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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

今朝、広島の空に向い、哀悼の意を表して、黙祷をして・・

2025-08-06 13:58:33 | 傘寿からの思い
私は東京の調布市に住む9月の誕生日を迎えると満81歳になる身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。

私は1944年(昭和19年)9月に都心の郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年(昭和20年)8月15日に、かの大戦は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
                    
本日は、80回目の原爆忌を迎える。
広島市の平和記念公園に於いて、平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が営まれ、
被爆者や遺族らが犠牲者の冥福を祈り、
核兵器廃絶への思いを新たにされる。




        
 


私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、
黙祷をして58年となっている・・。


そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、
尊い命の冥福を祈っている。



         
          
第2次世界大戦中、アメリカのルーズベルト大統領は
ドイツに原爆開発で先んじられることを恐れ、

やがて1942年8月に軍部主導によりマンハッタン計画発足させた。

そしてルーズベルト大統領が死去後、
選出されたトルーマン大統領は原爆開発のマンハッタン計画の実態を知らされ、

動顛したが、やがて日本を降伏させる『ポッタム宣言』をイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相と
協議する中、1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功を知った。

そしてアメリカは、大戦後の状況を圧倒的な優位を確保する為に、特にソ連を意識して、
核兵器の威力を誇示させて、8月6日に 広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾投下した、
このような思いを私は深めている・・。

この後は周知の通り、戦後は東西冷戦体制の中で、核開発競争は激化し、
アメリカに続き、ソ連、イギリス、フランス、中国の各国が原爆実験に成功させて、
核兵器は世界へ拡散する時代に邁進した。

こうした核兵器開発競争は、もとより地球を破壊し人類を滅亡させるにはあり余るほど、
核兵器の製造・備蓄、そして核実験による地球環境の破壊、
更に核実験場周辺に多数の被曝者を生み出してしまった。

やがて1998年5月、インド、パキスタンが相ついで核実験を行ったことにより、
世界は核兵器保有国がさらに増えていくこともあり得る危険な局面を迎えている。

このように世界の主要国は、核の威力を背景とした軍事力と経済力などで、
したたかな外交が実施され、
それぞれの国は、国益を配慮した政治が行われている現実がある。

そして核兵器廃絶と多く方から念願されても、
この世で最もおかしな不条理な世界となっている・・。

このように高齢者の無力な私は、ただ8月6日の朝には、
西の空の果てに有る広島市に向かって、哀悼の意を表して、
ただ黙祷をしている・・。

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メガネ、私の大切なお友達となり、早や65年・・。

2025-08-05 15:19:45 | 傘寿からの思い

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本州各地で危険な暑さに 熱中症対策を、80歳の私は不要不出となり

2025-08-04 14:50:36 | 傘寿からの思い

先程、NHKの【NEWS WEB】を見ていたら、
『北陸で午前中から38度超 
     本州各地で危険な暑さに 熱中症対策を』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、6月より30度を超える日々が多く、
暑さに苦手な私は、今から夏のような暑い日が続いて・・、
と戸惑ったりしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、
住宅街を歩いたりしている。
    
しかしながら過信して、熱中症で遊歩道などで倒れて、
目覚めたら病院のベットの上だった、
こうしたことは多くの御方に御迷惑を掛けるので、
私は避けたいので、程々に自制しながら、歩いたりしてきた。


今回の《・・本州各地で危険な暑さに 熱中症対策を・・》、
どのようなことなの、真摯に学びたく、記事を読んでしまった。

物覚えの悪い80歳の私は、学んだことを忘れないために、
無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・ 4日も本州付近は、晴れて気温が上がっていて、
北陸では午前中から38度を超え危険な暑さとなっているところがあります。

午後はさらに気温が上がり、本州の各地で危険な暑さになると予想されていて、
熱中症対策を徹底してください。

最新の気象情報は「NHK ニュース・防災アプリ」でも気温・雨雲レーダーなど、
お住まいの地域や現在地の最新の気象情報やニュースをご確認いただけます

気象庁によりますと、4日も本州付近は広く高気圧に覆われて晴れ、
午前中から気温が上がっています。 

(略)

熱中症の危険性が極めて高くなるとして、
東北から沖縄県にかけてのあわせて36の都府県に
熱中症警戒アラートが発表されています。

(略)

▽エアコンを適切に使用するなど涼しい環境で過ごすほか、
▽水分や塩分を補給するとともに、
▽屋外の作業ではこまめに休憩をとるなど、対策を徹底し続けてください。

一方、日中の気温上昇の影響などで、関東と東北では、
内陸部を中心に4日夜遅くにかけて大気の状態が非常に不安定となり
局地的に、非常に激しい雨や激しい雨が降るおそれがあります。

