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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』が街に流れていた頃の私は・・♪

2009-09-26 23:12:26 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
日中のひととき、ラジオから山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』の唄声が聴こえてきた・・。

この後、私は庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いがら、微風が吹く中、
樹木や草花を眺めたりし、秋めいた情景に心身をゆだねたりした。


♪雪解け真近の 北の空に向い
 過ぎ去り日々の 夢を叫ぶとき

【 『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】

先程、ラジオから流れていた歌が脳裏に残っていたせいか、
私は心の中で唄いだしたのである・・。


この歌は街に流れていたのは、 確か昭和53年の晩秋であったと思われるが、
JRの前身の国鉄時代の新宿駅で『いい日旅立つ』の歌が流れて、
私はプラットフォームで東京駅行きを待っていたのである。

この頃の私は、あるレコード会社に勤め、六本木の本社で情報畑で奮闘していた時代であった。
そして毎月20日の数日は、新宿駅から神田駅に行き、日本橋ある情報処理会社に行っていたのである。

このような時、朝のラッシュ時に山口百恵ちゃんの唄声、或いはメロディーでよく流れていた・・。

♪帰らぬ人たち 熱い胸をよぎる
 せめて今日から一人きり 旅に出る
 ああ 日本のどこかに
 私を待ってる 人がいる


【 『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】


私は前方に見える中央線の松本行きの『L特急』の列車が、
始発前の待機の状況で勇姿を見せて折、
多忙な私にとっては、平日にゆっくりと旅行に行けるのは夢のようなことであり、羨望しながら見つめたりしていた。

この年の春に私は家を建てた年であったので、公私共々多忙な中、
住宅ローンなどを含めて一戸建ては何かと出費が多く、私達夫婦は悲鳴をあげながら、
この難局を何とかしなければ・・と家内はパートに出たりし、互いに奮闘したりしていた。

この年の前の2年間は、新婚生活を初めて賃貸マンションに住んでいて、
最初の夏季休暇の時は、『L特急』に乗車し、上野駅から長野電鉄に乗り入れた湯田中駅の終点で下車し、
その後は路線バスで志賀高原の奥地のホテルに2泊3日で行ったりした。

翌年も、『L特急』で新宿駅から松本駅で下車し、
その後は大糸線で簗場駅で下車し、青木湖の湖畔にあるホテルに2泊3日で滞在し、
周辺を散策したりした。


そして、家を建てた当年、殆ど生活に余裕はなかったが、
せめて夏季休暇の時ぐらいと、旅行会社のJTBの格安のパンフレットを見て、
蓼科高原の白樺湖の湖畔にある観光ホテルに2泊3日としたのである。
この時も、新宿駅から茅野駅まで『L特急』を利用した後、路線バスで白樺湖に行ったのである。


このような私達夫婦はささやかな思いでが『L特急』と共にあるので、
ラッシュアワーで混んでいるプラットフォームに立ちすくんで、
前方に観える『L特急』の列車を眺めていたのである。

そして、いつの日にか、平日のゆっくりとした時に、『L特急』で旅行するのが、
私の30代の叶うことのない夢であったが、
その後は洒落た最新鋭の列車に中央本線などは変貌してしまったのである。


私は、『いい日旅立ち』を聴いたりすると、『L特急』の列車が浮かび、
私の苦節の多かった30代の思いでと共に蘇(よみが)り、
年金生活となった今、なぜかしら愛惜を深めたりしている。



http://www.youtube.com/watch?v=nK9yTUGcjhg
【 『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】




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松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』を心の中で唄いだし・・♪

2009-09-20 21:37:52 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
朝の8時過ぎに、やわらかな秋の陽射しを照らす主庭のテラスに下り立った・・。

ここ数日は朝の6時は18度前後、昼下がりは26度前後、夕暮れの6時は23度前後で、
晴れ時々曇りが多い恵まれた初秋を迎え、世間ではシルバー・ウィークとなっているので、
天上の気候の神々が現役の諸兄姉の働いて下さる方たちへの
何よりの贈り物かしらと感じたりしている。

このように思いながら、風に身をまかせ、煙草を喫ったりしていた。
庭の片隅の花壇を眺めれば、薄紫色のサフランと黄色のクロッカスの小花が群生し咲いているのであるが、
微風に揺れていた・・。

私はどうした思いか解からないが、心の中で、

♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人

【『風立ちぬ』 歌詞・松本 隆 作曲・大瀧詠一 歌・松田聖子】


唄いだしたのである・・。

私は我に返り、聖子ちゃんかょ、と呟いたりしていた。


私が思わず心の中で唄った松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』が街に流れていたのは、
昭和56年(1981年)の秋であり、この後の曲は『赤いスィートピー』もヒットされ、
私はあるレコード会社に勤めて、歌に直接かかわる制作畑でなく、情報畑でそれなりに孤軍奮闘していた頃で、
他社の松田聖子ちゃんの曲も何気なしに聴いていたのである。

私にとっては苦手な松田聖子ちゃんであるが、確かにヒット曲を連発し、
発売元のソニーはマーケット・リサーチはもとより、資金源、人材、組織力のある会社、そして肝要のスタッフの起用、
と認めたりした上で、たぐい稀(まれ)な才能と努力を重ねられた歌い手の相乗効果である。


このように聖子ちゃんの数々の唄声を聴いたりしていた。


私は定年退職後、年金生活を過ごしている今、
ときおり昔の歌がふいに蘇(よみが)り、あんな苦手な聖子ちゃんの歌も懐かしく、
心の中で唄ったりするので、苦笑することが多いのである。

10時過ぎた頃、私はいつものように最寄のスーパーに買物にでかけたのであるが、
川の橋を渡る時に、両側の岸辺は遊歩道がある。
そして、休日の日なのでいつもより人出が多く、しばらく眺めたりしていた。
初秋の陽射しの中で家族連れで歩かれたり、自転車で幼児を伴った若きご夫婦の姿も数多く見られたのであるが、
何かしら笑顔の表情が多く、安息のひとときかしら、
と私はこの人生の微笑みを頂いたのである。

ときおり風を受けたしていると、

♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人
  
【『風立ちぬ』 歌詞・松本 隆 作曲・大瀧詠一 歌・松田聖子】

と心の中で唄ってしまい、私は独り微笑をしながら、スーパーに足取り軽く向ったのである。



http://www.youtube.com/watch?v=bV_JgmcoEP0
【『風立ちぬ』 歌詞・松本 隆 作曲・大瀧詠一 歌・松田聖子】




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改めて幼年期、心に秘めた歌は『水色のワルツ』と『芸者ワルツ』・・。 

2009-09-17 09:04:06 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、歯を磨き、顔を洗い終えた後、何気なしに鼻歌を唄っていた・・。


♪君に逢ううれしさの 胸に深く
 水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


このような歌を唄いながら、居間に戻り、初秋の朝のやわらかな陽射しを見つめていたら、
亡くなった母のことを想い出した・・。


10年少し前に亡くなったのであるが、私の幼年期の昭和27年の小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。


♪あなたのリードで 島田もゆれる
 チーク・ダンスの なやましさ
 みだれる裾も はずかしうれし
 芸者ワルツは 思い出ワルツ

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


母が小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしく、
この頃の私は何かしら期待されていないように幼年心で感じて折、
可愛げのない屈折した子供であった。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。


母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む富豪であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気のではじめた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された。

親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で大正10年であった。

私の祖父は、農家を程々手広くしていて、使用人、小作人を使って折、
男4人、女も4人の子を設けていた。


母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて折、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

今の歳で云うと、13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝い、田畑も駆りだされていた。


後年、私が高校生になった時、感じたのであるが生前の母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが都会議員となった折、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。


母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は義理の弟、妹と共に家の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。

後年、母は看病の末、亡くなった父の弟、父の妹の婚姻などで、冠婚葬祭は色々あって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。


昭和28年になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
二ヵ月後に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。


このような時、春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。

このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも直感した。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたので、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった格好であったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。

