながら、
何で俺が・・、と言う気持ちがあり、数が月は私なりに失墜感があった・・。

都心の本社から、遠方の物流倉庫を多い勤務先であり、
世にいう都落ちの感であった。
何より、出向というのは、本社の戦力からは不必要の烙印であり、
私はうつろな心情であった・・。

このような時は、長い通勤の途中、私はビジネスバックに、
親しんできたX JAPANのアルバム5枚前後持ち歩き、
CDウォークマンで聴いたりしていた。


9月の初旬、休みの日曜日に偶然にテレビの音楽番組の新人紹介コーナーで、
『あなたのキスを数えましょう ~ You were mine ~』を唄う若い女性歌手を視聴し、
上手すぎる、と正直うろたえたのである。
そして、清潔感はないが、破格の歌唱力で唄う人は、小柳ゆき、
という名を知り、魅了されたのである。

翌年の2000年の4月頃になると『愛情』が街に流れ、
そして5月にアルバムが発売になり、『明日に架ける橋』などのカバー集であった。
7月に『be alive』が盛んに街に流れ、
そして8月にオリジナル・アルバムの『EXPANSION』を新譜予約していたので、
発売日の前日に手にし、よく聴いていた・・。

退社直後の8時過ぎ、暗い夜道でバス停まで歩きながら、


♪壊れそうな 明日に向かい
 信じあう 奇跡を

【『愛情』  作詞・小柳ゆき/樋口 侑】



♪出会った頃と 同じ季節(とき)が来て
 やっと2人で 歩き出したの

【『be alive』  歌詞・小柳ゆき/樋口 侑】


この2曲は好く聴いたり、小声で唄ったりした・・。

小柳ゆき・女史もこのアルバムはミリオンとなり、
各地でライブ公演をして、
私はWOWOWで視聴しながら、ビデオに収録したり、
DVDのライブ盤を購入したりした。

私がこの2000年で熱中したのは小柳ゆきであり、
このお方の曲から私は限りなく励まされた・・。


尚、小柳ゆきの所属するレコード会社は、
無念ながら私の勤務した会社とは関係がなく、他社である。
・・】

このように投稿していたのであるが、
たったひとつの歌によって、その人の人生の苦渋のはざま、
励まされ、ときには救われることがある。

私は40代の時は、中島みゆきの歌の数々であり、女神のように深愛したが、
50代の後半の初め、出向となり、うつろな時期、
小柳ゆきの歌の数々に救われ、最後の女神かしら、
と微苦笑をしている。


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