また、5日以降、低気圧や前線の影響で北日本や、
東日本の日本海側などでは大雨となるおそれがあり、土砂災害や低い土地の浸水、
川の増水に十分注意するとともに落雷や竜巻などの激しい突風、
ひょうにも注意してください。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。

今回、本州各地で危険な暑さに、熱中症対策を、
80歳の私は学び、改めて今年の夏は、平年より暑い日が続いて、
驚嘆したりしている。

暑さに苦手な私は、ここ一週間、食欲もあるが、35度前後の暑い日々が続き、
夏バテのようになっている・・。

ここ一週間の私は、平素の我が家の買い物でスーパーに週に3回、
そして8月1日は、私の住む地域は『お盆の日』だったので、
私たち夫婦は、私の実家である長兄宅、その後はお墓参りに行ったりした。

これ以外は、午前中のひととき、自宅の付近を30分前後、
散策した以外は、不要不出の体制となったりしている。

こうした中、私はエアコンの冷気に甘えて、
随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
 或いは音楽も聴いたりしている。

この間、ブログの投稿文を綴ったり、
好感している御方の投稿文を読ませて頂いている。

このように体力も衰えた80歳の私の熱中症対策となり、
涼しい初秋の時節まで、我が身の為に過ごそう・・、
と微苦笑したりしている。


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足の裏の色で、内臓の健康度が判る、初めて私は学び・・。

2025-08-03 14:41:18 | 傘寿からの思い
先程、ヤフー・ジャパンより配信された記事を見ている中で、
『 健康的な足の裏の色をご存知ですか? 』、
と題された記事を見たりした。

私は私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、もとより健康でなければ、
自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思ったりしている。

そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、
年金生活を丸20年半を過ごしてきた。



しかしながら、今回の《・・足の裏の色をご存知ですか?・・》、
恥ずかしながら、何かと無知なことが多い私は、
具体的に足の裏の色合いなどは、気にしたことがなく、
どのような事なのですか、と思いながら記事を読んでしまった。

物覚えの悪い80歳の私は、学んだことを忘れないために、
無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・ココカラネクスト 

<picture><source srcset="https://sports-pctr.c.yimg.jp/vrwP1cu9cY2YL4Fg3aXpJtHyHIQWv4q0Pd5fNOzmBc_N1FzH6Nw5O-6uyBxRWdFhimYNeTTXgvh_or9AP5oST-TeUbcRCmEBT3ZDhZzY3Iqw3uC9fIPciP5ulQ_PhCX3PMc4pWI1wGO4M3s1xl_PiLz7FkjNAa7aVyjn9XKCWwcWuWzMm-8XmkxAbK80e6A5" type="image/webp" /></picture>【(c)CoCoKARAnext】

いきなりですが、みなさまの足の裏って何色ですか?

足の裏の色で、身体の中にある内臓の健康度がわかるんです!

基本的に5種類に分けられています。

 

1.『赤色』

   足の裏が赤い人は、心臓の働きが弱まっていて、血行不良が起きやすいです。

   血行不良になると、足に溜まった血液が、心臓に戻りにくいため、
   足の裏が赤色になってしまいます。
   運動不足や暴飲暴食なども原因と考えられています。


   足は、第二の心臓とも言われています。
   足のポンプ作用で溜まった血液を心臓に戻すためにも、
   ウォーキングや軽い運動など心がけてください。


2.『黄色』


   足の裏が黄色い人は、肝臓の機能が低下しているかもしれません。

   肝臓の機能が低下すると、血液の中にあるビリルビンなどの成分が
   ろ過されずに血液中に残ってしまいます。
   ビリルビンなどの成分は黄色。そのため、足の裏が黄色く見えます。


   お酒の飲み過ぎや生活習慣の乱れが、肝臓機能の低下をもたらします。

   肝臓が行う働きである血液を温める作用が減るため、
   足湯や足元を温めると、肝臓の負担を減らすことができます。


3.『紫色』

   足の裏が紫の人は、肺機能の低下や冷え性が考えられます。
   血液は、本来肺から酸素を取り込みます。
   肺が正常に働いてないと、酸素を十分に取り込めず酸素不足で、血液も紫色に。

4.『白色』


   足の裏が白色の人は、貧血や、ストレスが胃にきている時の状態です。
   精神的なプレッシャーが続いていたりすることも考えられます。
   栄養とエネルギーが不足しているので血のめぐりが悪く、
   代謝が悪くなっているサインです。


5.『ピンク』

   足の裏がピンク色の人は、1番健康的です。ご安心ください!