母は結婚後の労苦の時、鼻歌を唄いながらその時を過ごされたのだろう、
と思ったりした。

『水色のワルツ』も母にとって、よく唄った歌のひとつであるが、


♪みだれる裾も はずかしうれし

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


私にとっては色っぽさもさることながら、少し物悲しく聴こえたのも確かである。

この歌のふたつは、私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。


私は亡くなった母をときおり想いだす時、
何故かしら『水色のワルツ』が心の片隅に蘇(よみが)り、心の中で唄ったりしている。

♪月影の細路(ほそみち)を 歩きながら
 水色のハンカチに 包んだ囁(ささや)きが
 いつのまにか 夜露(つゆ)にぬれて
 心の窓をとじて 忍び泣くのよ

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


私は心の中で唄いながら、年齢を重ねた64歳の身でありながら、
いつも胸が熱くなったりている・・。



http://www.youtube.com/watch?v=SbnQK7XPclo
【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


http://www.youtube.com/watch?v=zODbc1zfnHA
【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


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もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』、私のささやかな想いは・・。

2009-09-13 16:43:43 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨夜、NHKのBS2で『日めくりタイムトラベル - 昭和55年! -』
8時より放映されていたので、途中からテレビを観はじめたのである・・。

あの頃の出来事を画面を見たりしていると、1980(昭和55)年のことが思いだされた・・。


あの当時の私は、あるレコード会社の本社でたった独りのコンピュータ専任者であったが、
4月度より商品の物流を委託したり、販売の受託などもあり、
年始早々からは、関係会社との会議、システム改定などで奮闘していた。

確か3月初旬の頃、夜の9時過ぎに職場で、自席に座り、
コーヒーを飲んだり、煙草を喫いながら、システム改定の最終進度をチエックしたりしていた。
私の近くは販売推進系で、たびたびレコード、カセットの試聴盤をかけていたので、
私はポピュラー、邦楽の曲の数々を覚えたりしていた。

この時は、他社の青江三奈のような唄声が流れ、
しばらく聴いたりしていると、
『青江三奈のような唄声で・・音はおもしろく・・勢いがありますね・・』
と私は販売推進の次長に云ったりした。

もとより青江三奈は『伊勢左木町ブルース』、『池袋の夜』などをヒットさせた女性歌手である。

私は楽譜も読めなく音楽の素養もないが、単なる感性から専門外の身でありながら、
その時に感じたことは言葉にしていたので、ときには失笑されることもあった。

『アオエ・・ミナかょ・・もんた&ブラザーズ のデビュー曲で・・『ダンシング・オールナイト』だょ・・』
と販売推進の次長は私に云いながら、微笑んだりしていた。


この曲は4月下旬に発売されて、5月下旬の頃からラジオからもよく流れたのである。

そして、6月初旬にシングルのベスト第一位を獲得して、この後も8月の中旬まで独走し、通算160万枚を超えたのである。

この間、私の直接に関わった<商品の物流を委託のシステム対応も予定通り軌道に乗り、
そして販売の受託のシステム対応も順調に乗り、
この会社からは谷村新司のシングル盤『昴』、そしてアルバムもヒットとなり、
その後はアリスのアルバムも発売もされて、
私の勤めていた会社の業績が大幅に伸長したのである。


私は7月になると、何とか土曜休日の出勤からも開放されて、
家内がデパートに買物に行っている時、
浴衣(ゆかた)に下駄(げた)の容姿で近所の蕎麦屋に行った。
そして、日本酒の冷酒を二合ばかり呑み、笊(ざる)蕎麦を昼食代わりとしたのである。

この後、帰路に向う途中の大通りで、信号待ちしていた自動車から、
大きな音で『ダンシング・オールナイト』が流れてきて、私は思わず微笑んだのである。


このように私なりに、このもんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』は懐かしく、
昭和55年は谷村新司の『昴』共に、私の心の片隅には『ダンシング・オールナイト』は忘れなれない曲となっている。


http://www.youtube.com/watch?v=ZWsham6WXGw
【『ダンシング・オールナイト』 作詞・水谷啓二、作曲・もんたよしのり、編曲・もんた&Brothers、松井忠重 】




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『小雨降る径』の名曲を【YouTube】で検索すれば・・。

2009-09-12 11:43:42 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昨日の初秋の晴れ間の快適な一日から、急激に雨降る日となり、
私は戸惑ったりしていた。

朝の6時は20度のどんよりとした曇り空で、9時過ぎからは雨が降りだしている・・。
昼過ぎには22度前後、夜の6時には20度前後が予測され、
10月中旬のような気温と報じられている。


先程、玄関庭の軒下で煙草を喫い、小雨降る情景を眺めていたら、
シャンソン歌手の金子由香里さんの『小雨降る径』を聴きたくなったのである。

私の持っている金子由香里さんのレコード、カセット、CDは少なくとも15枚のアルバムはあるが、
この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであり、少し気落ちしたのである。

私はレコード・プレイヤーを手放しているので、
やむえず【YouTube】に頼って検索したのであるが、
無念ながら恋しい金子由香里さんの『小雨降る径』の歌声にはめぐり逢えなかったのである。

この代わり異色のデュエットを聴いたりしたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=UUT3c6lr6FY

【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三、唄・菅原洋一、冴木杏奈 】

少し画像が古く歌声の音量も乏しかったのであるが、
もとより菅原洋一さんのタンゴ調の唄声は魅力的であり、
偶然に知った冴木杏奈の唄声、そして表情としぐさに妖艶さも感じられ、
杏奈ちゃん・・素敵な大人の女性ね・・
と私は心の中で歓声をしたりしたのである。

このようなことを10時過ぎに、私は感じたりし、この人生のひとときの微笑(ほほえ)みを頂いたのである。


尚、私なりの金子由香里さんの『小雨降る径』については、
このサイトにも数編投稿しているが、この中のひとつを再掲載をする。

今年の春の3月8日に於いて、
【 そして、あの時、貴女は・・♪ 】
と題して投稿している。

【・・
東京郊外の調布市は、どんよりとした曇り空で朝を迎えている。
夕方からは雨となる、と地元の天気情報が報じられている。

私はぼんやりと、庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、白梅、紅梅の大半散った花を眺めたり、日本水仙を眺めたりしていた。

そして、どうしたわけか解からないが、ひとつの歌が私の心を占領したのである。


♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は心の中で唄いだした・・。

♪流れる唄 懐かし唄
 夢をささやく あのメロディー

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 

私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。

♪いつの日にか また逢いみん
 溢れくるわ 涙

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は定年退職後の5年生であるが、
ふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。


37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、
この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。


新婚まもない時、東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。

歌い手は私が魅了されている金子由香里さんで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、
せひ観て欲しかったのである。

3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、
ときおりリクエストなどをしていたのであった。

そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・
これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に言った。

私は、人生の駆け出しのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、
と思ったりしている。


このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったので、
どんよりとした曇り空、いつ雨が降ってもおかしくない情景なので、
このような心の片隅にあることが想いだされたのかしら、
と感じたりしたのである。

そして、若き日々人生を歩みだした時、
『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から苦笑したりしている。

・・】

このよう私なりに、ささやかな思いのある『小雨降る径』である。



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ふたたび、伊藤久男の唄声に魅了され・・♪

2009-09-08 21:26:24 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
朝のひととき、『あざみの歌』、『山のけむり』、
そして『イヨマンテの夜』で知られている歌手・伊藤久男のアルバムを聴いたのである。

このCDアルバムは、一昨年の2月の下旬に、CD、DVD販売店で、
新井 満の『千の風になって ~再生~』のアルバムと同時に購入し、
《懐かしの歌声名曲集》と称され、全14曲の伊藤久男の名曲が収録されている。


私は昭和19年の秋に生を受け、
幼年期、小学の2年生の昭和27年頃まで、ラジオから盛んに流れ、覚えた曲が多いのである。

たとえば、『イヨノンテの夜』は昭和24年、
『あざみの歌』は昭和25年であり、
そして『山のけむり』は昭和27年に発表されている。


ここ10数年、家内が台所で水仕事をしている際、
ラジオを掛けることが多く、偶然こうした曲が聴こえる時もあり、私は微苦笑したりしている。

亡くなった家内の父は、戦前・戦後の歌謡曲は詳しく、
私は教示を受けたりした時もあった。

しかし、もとより家内は、幼児の時から教育されているので、
私より5歳齢下なのであるが、何故かしら私より詳しい時があり、私は微笑んだりしている。


朝のひととき、『あざみの歌』、『山のけむり』等を聴いていたのであるが、
懐かしい幼年期に還れ、愛惜を感じたりするが、
いつも感じることは、限りなく美しい歌詞である。