   内臓機能が活発に動いていて、ホルモンバランスも整っている状態です。


足の裏からわかる、内臓の不調についてご紹介しました。


ぜひご自身でチェックしてみてください!
[文:meilong スタッフ] ・・ 》
 

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。

今回、足の裏の色で、内臓の健康度が判る、
初めて私は学び、多々教示されたりした・・。

先程、私は足の裏の色を見たりして、
紫色だったので、肺機能の低下・・ドキンとした・・。
しかしながら、私は素足で、エアコンの冷風の中で、長らくいたので、
微苦笑したりした。

夕食前に私はお風呂に入る習性があり、
風呂上がりの私は、足元もうっすらとピンク色が多い、
実態である。

先程学んだ範囲では、内臓機能が活発に動いている、
と知り、80歳の私は何とか健康寿命の範囲でいられる、
と微苦笑したりしている


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『帰りたくなったよ』、80歳の私でも、心の中で唄い・・。

2025-08-02 15:33:31 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
午前中のひととき、我が家の平素の買い物でスーパーに行った帰路、
人影の少ない道を歩いていた時、心の中でひとつの歌を唄ったりした・・。

 ♪ 心の穴を埋めたいから 優しいフリして笑った
   出会いと別れがせわしく 僕の肩を駆けていくよ
    ・・・(略)・・・
   帰りたくなったよ  君の待つ街へ

     『帰りたくなったよ』作詞:水野良樹、 作曲:水野良樹

過ぎし5月17日に於いて、ブログ作成サービスの【goo blog】を本日限り、
そして新たな【はてなブログ】に移行してきた・・。

そして【はてなブログ】に於いて、新たな御方の出会いの喜びを実感したり、
【goo blog】時代にめぐり逢えた一部の御方と、
【はてなブログ】で再会したりしてきた・・。

こうした中で、【goo blog】時代にめぐり逢えた御方の一部の人は、
ブログのランキングで有名な『ブログ村』を通して、
フォロー設定で、お互いに投稿文を読むことが出来たりしてきた・・。

しかしながら、『ブログ村』に於いて、数日前より、
フォロー機能の縮小とブログみるフォローの拡充について、
と改定されて、お互いに読み合える絆(きずな)が立ち消えてしまった・・。

やむなく私は、残した【goo blog】の私のサイトの中で、
ブックマークに於いて、私が信愛している50名前後の御方、
投稿文を読ませていただいている。

そして【goo blog】は安楽だったと思い馳せて、旧宅のように感じたりした・・。

https://www.youtube.com/watch?v=NzIcRQBkMY8

作詞、作曲:水野良樹 、 編曲:島田昌典、唄:吉岡聖恵

 

今回のいきものかがりの『帰りたくなったよ』の歌を、
80歳の私でも、心の中で唄ってしまった・・。

そして残した【goo blog】の私のサイトを、
もう一度、旧宅のように玄関を開けて、【goo blog】が閉鎖されるまで、
スームズに投稿文を読み合える形にしょうかしら、思案したりしてきた。

今後は、新宅の【はてなブログ】、旧宅の【goo blog】で、
私が好感している御方の投稿文を読ませて頂く、
私にとって最良の形、と思い実行していく。


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新たな私のブログ先、【はてなブログ】

2025-05-19 19:19:48 | 傘寿からの思い

https://blog.hatena.ne.jp/yumede-ai

【はてなブログ】の私のURL
(==> こちらにクリックして頂ければ、幸いです)

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【goo blog】、本日で別れを告げて、【はてなブログ】に移行して・・。

2025-05-17 14:45:42 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
過ぎし4月14日、私が加入している【goo blog】が、
11月18日でサービス終了を知ったりした。

私はある民間会社に2004年10月に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたりした。


まもなく偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

                         
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、

経済、社会、文芸などのあらゆる分野まで表現できる世界である。

日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、

雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、
記事を投書できる範囲であり、そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、
政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより
手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、

この日から7423日が過ぎている。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸20年が過ぎて、早や21年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
日に少なくとも一通は投稿してきた。
          
                                            
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの
生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)として残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                    
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。




こうした中で、60代の投稿文の内容は、
やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

そして70代になると、自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                                            


               
    
                                                
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは12年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように
試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
               
ここ10数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになり、
数多くの御方にお読み下さり、私がブログが継続できたこともあり、
偏(ひとえ)に感謝の一言です。




                               

こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ15年ぐらい殆どの方が、心ある写真を添付されたりしてきた。

そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、
散文のような文章だけでの表現は、時流に残されてしまうかしら、
と私なりに憂慮してきた。