♪山には山の 愁いあり
 海には海の 悲しみや

【『あざみの歌』 作詞・横井 弘  作曲・八州秀章 】



この後、私は買物に途中で、橋を渡るとき、川の水の流れを眺めながら、
心の中ではひとつの歌を唄っていたのである。


♪高嶺の百合の それよりも
 秘めたる夢を ひとすじに

【『あざみの歌』 作詞・横井 弘  作曲・八州秀章 】


私は初秋の晴れ間の中、秋風を受けながら、こうした曲を心の中で唄ったりしたのである。


余談であるが、2006(平成18)年の秋、私達夫婦は家内の母と3人で道東旅行をした折、
私は独りで人影のない知床と阿寒湖の遊歩道を散策した時、


♪イヨマンテ(熊祭り)
 燃えろ かがり火
 ああ 満月よ
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテの夜』 作詞・菊田一夫 作曲・古関裕而 】


伊藤久男のはりのある朗朗とした美声のようには唄えないが、
私なりに少し大きめの声で唄ったのである。

幸い熊も東京の田舎者に遭(あ)いたくないと感じてか、
お互いにほっとしたのは、いうまでもないことである。


http://www.youtube.com/watch?v=ui1uyZuRwFQ
【 『あざみの歌』 作詞・横井 弘、 作曲・八州秀章、 唄・伊藤久男 】


http://www.youtube.com/watch?v=0_R9O1iogIE&feature=related
【 『イヨマンテの夜』 作詞・菊田一夫、 作曲・古関裕而、 唄・伊藤久男 】







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今宵11時から、コブクロの唄声に心酔・・♪

2009-09-02 18:34:29 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
先程、居間で家内がNHKのテレビを視聴していたのであるが、
何故かしらコブクロの『赤い糸』が聴こえてきたので、思わずテレビを見たのである・・。

この後、新聞のテレビ番組表を見て、
NHK総合で夜11時から【SINGS】の定例番組に於いて、

《 コブクロ ①
     ストリート時代を大切にする思い
                     ▽桜・赤い糸 》

と明記されていたので、齢を重ねた私でも、思わず心の中で歓声したのである。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-09-02&ch=21&eid=901


http://www.nhk.or.jp/songs/staffroom/20090901.html

私は読書、映画に続いて、音楽も好きで、ここ数年はコブクロの唄声にも魅せられたひとりで、
数多くこのサイトに綴っている。

コブクロの『赤い糸』に関しては、
【コブクロの『赤い糸』、感銘を受けたひとりとして 】
と題して、2007年11月18日に投稿している。

【・・
私は定年退職後の年金生活の4年生の身であるが、ときおり音楽を聴いたりするのが好きである。

私は現役時代は音楽関係の会社に勤めていたが、
制作畑でなく管理畑であったので、制作関連には全くの素人であり、
ただ私なりの感覚的好きな曲は数多くある。

私は齢を重ねたせいか、2000年以降からは、
正直な云えば素直に聴いて、感銘を受けた曲は少ないのである。
現役時代の56歳前後に小柳ゆきには熱愛した時期、
退職後の昨年は絢香の『三日月』には魅了されたりした。

(略)

一年に数度ぐらいは、テレビで放映される音楽の番組を視聴するが、
私の日常生活の音楽は、私の音楽棚からCD、DVDから取り出して視聴しているが、
圧倒的に2000年以前の作品である。

この程度の素人の身であるが、一昨日の夜に、
NHKでプレミアム10『恋うた2007 autumn&winter』という番組を視聴した。

ときには、最近の若い方たちが、どのような音楽に魅了されているか、
テレビ放映であるので具体性があり、視聴した次第である。

徳永英明、ユーミンは、同時性で聴いていたので、論外であるが、
ただ《徳永英明》の『まちぶせ』、『恋におちて~Fall in Love』は、
彼の特有の声質で、女性歌手が唄われた過去の名作に改めて魅了された。

中島美嘉の『STARS』、『WILL』、『雪の華』、BoAの『メリクリ』、
そして大塚 愛の『恋愛写真』、
これらは私の苦手であり、どうでもよい、と世代の差を感じるのである。

(略)

コブクロに関しては、ミリオン・セラーを獲得している最近では数少ない人達であることは、
ネット等で知っていたが、歌そのものをじっくりと聴いたことがなかったのである。

『赤い糸』は初めて聴く歌であったが、
恋情を真摯に綴られ詩情がある作詞で、何より独創性がありながら余情があり、
文学性もありながら昇華された作品である。

遠い昔、シャンソンの分野では、
こうした作風は何気ない情景、情感があったような感じを思い出したりし、
現世の時代に独創ある上で発露させた彼等に私は絶賛する。

彼等のコメントに寄れば、
結成まもない9年前に路上、その後のライブで唄い、
好きな歌のひとつです、と語っていた。

作詞、作曲、そして歌声に久々に歌の世界から感銘を受けたのである。

そして、彼らが無名の時、自分達を信じて、夜の路上で唄った時の心情を思い、
私なりに胸が熱くなった・・。

『赤い糸』は、私なりに63歳の身でありながら、
残された歳月に数少ない心に沁みた名曲と確信したりしている。

尚、この後『蕾(つぼみ)』は、今年発表された曲であるが、
私の今年度の最も好きな曲である。

http://www.youtube.com/watch?v=3RapUTyqegA

【『赤い糸』 作詞、作曲・小渕健太郎、唄・コブクロ 】

・・】


このように投稿しているので、齢を重ねた私でも、今宵11時より、
30分はコブクロに心酔するひとときかしら、と微笑んでいる。




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今宵11時から3日目、『LIFE 井上陽水 40年を語る』を視聴・・♪

2009-08-26 17:23:01 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
過日の24日(月曜日)の夕暮れの時、
NHK教育テレビで夜の11時から、『LIFE 井上陽水 40年を語る』
題され、明日の27日(木曜日)まで4日間に及び放映されることを知った。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-08-24&ch=31&eid=28620

私はこのサイトに於いても、数多く井上陽水氏に関して投稿しているが、
少なからず私の人生に影響を受けたひとりであるので、
一昨日の月曜日の夜の11時から50分番組を視聴したのである。

この番組の命題通り、デビューされて40年を記念して、
井上陽水氏自身が、ご自分の幼少時代の頃から語る稀(ま)な貴重な内容であり、
自作はもとより、作品にまつわる音楽関係物、アーティスト、
そして交友関係の人々が井上陽水氏について語る番組でもあった。

もとよりこの間に於いて、井上陽水氏の作品がライブを中心に公開され、
私はレコード、カセット、CDで聴いてきた作品の数々に、
まぎれなくライブの唄声は、風味が加味され感動したりしている。

昨日も視聴し、今宵も夜の11時から50分番組を視聴する。


これまでの私がこのサイトに於いて、数多く投稿してきた中で、ひとつだけ再掲載をする。
【 改めて、井上陽水の『傘がない』を聴き・・♪ 】
と題し、2008年7月28日に投稿している。

【・・
昨夕、ネットでニュース等を検索していた時、

【 オダギリジョーが井上陽水の『傘がない』唄う 】

と確かこのような見出しであったと記憶しているが、
私は興味を抱き、このサイトに導かれた・・。

解説に寄れば、

《・・
ニューアルバム『弾き語りパッション』のプロモーション・ビデオの収録が横浜の桜木町で行われ、
その中で俳優のオダギリジョーがストリート・ミュージシャン、
若き日の井上陽水に扮して路上ライブを熱演した。
・・》

このように解説され、私は俳優のオダギリジョーは無知であったが、
井上陽水の『傘がない』に惹(ひ)かれて視聴したのである。

http://www.youtube.com/watch?v=ezsOpKlwNjk
【『傘がない』 作詞、作曲・井上陽水、編曲・星 勝、唄・オダギリジョー】



『傘がない』の名曲を聴きながら、
俳優のオダギリジョーが好演しているので感銘しながらも、
初めて聴いた時に思いを馳せたのである・・。


私は昭和47年頃、実家から離れ、母の宅に住んで、
日曜日の午前中のひととき、
近くの喫茶店のカウンター席で煙草を喫いながら、コーヒーを飲んだりしていた・・。

店内から、

♪都会では自殺する若者が増えている
 今朝来た新聞の片隅に書いていた
 だけども問題は今日の雨 傘がない

【『傘がない』 作詞、作曲・井上陽水 編曲・星 勝 】


流れはじめ、私は思わず聴き、心の動揺し、座っている椅子から転げ落ちそうになった・・。

若い人が政治、社会に無関心が増えていた社会風潮であったので、
余りにも的確に表現された詞に驚いたのである。

この曲を聴き終えた私は、
喫茶店のマダムに、このレコードを問いかけて、
初めて井上陽水の『傘がない』という曲を知ったのである。


私はこのシンガーソング・ライターに魅了され、
その後は、『心もよう』、『いっそセレナーデ』、『最後のニュース』、『少年時代』、『結詞』等は、
少なくとも百回以上を聴いている。

そして、多彩なこの人は、
他の歌い手に『飾りじゃないのよ 涙は』、『ワインレッドの心』等の名曲を提供している。


時は流れ、レコード、カセット、そしてCDを買い求めてきたが、
私は定年退職の少し前に、
改めてベスト・アルバムのCD『井上陽水 ゴールデン・ベスト・スーパー』を購入したのである。


年金生活の今、時折このアルバム全45曲収録された名曲の数々を聴いたりしているが、
その時代の社会風潮を切り取ったり、
叙情、世情のジャンルを多彩に発表された稀(ま)れな創作者である。

そして、これだけ多岐にわたり長年に作詞・作曲を出来る人は、
私の拙(つたな)い音楽愛好歴からして、
このお方・井上陽水と中島みゆきの両氏以外、私は知らない。


尚、この人を詳しく知りたければ、
発表された時代を思い浮かべ、作詞の内容を理解した上で、
海老沢泰久・著の『満月 空に満月』(文春文庫)をお読みになれば、と思っている。

ニューミュージック界で揺るぎない地位を獲得されるまでの心情が描かれているので折、
音楽を目指す人の必読書のひとつ、と私は確信している。

・・】

このように投稿しているが、今宵3日目となるが、
『LIFE 井上陽水 40年を語る』を視聴して、井上陽水氏ご自身が語る言葉・・
一昨日、昨日と同様に、熱く受け止めるひとりである。




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岸洋子さんの『夜明けのうた』、『希望』の私なりの想いで・・。

2009-08-14 14:55:06 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の64歳である身であり、
昨夕、読売新聞の夕刊でテレビ番組表を見ていたら、
NHK衛星第二で夜の7時45分より『昭和の歌人(うたびと)たち ~いずみたく』が放映されることを知り、
夕食を頂いたり、ネットのニュースを見たりして視聴した・・。

この番組は故人となった作詞家・作曲家の作品を特集するシリーズ番組で、
今回は作曲家として数多くの名曲を遺されたいずみたく氏特集であった。
もとより、いずみたく氏は『恋の季節』、『見上げてごらん夜の星を』、『世界は二人のために』等、
数多くのヒット曲を作詞した才人であったが、特に私が注視したのは『夜明けのうた』、『希望』であった。

この番組で『希望』を唄われたのは、無念ながら私にとっては未知の姿月あさとさんであったが、
歌唱力も乏しく、何よりに若いので人生経験不足が露呈した表現力となり、
失望を感じたのである。

番組の終わりの間際に、梓 みちよが『夜明けのうた』を唄われたのであるが、
圧巻ひと言であった。
もともと私はこのお方の『こんにちは赤ちゃん』、『二人でお酒を』等は苦手であったが、
番組の半ばで『ベットで煙草を吸わないで』を唄われて、
みちがえるほど歌が巧(うま)くなった、感じたりしていた。

梓 みちよが唄った『夜明けのうた』は、
鍛錬を積み重ねたと思われる歌唱力、何よりもこの歌に託された思いを感じ取り、
そしてご自身の歩まれてきた人生の軌跡を全てこの歌で発露されたように感じ、
稀(ま)れに見る人に感動を、私のように感銘を受けた『夜明けのうた』となった。


この後、居間にある音楽棚で一枚のCDを抜き取った。
『「希望」よ永遠に いずみたく作品集』であり、
キングレコードより1992(平成4)年8月5日に発売されたCDである。

『恋の季節』ピンキーとキラーズ、『見上げてごらん夜の星を』坂本 九、『世界は二人のために』佐良直美、
そして『夜明けのうた』、『希望』岸洋子・・等の11曲が収録されたアルバムであった。
このアルバムは当時としては、いずみたく氏の功績をたたえて、
ビクター、東芝の音源協力を得て構成された異色アルバムであった。

このような思いもさることながら、
私は岸洋子さんの『夜明けのうた』、『希望』を聴いてしまったのである・・。


東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋の頃、
私は大学を中退し、映画青年の真似事をはじめた時であった。
私は興味がなかったが、この前後には青山和子の『愛と死をみつめて』、都はるみの『アンコ椿は恋の花』、
洋楽としてビートルズ、ピーター・ポール&マリーがラジオから盛んに流れていた・・。
このした中で、何かしら澄み切った希望を託されたかのような岸洋子の『夜明けのうた』も流れたのである。

次兄は大学四年生の時で、所属したクラブの文集の編集をして折、
ある程度完成した時に、私に見せたのである。
表紙、目次に続いて、1ページに於いて、

夜明けのうたよ 私の心に
昨日の悲しみ 流しておくれ

・・
(略)
・・

すべて明記されて、最後の一行に『夜明けのうた』 詞・岩谷時子、
と記されていた。

私は唖然としながら、歌の作詞・・すべて転載しても良いのかしら、
と思ったりしていたが、次兄の高揚した顔を見ると、私は黙り、
ただ作詞家の岩谷時子は才能のある方、と感じたりした。

その後、私は文学青年の真似事をしたりしている時、
岸洋子さんのシャンソン、カーンツォネの名曲がラジオからも流れて、
ときおり聴いたりしていた。

1970(昭和45)年の春、私はある民間の大手企業に中途入社した。
そしてまもなく、勤めていた事業本部の中で、音楽のひとつのレーベルが外資系として独立した。
私はこの独立したレコード会社に転属となり、その後は本社の管理部門のコンピュータ担当として、奮闘していた。

この間、私は余りにも音楽に無知だったので、
月給を頂くたびに、少なくとも自社のLPと称されたレコード・アルバムを一枚以上、
他社のLPも一枚以上、と買い求めて聴いたりしていた。
この中で、他社の岸洋子さんのアルバムが二枚ばかりあった。


確か1972(昭和47年)の初秋の頃だったと思われるが、
日生劇場でリサイタルのライブ盤発売され、たまたま私は購入した・・。

何かしら岸洋子さんは、ご病気で闘病され、病み上がりのカンバックとして、
リサイタルを開催された、とアルバムの解説に綴られていた。

この中で、特に『夜明けのうた』、『希望』は、
生きようとする証(あかし)のように凄烈な唄声を秘め、
少し酒田弁のニァンス、アクセントが混じり、ご自身の本心を発露するかのように、
渾身に満ちた心で唄い上げたのである。
私は聴き終わった後、呆然としながらも涙を流していた・・。

この後の私は、帰宅するたびに、夜のひととき毎晩聴いたりした。

こうした時、会社の部署の慰安旅行があり、
土曜休日の朝、私はこのアルバムを聴いた後、集合場所に行った。
翌日の夕方に帰宅後、自室に入ると、かすかに音がしていた。
私はレコードプレイヤーの上カバーを開けると、
ターンテーブルの上に、カートリッジの針先がこのレコードの最終の周回を廻っていた。
私は30時間の耐久テストじゃ、あるまいし、と自身のうかつさに苦笑したりした。


この後、私は世の中の時流に伴い、カセット、そしてCD、DVDと準拠したので、
レコードプレイヤーは手放し、レコードも興味ある友人に大半差し上げたしたが、
この岸洋子さんのライブ盤を含めた300枚前後は、押入れに休眠している。


私は『夜明けのうた』の歌に関しては、次兄から最初に教えて貰ったのであるが、
次兄は私の30代なかばに自裁され、私は困惑した時期もあった。
そして、『希望』はどのように辛い人生でも、たえず希望という灯火を持ち、生きることが大切なの、
と岸洋子さんのライブから改めて教示されたりした。

私のこれまでのつたない人生の64年の歳月でも、
岸洋子さんの唄われた『夜明けのうた』、『希望』の二曲は、
ときおり思い馳せながら、過ぎ去った苦い想いで共に重ねたりしている。



本来ならば、日生劇場でリサイタルのライブ盤を掲載したいが、
無念ながら、『YouTube』に於いて、最も近い唄声を掲載させて頂く。
そして、天上の女神のひとつの岸洋子さんに、改めてご冥福と感謝を捧(ささ)ぐ。


http://www.youtube.com/watch?v=3GvqIap0Q2U

【『夜明けのうた』 作詞・岩崎時子、作曲・編曲・いずみたく、唄・岸 洋子】


http://www.youtube.com/watch?v=ZYEhJKWSvhA

【『希望』 作詞・藤田敏雄、作曲・いずみたく、編曲・川口 真、唄・岸 洋子】




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年金青年の私は、熱愛し少なくとも300回以上、聴いた曲は・・♪