特に旅行関係の投稿文に関しては、
散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、
我ながら独り微苦笑したりしている。               
                 

こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と御教示され、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。
                            

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。




このような長らく【goo blog】を活用させて頂いたが、
やむなく私は【はてなブログ】に移行する準備、移動、見習いの併行してきたが、
名残欲しく本日で、【goo blog】に別れを告げて、
明日より【はてなブログ】に移行します。

【goo blog】のブログ上で、多くの御方にめぐり逢え、
心の宝物と私は思いながらも、【はてなブログ】に於いても、
引き続き、御交流をお願い致したく・・・。

https://blog.hatena.ne.jp/yumede-ai

【はてなブログ】の私のURL
(==> こちらにクリックして頂ければ、幸いです)

そして新たな【はてなブログ】に於いては、読者、コメント、ブックマーク、スター、

写真の保存など、理解できない面があり、不慣れな園児のような状態ですが、
よろしくご指導の程をお願い致します。

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70歳の時の自身の思いに、80歳の今の私は、独り微苦笑して・・。

2025-05-16 17:15:41 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、昼下がりのひととき、私は煎茶を飲みながら、
ぼんやりと10年前の70歳の頃は、
どのような思いで過ごしているのかしら、と思ったりした・・。

そして私は、自身のブログを開いて、
まもなく2015年3月5日に於いて、
『70歳になっても、敗残者のような私でも、人生最良の時期と感じ深めて・・。』、
と題して、投稿した文を読み返したりした。

映画の世界では、リバイバル上映があるが、準拠して、
再公開させて頂く。





☆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-☆


私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、

民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、
2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
年金生活を始めたひとりである。

こうした中で、最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、
自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、
出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。


或いは私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。

そして私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに

38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、
つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。

そして私たち夫婦は、子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。

やがて厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、
と願いながら年金生活を開始した。






年金生活を始めた当初、私は平素の買物に関しては、
自主的に専任者と家内に宣誓したりした。


そして私は独りで、殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、
専門店に行ったりしているが、

根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後も、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。


こうした根底には、定年前の私は数多くの人たちと同様に多忙なサラリーマン時代であり、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたのである。

私は定年後した直後として、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。


そして少なくとも家内は、年金生活の今でも料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。



私たち夫婦は、幸運にも大病することなく今日に至っているが、
やはり歯の老化だけは避けられず、
それぞれ幾たびか歯科医院で治療を受けたりしてきた。


こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
ひたすら歩くことが多くなっている。






私の日常の午後の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

そして定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。

そして『中央公論』、『新潮45』は、特集に魅せられた時は買い求めたりしている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚から
CD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。




こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

そして私たちは、意欲と体力のあるうちに行きたい所があれば、
という思いで国内の各地を遊学してきた。

こうした中で、私たちは観光ホテルなどに滞在して、
周辺の山里、遊歩道、街並みの中をひたすら歩き、

その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。


このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

たまたま定年後にブログの世界を知り、パソコンの故障、国内旅行で自宅を不在した以外は、
10年過ぎた今でも、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。


私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

         

 


年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、
とお互いに確認し合っている。


こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、
私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

こうした年金生活を私の60代の10年間を過ごし、
つたない私の長い人生の航路の中、何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。





私は昨年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
総務省の公表に寄れば、日本の70歳以上の方は2383万人で、
総人口の19%近くの長寿社会を迎えている今日、

古来稀(まれ)なり・・は死語だよねぇ、と微苦笑を重ねたりした。、

しかしながら70代となれば、殆ど方は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、

80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。


このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、
どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。

私は何かとプラス思考の単細胞であるので、
年金が減少、医療費の高騰、諸物価は不安定、何かと将来に不安となる中で、
ひとすら歩き、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命を保つことが肝要、
と思ったりしている。


そして私の父は42歳の若さで病死され、母は77歳の『喜寿』の祝いの後、病死されたが、
私は秘かに男性の健康平均寿命の71歳を超え、やがて男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、
と念願したりしている。

もとより、こうしたことは自助努力も必要であるが、天上の神々の采配に寄ることであり、
定年退職するまで敗残者のような半生を歩んきた為か、
先苦後楽の人生航路と感じている私に、
果たして・・と微苦笑したりしてきた。

そして70歳以降の人生は、体力の衰え実感させられる中、
『生きがい』、『気力』あるいは『意欲』があれば、晩年期は、その人なりに充実した人生になる、
と思いながら、微笑んだりしてきた。


しかしながら私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、
痛いほど理解させられたりしてきた。


或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。

私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

やがて私は70代以上の方で自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った70代以上の方は、
選ばれた方かしら、と思いを重ねたりしている。