2009-08-12 16:38:15 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の64歳である身であり、
殆ど毎日、買物をしたり、散策をしたりしている。

こうした日常生活の中では、やはり読書の時間が多いが、
綴ることが好きで、ブログ系のサイトなどに投稿したりしている。
そして、ときたま居間でビデオ、DVDの映画作品を鑑賞したり、
CD、DVDで音楽を聴いたりしたいる。

私の現役時代は、たまたまレコード会社に勤め、
制作に直接係わる部門でなかったが、管理部門の各部を体験してきたので、
それなりにカセット、CD、DVDをある程度は保有している。

定年退職後の年金生活になると、
その日の心情により、適当に聴いたりしているが、
オペラとジャズは苦手であり、これ以外のどの分野でも聴いたりしているが、
やはり中島みゆき、井上陽水、X JAPAN、ミーシャなどは、
現役時代から引き続いて多く聴いたりしている・・。

そして、年金生活になると、読書が最優先となり、投稿文を綴ったりしているので、
音楽の興味は薄れているが、年金生活で初めて知り、私なりに夢中になり、
少なくとも300回以上の歌を聴いたアーティトがいる。

絢香ちゃんの『三日月』、コブクロの『赤い糸』、そして徳永英明の『ハナミズキ』の歌に魅了されたのである。

私は魅了された方には、小説・随筆などの作者への思いと同様に、
物狂いのように夢中に一時的に熱愛するひとりであるので、
この時の熱き思いを数多く投稿しているので、あえて一部を再掲載をする。


絢香ちゃんの『三日月』に関しては、
【 秘かに、絢香という歌手に魅了・・・♪ 】
と題して、2006年11月5日に投稿している。

【・・
この三ヶ月、ラジオなどで絢香という歌手の歌声に魅了されている。

私は定年退職後の年金生活をし、歳を重ねた62歳の身である。

私は日頃から音楽も好きであるが、ここ5、6年は若手の音楽には興味を薄れている。

平成9年の秋、小柳ゆきの『あなたのキスを数えましょう』を偶然にテレビで観た時は、
仰天し、それ以来『愛情』、『be alive』を初めとするCD、DVDなどライブ盤を含め、
熱愛ファンの期間が2年ほど続いた。

その後は、元 ちとせ、平原綾香には少し感心したが、魅了されるところまで心が響かなかった。

先程、ヤフーの無料動画で、絢香(ayaka)の『I believe』、『Real voice』、『三日月』の三曲を視聴したが、
歌詞と歌声に改めて魅せられている。

何が好いかといわれても、男女の間の恋しさと同様に、感覚、そして感性の問題である。

62歳の歳を重ねた身であるが、
ブームなどという浮ついた時代を超える名曲のひとつ『三日月』を
殆ど毎日数回は視聴している。

最後に、齢を重ね年金生活の私さえ、感動を頂き、
瞬時に綾香(あやか)ちゃんの歌詞と歌声に魅せられた『三日月』に敬意をし、
添付させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=cGGIBgCuTTs&feature=related
【 『三日月』 作詞・綾香、作曲・西尾芳彦、唄・綾香(ayaka) 】

・・】


コブクロの『赤い糸』に関しては、
【コブクロの『赤い糸』、感銘を受けたひとりとして 】
と題して、2007年11月18日に投稿している。

【・・
私は定年退職後の年金生活の4年生の身であるが、ときおり音楽を聴いたりするのが好きである。

私は現役時代は音楽関係の会社に勤めていたが、
制作畑でなく管理畑であったので、制作関連には全くの素人であり、
ただ私なりの感覚的好きな曲は数多くある。

私は齢を重ねたせいか、2000年以降からは、
正直な云えば素直に聴いて、感銘を受けた曲は少ないのである。
現役時代の56歳前後に小柳ゆきには熱愛した時期、
退職後の昨年は絢香の『三日月』には魅了されたりした。

(略)

一年に数度ぐらいは、テレビで放映される音楽の番組を視聴するが、
私の日常生活の音楽は、私の音楽棚からCD、DVDから取り出して視聴しているが、
圧倒的に2000年以前の作品である。

この程度の素人の身であるが、一昨日の夜に、
NHKでプレミアム10『恋うた2007 autumn&winter』という番組を視聴した。

ときには、最近の若い方たちが、どのような音楽に魅了されているか、
テレビ放映であるので具体性があり、視聴した次第である。

徳永英明、ユーミンは、同時性で聴いていたので、論外であるが、
ただ《徳永英明》の『まちぶせ』、『恋におちて~Fall in Love』は、
彼の特有の声質で、女性歌手が唄われた過去の名作に改めて魅了された。

中島美嘉の『STARS』、『WILL』、『雪の華』、BoAの『メリクリ』、
そして大塚 愛の『恋愛写真』、
これらは私の苦手であり、どうでもよい、と世代の差を感じるのである。

(略)

コブクロに関しては、ミリオン・セラーを獲得している最近では数少ない人達であることは、
ネット等で知っていたが、歌そのものをじっくりと聴いたことがなかったのである。

『赤い糸』は初めて聴く歌であったが、
恋情を真摯に綴られ詩情がある作詞で、何より独創性がありながら余情があり、
文学性もありながら昇華された作品である。

遠い昔、シャンソンの分野では、
こうした作風は何気ない情景、情感があったような感じを思い出したりし、
現世の時代に独創ある上で発露させた彼等に私は絶賛する。

彼等のコメントに寄れば、
結成まもない9年前に路上、その後のライブで唄い、
好きな歌のひとつです、と語っていた。

作詞、作曲、そして歌声に久々に歌の世界から感銘を受けたのである。

そして、彼らが無名の時、自分達を信じて、夜の路上で唄った時の心情を思い、
私なりに胸が熱くなった・・。

『赤い糸』は、私なりに63歳の身でありながら、
残された歳月に数少ない心に沁みた名曲と確信したりしている。

尚、この後『蕾(つぼみ)』は、今年発表された曲であるが、
私の今年度の最も好きな曲である。

http://www.youtube.com/watch?v=3RapUTyqegA

【『赤い糸』 作詞、作曲・小渕健太郎、唄・コブクロ 】

・・】



徳永英明の『ハナミズキ』に関しては、
【 一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』に心を寄せて・・♪ 】
と題して、2008年11月12日に投稿している。

【・・
東京の郊外は、このところ秋日和から見放され、
どんよりと曇った日々が続き、ときおり霧雨が降ったりしている。

私は昼前後、買物に行ったり、散策をしているが、
菊薫る時節といわれても何かしら実感できないのである。
落葉樹も黄色、朱色に色付きはじめているが、わずかの情景であり、
あと2週間ぐらい過ぎれば、鮮やかな錦繍の情景を観ることができるだろう、
と思ったりしている。

このような時でも、遊歩道を歩いていたら、
朱紅色に染められた花水木(ハナミズキ)の樹が3本ばかり観え、
私はしばらく見惚(みとれ)れて、
心の中で静かに唄いだしたのである。

そして遊歩道に人影が少ないのを確かめて、小声で唄いだしたのである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私なりに、残された歳月で私自身の夢を実現をさせる命題もあり、
そして私たち夫婦は、この先いつまでも恵まれた生活が続くわけでなく、
いずれ片割れになる・・。

このような思いを重ねたりしたのである。


半年前頃、無料音楽の【You Tube】サイトに於いて、
何かしらのテレビの音楽番組収録された一 青窈さんと徳永英明さんが
デュエットでこの歌を唄っていた。
私はここ数年この一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』に魅了されて折、
改めてこの歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
感動し、やがて感銘を受けたひとりである。

私は徳永英明さんのように透明感あるシルキー・ヴォイスのようには唄えないけれど、
私なりに齢を重ねた64歳の身であるが、心を込めて精一杯唄ったのである。


♪僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと止まりますように
 君と好きな人が百年続きますように

 君と好きな人が百年続きますように


【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、
と実感しながら家路に向ったのである。

http://www.youtube.com/watch?v=w9bxyOGTsrI

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・徳永英明 】
注)NHKテレビの音楽番組収録された一 青窈さんと徳永英明さんが
デュエットでこの歌を唄っていたが、
この後、NHKの要請で削除され、やむえず徳永英明のコンサートの一部を掲載させて頂いた。

・・】


このように熱愛した歌を綴っていたのであるが、
夢のような時が過ぎても、ときおり私はこの3曲聴いたりし、
特に『ハナミズキ』は小声で唄ったり、心の中で唄っている。



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今宵ひととき、中森明菜ちゃんの唄声に私は・・。

2009-08-12 12:11:35 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、NHKの総合ニュースの『おはよう日本』を読売新聞を読みながら、
ときおり視聴していた時、
明菜ちゃんの唄声が聴こえてきたので、私はテレビの画面を注視したのである。

何故かしら、中森明菜『名曲を歌い継ぐ』と明示され、
中森明菜ちゃんが唄声を披露されたり、インタビューを受けたりしていたが、
真摯な名曲に対する思いの発言に、私は好感したのである。

この後、NHKの夜の11時から放映される『SONGS』に出演し、
このお方の得意なカバー曲として、中島みゆき、井上陽水、尾崎豊、ユーミン等の名曲を唄うことと知った。


私はこの後で、ネットで採り上げる曲名を知りたくて、検索した。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-08-12&ch=21&eid=15619

この中で、『ダンスはうまく踊れない』中森 明菜、と明記されているが、
正しくは井上陽水であり、後に奥様となった石川セリが井上陽水の作詞・作曲の提供を受けてヒットした名曲であり、
ときおりNHKも誤る、と微苦笑したのである。


中森明菜ちゃんがデビューした頃の1982(昭和57)年は、
私はあるレコード会社の管理畑の情報部門で奮闘していた時であった。
システム改定などで多忙期で、この頃の業界はアイドルの全盛期で、
石川秀美、小泉今日子、早見優、堀ちえみ、松本伊代などがデビューされ、
『花の82年組』と称された。

こうした中、中森明菜ちゃんも『スローモーション』でデビューし、
このあとの『少女A』がヒットとし、その後の『セカンド・ラブ』が1983年の代表されるような曲なった。

私は他社に所属される中森明菜ちゃんを、管理畑ながら、このように眺めていた。
この後、1985年の第27回日本レコード大賞に『ミ・アモーレ(Meu amoré・・・)』、
翌年の1986年の第28回日本レコード大賞に『DESIRE ~情熱~』で2年連続日本レコード大賞を受賞し、
私などは他社の管理畑の身であったが、凄いねぇ、と感心したのである。

そして翌年の1987年になると、レコード協会が実質売上げを公記した『第1回日本ゴールドディスク大賞』に於いて、
邦楽で最も売上げた『アーティスト・オブ・ザ・イヤー』の栄誉を受賞された。

この間、世の中はカラオケ・ブームが盛んで、
私は会社の上司、同僚どで、多忙の合間に少し豪華なカラオケをさせる洋風の飲食店に行ったりしていた。
私は40代の初めの頃で、無念ながら安全地帯は唄えなく、
やむえず八代亜紀、内藤やす子などの歌を唄ったりしていた。
こうした中で、ときおり同じ部署の若い女性を三人ばかり誘って、席を共にしたのであるが、
ひとりの女性が、中森明菜の歌の数々を唄い、
他社なのに、最も勢いのある中森明菜の威力に、私達年配者は微苦笑させられたのである。

こうしたことがあったが、私は40代の初めであったので、
若き女性を魅了させた中森明菜の唄声には遊離していた。


この後、1994の春の頃、中森明菜はカバー・アルバムとして『歌姫』に、
有数な名曲に対して、中森明菜はどのように唄うか、私は興味を持ったのである。
そして2002の春に『-ZEROalbum ~歌姫2~』が発売されると買い求め、
その後の2003年の師走時に『歌姫3 ~終幕~』を購入し、
私は定年退職を迎えたのである。

こうして年金生活をしている昨今、ときおり中森明菜の『歌姫』の三枚のアルバムを聴いたりしている。


このように淡き思いがあるので、
今宵のひととき、中森明菜ちゃんに心酔できるか、
と齢を重ねた楽譜も読めない小父さんは思ったりしているのである。



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我が心の片隅には、シャンソンの名曲が秘そみ・・。

2009-07-05 15:55:59 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昼下りのひととき、【YouTube】のサイトを開き、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》のコーナーを見て、少し驚ろいたのである・・。


「シャンソンの殿堂 銀巴里」1/3

と題された曲が紹介されて、私自身のプログ・サイトに『銀巴里』のことも綴って折、
何よりも、【YouTube】のサイトで、私がシャンソンの名曲を数多く視聴してきたので、
【YouTube】のシステムの検索の結果として、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》にで於いて、選定されたと理解したのである。

この後の私は、「シャンソンの殿堂 銀巴里」の三篇を視聴し、
微笑みながらも少しため息もし、苦笑したりした。

http://www.youtube.com/watch?v=l4sl0g9v4W0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=rhT4R-dufG0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ZwooRF9T5qA&feature=related


この後、私は『銀巴里』に通った前、シャンソンの魅せられた初めの頃を思いだしたのである。

私はこの頃の思いとして、2005年5月21日に於いて、
【 『ナントに雨が降る』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は大学を中退し、映画、文学青年の真似事をして、あてどもない先行きが見えない生活をしていた。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、その後もアルバイトをしながら、小説の習作していたが、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と結婚した時に家庭を築き妻子を養えるかと素朴に叱咤されると、
私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたのは、25歳の昭和45年4月であった。


この会社は、レコード部門があり、私のたっての願いがとおり、
この部署に配置された。

その後、レコード部門のひとつが独立会社となり、
私は独立したレコード会社に移動した。
まもなくして、私はコンピューターの専門職となり、恵まれた職場の一員となった・・。

夜、残業をしていた時、
夜の闇からつぶやくような神秘性のあるフランス語が聴こえてきた。

私は仕事の手を休め、煙草を喫いながら、聴き入った・・。

♪Il plent sur Nantes
  Donne-moi la main
  Le ciel de Nantes

洋楽販売促進課の誰かが掛けたのだろう・・。

私はレコードプレイヤーに近ずくと、
レコードのジャケットがそばに置かれていた。

バルバラの『私自身のためのシャンソン』

とタイトルは綴られていた。


私はそれまでのシャンソンの知識は、越路吹雪、岸洋子ぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』が私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としてである。

このバルバラの『ナントに雨が降る』には、
私の屈折の多い青春と私自身は父親を幼児の時に死去された想いか加味され、
瞬時に魅了されてたのである。

《・・
   『ナントに雨が降る』  
                訳詩・永田文夫

♪ナントに雨が降る
 私を放ってほしい
 ナントの空は 私の心を悲しくしてしまう

 ちょうど一年前の
 そんな朝
 ナントの街は やはりどんよりとして
 私が駅から出た時
 今まできたことがなかった街は
 私にとっては見知らぬ街
 メッセージが来なければ
 旅行などしなかったでしょう

 ”マダム、グランジュ・オー・ルー通り25番地へ
 お越し下さい
 忙いで! 希望はあまりありません
 彼の最期の時に
 あなたに会いたいといいました”

 長い長い放浪の後
 やっと彼は私の心の中へ戻ってき
 彼の叫びは沈黙を破り・・
 彼が去ってしまってから
 長い間、私はこの放浪者、この不明者を
 待っていた

 ああ ついに彼は私のところへ戻ってきた
 グランジュ・オー・ルー通り25番地
 私はあの出会いをなつかしく思い出し
 廊下の奥にあったこの部屋を
 思い出の中に深く刻みこんだ

 私が行くと、暖炉のそばに座っていた
 4人の男が立ち上がり
 部屋の明かりは寒くて白く
 彼等は晴れ着を着ていた

 その見知らぬ人たちに
 何も質問せず
 何も言わず、ただ彼等をみただけで
 私はすでにもう遅すぎたことが解った
 それでも私はそこにいた

 グランジュ・オー・ルー通り25番地に
 彼はもう決して私に会うことなく
 すでに世を去っていた

 さあ これがあなたの知っている物語
 彼がある晩戻ってきて
 それが彼の最後の旅
 最後の岸辺になってしまった

 彼が死ぬ前に
 私の微笑で暖まりたがっていた
 けれどその夜のうちにこの世を
 去ってしまった彼

 別れの言葉も ”ジュ・テーム”もいわないで・・
 海に続く道にある
 石の庭に横たわって
 安らかに眠ることを祈ります
 私は彼をバラの花の下に横たえた
 神よ、神よ・・

 ナントに雨が降る
 そして私は思い出す
 ナントの空は
 私の心を悲しくしてしまう・・

・・》

http://www.youtube.com/watch?v=DXYiTu9tzEU&feature=related

この歌は、父の死をしみじみバルバラ自身が綴り、唄ったものである。

この時のレコードから聴こえたのは、
フランスの原語であったが、何となく歌詞の概要は解り、職場であったが、目頭が熱くなった。

その後、バルバラに傾倒して、
アルバムのレコードが12枚聴き込んだころになると、
『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりだった・・。
・・】


私はこのようにバルバラに魅せられたシャンソンに物狂いとなり、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
『銀巴里』に通ったりしたのである。

この時の想いは、その後の新婚時代の時のことは、
【 そして、あの時、貴女は・・♪ 】
と題して、このサイトの2009年3月8日に投稿しているが、再掲載する。

【・・
東京郊外の調布市は、どんよりとした曇り空で朝を迎えている。
夕方からは雨となる、と地元の天気情報が報じられている。

私はぼんやりと、庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、白梅、紅梅の大半散った花を眺めたり、
日本水仙を眺めたりしていた。

そして、どうした心境か解からないが、ひとつの歌が私の心を占領したのである。


♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は心の中で唄いだした・・。

♪流れる唄 懐かし唄
 夢をささやく あのメロディー

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 

私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。

♪いつの日にか また逢いみん
 溢れくるわ 涙

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は定年退職後の5年生であるが、
ふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。


37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
銀座でなかった場合は、
渋谷の外れのカンツォーネ、シャンソンを聴かせてくれる所で、
食事兼オンザ・ロックのウィスキーを呑んだりしていた・・。



この後、家内と結婚前に交際していた時も、
この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。


新婚まもない時、東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。

歌い手は私が魅了されている金子由香里さんで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、
せひ観て欲しかったのである。

3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、
ときおりリクエストなどをしていたのであった。

そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・
これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に言った。

私は、人生の駆け出しのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、
と思ったりしている。


このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったので、
どんよりとした曇り空、いつ雨が降ってもおかしくない情景なので、
このような心の片隅にあることが想いだされたのかしら、
と感じたりしたのである。

そして、若き日々人生を歩みだした時、
『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から苦笑したりしている。

・・】

このように金子由香里さんの唄声に熱愛したこともあった。

そして、シャンソンに関しての最新としては、
このサイトの2009月3月28日に於いて、
【 戸川昌子の『リリー・マルレーン』の名曲を久しぶりに聴いて・・♪ 】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。

【・・
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後のひととき、【YouTube】を開き、
シャルル・アズナヴールの『帰り来ぬ青春』、『遠い想い出』、『イザベル』、
『ボエーム』、『愛のために死す』等を視聴したりした。

この後、エディト・ピアフの『水に流して』などを聴いたりしたが、
この曲も数多くの歌手に歌い継がれている。
日本の私にとっては未知の歌手も唄って折、
私は視聴した後、この方は『リリー・マルレーン』の曲も唄っていたので聴いたりした・・。


『リリー・マルレーン』の名曲に関しては、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
【・・
『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。

1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ (Hans Leip) が
ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に
創作した詩集 "Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht" に収録されていた詩をもとに、
第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、
歌手のララ・アンデルセンが歌った。

歌詞は、兵営の大門の前に街灯が立っている。
そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。
男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い。

第二次世界大戦下では、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に、
多くのドイツ兵が、戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。
また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、
北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。

日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、
アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問、この歌を歌った。
このためにドイツでは彼女は敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
・・】


このように解説されているが、
私はマレーネ・ディートリッヒに敬意しながら、彼女の歌声に心酔した後、
著名な海外の歌手の3名のお方のも視聴したりした。

この後、日本語も聴きたくなり、
【YouTube】の検索で、戸川昌子、とキーインしたら、
数々の歌曲が明示されたので、驚いたのである。


♪ いくさに行く前の夜
  子どものように泣きじゃくり
  私の名前をあなたはつぶやく
  ※いとしいリリー・マルレーン
   いとしいリリー・マルレーン

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。

『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。

こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。

私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいた折、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。


♪ 窓の下を兵隊の
  長い列が町を出る
  私を見あげてあなたは叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


この『リリー・マルレーン』は『失くした愛』と題されたアルバムの中のB面の一曲目に収録されてあるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。


♪ 夜空の下鉄砲を
  抱えたまま眠る歌
  汚れた私の写真を取り出し
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを百回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝レコードで・・シャンソンで戸川昌子さんの今度のアルバム・・
凄いですよ・・私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。


♪ 地獄のような戦いに
  身を捧げて傷ついて
  倒されたあなたは最後に叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。


♪ 平和の日は来たけれど
  あなたはまだ帰らない
  瞳を閉じれば聞こえるあの声

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】

http://www.youtube.com/watch?v=HoBb5QJRs0c

このようなことを思い重ねて、私は2回ばかり、
20年ぶりに聴いたりした・・。

そして、私は齢を重ねた64歳の身となったが、
今でも戸川昌子さんの『リリー・マルレーン』の唄声を聴くと、
まぎれなく人生の姉貴だ、と感じたのである。

・・】

このように戸川昌子さんの唄歌に心酔し投稿したのであるが、
改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。




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今年の上半期、最も愛され唄われた曲は、GReeeeNの『キセキ』・・。

2009-07-02 14:21:23 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
小説、随筆などの読書、居間で映画鑑賞に続いて、ときおり音楽も熱中することもある。

先程、何気なしにネットのニュースを見ていたら、
【 09年上半期、最も歌われた曲はGReeeeN「キセキ」=Fj 】
と題された記事を読み、少し驚きながら読んだりしたのである。

配信元は『サーチナ』で、6月30日17時12分の配信記事である。

【・・
通信カラオケ最大手の第一興商が発表した2009年上半期のカラオケランキングは、
楽曲別でGReeeeNの「キセキ」が、アーティスト別ではEXILEが、それぞれ1位を獲得した。
両者とも昨年の年間ランキングで1位を獲得しており、2連覇に期待が掛かる。

楽曲別ランキングはGReeeeNの「キセキ」が1位に輝いた。
同曲は2008年年間カラオケリクエストランキング(楽曲別)でも1位に輝いており、
CD発売から1年が経過した現在においてもカラオケ人気が継続していることが証明された。
2位は、同2008年ランキング17位から見事に順位を上げた秋元順子の「愛のままで…」だった。

 【上半期楽曲別<10位まで>】
 1位 キセキ/GReeeeN
 2位 愛のままで…/秋元順子
 3位 Ti Amo/EXILE
 4位 366日/HY
 5位 Lovers Again/EXILE
 6位 ORION/中島美嘉
 7位 愛唄/GReeeeN
 8位 ハナミズキ/一青 窈
 9位 残酷な天使のテーゼ/高橋洋子
 10位 愛のうた/倖田來未

・・】

このように綴られた後、アーティスト別ランキングなどが掲載されていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090630-00000152-scn-ent


私はGReeeeNの『キセキ』を好感し、聴くのは好きであるが、
無念ながら齢を重ねているので、このベストテンの中では、
一青 窈の『ハナミズキ』しか唄えないのである。

こうした思いは、このサイトの5月9日に於いて、
【 『母の日』には、私なりに『ハナミズキ』の歌を心の中で唄い・・♪ 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
過日の6日の夜10時からNHK総合で【SONGS】を視聴した。
この番組の今回は『SONGSスペシャル 女性ヴォーカリストBEST』と題して、
番組のナビゲイターとして永英明さんが進行を進め、唄い、
こうした中で麗(うるわ)しき七人の女性が、その人となりの魅力ある歌を唄っていた。

私は最も魅了を受け、感動したのは、
一青窈さんが『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・
この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったのである・・。


私は小学2年の昭和28(1953)年に父に病死され、
母の下で兄ふたり、妹ふたりの中で育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服の買う時に足しにして頂戴、
といくばくかの現金を包み、母に手渡したりし、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去れた。
古来より男は父親に対してはともすれば忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
私もときおり母の言葉やしぐさを思い出されている。
そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
家内が何より母を信頼した言動をしてきたので、家内は母に可愛がれたりしたのが、
せめての私の救いとなっている。


私達夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、
ときおり国内旅行をしてきた。

私の定年退職の直前に家内の父が亡くなり、
独り住まいとなった家内の母と私達夫婦は、年に数回は国内旅行に行っている。
そして、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多い。

今年の春先、鹿児島の知覧の特攻平和会館を観たいわ、
と家内に行ったりしたので、
私達夫婦は、少し『母の日』には早いが、鹿児島市内・霧島温泉に4泊5日で行き、
この間のひとときに家内たちは知覧の特攻平和会館を訪れたのである。


このような思いが私なりにあり、一青窈さんのメッセージを聴いたので、
今年の『母の日』には、私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと決意したのである。

♪ひらり蝶々を
 追いかけて 白い帆を揚げて
 母の日になれば
 ミズキの葉 贈って下さい
 待たなくもいいよ
 知らなくてもいいよ

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

私はかって永英明さんがこの『ハナミズキ』をシルキー・ヴォイスの魅力あふれる声で唄っていたけれど、
無念ながら彼のように唄えないが、私なりに心を込めて精一杯唄うつもりである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

ここまで唄うと、たぶん私は涙ぐんでしまうかしら、と思ったりしている。

(略)

・・】

http://www.youtube.com/watch?v=qeHvcD6ehH0
【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】


このように投稿しているが、一青窈さんの『ハナミズキ』を私が知ったのは、
遅ればせながら三年前の頃であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったこともあり、
家内との2人だけの心身共にいつまでも続けられる思いを託し、

♪♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一青窈 】

と私は人影の少ない遊歩道を独り歩く時に鼻歌を唄ったり、
何かの会合で、止む得ずカラオケで唄う時、女性と共に唄ったりしたことが数回あったりした。

私は64歳の身であるが、ときおり10歳ぐらいは若く見える、
と煽(おだ)てられることもあるので、
少し無理をし、気負うのは承知の上であるが、GReeeeNの『キセキ』を唄ってみようか、
と秘かに小声で練習しているのである。



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雨降る朝、思わず『城ヶ島の雨』を心の中で唄えば・・♪

2009-05-29 09:32:50 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝6時過ぎに玄関庭の軒下で、
過日に庭の手入れをしたので、小雨降る中の樹木を眺め、少しは小奇麗になり、
清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。

しかし、雨が昨日の朝の6時過ぎから降り続けているので、
本格的な梅雨前の一時時期の長雨である走り梅雨と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と云うも本音である。

♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
【・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・】

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。


私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
【・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・

(略)

白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・】
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。

そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。

♪雨はふるふる
 日はうす曇る
 舟はゆくゆく
 帆がかすむ

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを1時間ばかり思ったりした。



♪【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞、唄・藤山一郎 】
http://www.youtube.com/watch?v=K7uGnSNXXYw



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昨年度、最も愛された曲は、青山テルマ feat.Souljaの『そばにいるね』・・。

2009-05-21 16:31:59 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
日常の多くは小説、随筆の読書をしているが、
ときおり音楽も聴いたりしている。

先ほど、ネットで音楽専門サイトの【MUSICMAN-NET】の記事を読んでいて、
私は思わず微笑んだのである。


【 JASRAC賞発表で「そばにいるね」が著作物使用料1位に 】

と題された記事である。

【・・
[ビジネスニュース]
2009年5月20日 Musicman編集部

20日、昨年度の著作権使用料の分配額が多い作品を表彰する「JASRAC賞」が発表され、
青山テルマ feat.Souljaの「そばにいるね」が2009年国内作品の金賞を受賞した。

「そばにいるね」は、2008年度インタラクティブ配信部門の分配第1位、
カラオケ部門第5位など、数多くの分野において上位にランクインしている。

銀賞は、アニメ 創聖のアクエリオンの主題歌「創聖のアクエリオン」が受賞し、
銅賞はGReeeeNの「キセキ」が受賞した。

外国作品賞を受賞した「ZOOM ZOOM ZOOM」は6年連続の受賞となる。

なお、2008年の国内作品金賞は、宇多田ヒカルの「Flavor Of Life」、
2007年は「ハウルの動く城BGM」が受賞している。

▼日本音楽著作権協会(JASRAC)
 → http://www.jasrac.or.jp/

・・】

記事の原文
http://www.musicman-net.com/cgi-bin/public/n-view.cgi?hid=07-47-0029

注)記事の原文に対し、あえて改行を多くした。



このような記事であり、著作権使用料の分配額が多い作品ということは、
実質お金を払われ中で、数多くの人々から最も愛された曲だ、
と思ったりしたのである。

そして、私は齢を重ね、体力は衰えてきたが、
感性は少し若いかしら、と微笑んだのである。


私はこのサイトに昨年の2008年12月4日に於いて、
【 年金小父さん、青山テルマの『そばにいるね』も聴いている・・!? 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の五年生の64歳の身であるが、
昨夜.ネットでニュースを検索していたら、

【 2008年、「iTunes Store」で最もダウンロードされた楽曲が発表 】

と題された記事があり、私は読んだりしたのである。


私の定年後の年金生活は、小説・随筆などの読書することが多いが、
居間に保存しているでビデオ・テープ、DVDの映画を観たり、
或いはカセット、CD、DVDの音楽を聴いたりしている。


そして、遅ればせながら、この半年は『YouTube』も愛用し、
ときたま聴いたりしているのである。

私が初めて『YouTube』を知った時は、
これは音楽業界はバンドラの箱が開けられた、と思いながら衝撃を受けたのである。

(略)

このような思いで齢を重ねた年金小父さんも何かと音楽に興味があったので、
昨夜報じられた、

【 2008年、「iTunes Store」で最もダウンロードされた楽曲が発表 】
12月3日9時13分配信 BARKS

と題された記事を精読したりした・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
800万曲以上の楽曲をそろえる世界最大の音楽配信サービス「iTunes Store」で、
2008年に日本国内で最もダウンロードされた楽曲およびアルバムが発表された。

【関連情報】「iTunes2008 トップソング」チャート(全100作品を掲載)

iTunesの発表した2008年の年間「トップソング」チャートによると、
1位となったのは、青山テルマ feat. SoulJaの「そばにいるね」。
1月23日にシングルリリースされたこの楽曲は、
着うたフル(R)で史上初の200万ダウンロードを突破。
ギネスブックにも「日本で最も売れたダウンロード・シングル」として掲載されるなど、
2008年、圧倒的な支持を集めた楽曲といえるだろう。
ちなみに、7位には青山テルマの楽曲「何度も」がチャートインしている。

また、2位にチャートインしたのは、GReeeeNの「キセキ」。
TBS系ドラマ『ROOKIES』の主題歌だったこの楽曲。
こちらも着うた(R)、着うたフル(R)でともにミリオン突破するなど、
若者を中心に大ヒットした。
またGReeeeNは、メンバーHIDEの実兄であり、
プロデューサーでもあるJINとのつながりで、
BACK-ONとのコラボレーションバンドBAReeeeeeeeeeNとしても2008年デビューを飾り世間を騒がせた。
なおGReeeeNは、「愛唄」が8位にもチャートインしている。

・・(略)

・・】

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は6月の下旬に、若い人から話題となりヒットしている青山テルマの『そばにいるね』を視聴し、
最近の若い方たちはこのような曲を聴いているのか、
と思いながら、6度ばかり視聴し、才気を秘められた女性に、
私なりに魅せられ好感したのである。

(略)


・・】


この私は、このサイトに昨年の2008年12月10日に於いも、
【 今宵は、改めて青山テルマの『そばにいるね』を何度でも視聴し・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の5年生であるが、
先ほど、【YAHOO! JAPAN】のトップページの下段で、

【いま、知っておきたい エンターテインメント情報】を何気なく見ていて、
思わず『テルマちゃんだぁ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたのである。

そして、
【・・
本日、ニューシングルをリリースした青山テルマをはじめ、
楽しいおすすめコンテンツや、エンタメ情報をご紹介。】

と副題されて、
青山テルマ 青山テルマが歌うラブソング 等がメニューされて折、
私は青山テルマちゃんの写真が掲載されていたので、
見惚(みと)れたのである。

そして、今宵も何度か 青山テルマちゃんの『そばにいるね』を
視聴しょう、と思ったのである。

(略)
・・】


と投稿した身なので、微笑んだのである。


【 『そばにいるね』 作詞、作曲・SoulJa 唄・青山テルマ 】
http://www.youtube.com/watch?v=M80XXxMKFWw




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コメント
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