我が家は無念ながら金庫がなく、新築した36年前より、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、私たち夫婦は重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。

そして年金生活を始めてからは、どちらかがボケたり、死去することも恐れ、
銀行、郵便局で100万円の出し入れをする時は、お互いに確認したりしてきた。

或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
或いは年に4回ぐらいは、都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
体力の衰えた高齢者の私でも、一家の主(あるじ)の責務と確信を深めて、
家内のボディーガード兼お供、そして荷物持ちで、共に出かけたりしてきた。

こうした中で、我が家はふたりで一人前だよねぇ、と私は家内に言ったりしている。



このように私たち夫婦は、ささやかながら安楽な年金生活を続けている今、
いずれは私か家内か大病となり、やがてどちらかが『おひとりさま』となるので、
私たち夫婦としては、今が人生最良の時期かしら、と思ったりしている。

しかしながらこればかりは、天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

☆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-☆




このような10年前の70歳の時の思い、80歳の私は読みん返して、
独り微苦笑してしまった・・。

10年前と変貌したことは、2019年にお互いに入院生活を体験して、
国内旅行の意欲が削がれて、この後のコロナ烈風で、無くなってしまった。

或いは70歳の時は、《・・私は秘かに男性の健康平均寿命の71歳を超え、
やがて男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、と念願したりしている。・・》

こうしたことは、予測した以上に私は元気で、
殆ど毎日のように、遊歩道、公園などを歩いて、四季折々の情景を享受している。

これ以外のことは原則として変わらないが、
私たち夫婦は、お互いに後期高齢者となったが、
何とか健康寿命の範囲で過ごせることは、何よりの贈り物を頂いている、
と思ったりしている。

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八百万の神に守られて、80歳の私は、日々溌剌と過ごせて・・。

2025-05-15 16:08:55 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思ったりしている。

そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、
年金生活を丸20年半を過ごしてきた。

ときおり私は、家内はもとより、多くの人に守られて、
何とか健康寿命の範囲で過ごせていると、感謝したりしている。

遠い昔、八百万の神・・私は学んできた・・。

知識人の飯倉晴武さんに寄れば、太陽、月、風、雷といった神もいれば、
土地、田、山、川、石などに、
また家の台所、かまど、便所などに
も神がおり、
さらには馬、犬などの動物、松、竹などの植物にも神が宿るというように、
多くの神々があまねく存在する点に(日本人)に特色がある、
と私は学んだりしてきた・・。



私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農業をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕していた。

そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあったりした。

母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸がふたつがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。

この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。


長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は、周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、
幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、
ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。


幻燈機は、若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すれば、白黒の(モノクロ)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。




こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、

『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのであった。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)に満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事のある場合は、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、
丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、

ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。




このような思いがあるが、多くの御方に支えられて、
私は今日に至っている、ときおり思い馳せることがあり、
空に向かって感謝している。
 

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ブログ・ランキング、ときおりブログ20年生の私、微苦笑して・・。

2025-05-14 15:18:06 | 傘寿からの思い

私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。


この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。



ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、経済、社会、文化などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。

この少し前の時代は、各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、経済、社会、文化などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後は、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から7420日が過ぎている。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸20年が過ぎて、早や21年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
日に少なくとも一通は投稿してきた。



こうした根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの
生きてきた心の軌跡を発露して、自己表現のひとつとして、
心の証(あかし)として残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、
やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                   




こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは10数年前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
文章修業が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤する時もある。

こうした中で、私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。

ここ10数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになり、
数多くの御方にお読み下さり、私がブログが継続できたこともあり、
偏(ひとえ)に感謝の一言です。



こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ16年近く殆どの御方が、心ある写真を添付されたりしてきた。

そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまうかしら、と私なりに憂慮してきた。

特に旅行関係の投稿文に関しては、
散文を綴りながら、
危惧してきたのが本音でもあった。

過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら微苦笑したりしている。


こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。



こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方にブログの上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。




この間、私はブログ・ランキングに加入したりした・・。

過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、

私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
確か加入数150万人ぐらいで、この当時の私は写真を添付する技量もなく、
ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は、長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、
加入することとした。

そしてブログ・ランキングのサイトも、幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、
やはりブログ・ランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安できるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
まもなく世代のよしみに甘えて、シニア日記系『60歳代』に移行した。

やがて古希と称される70歳となり、『70歳代』に移行し、
昨年の9月に80歳となり、『80歳代』となったりした。



もとよりシニア日記系としては『50歳代』、『60歳代』、『70歳代』、
或いは『男性シニア』、『女性シニア』等が圧倒的に加入者数は多く、
たまたま80歳代の私は、加入している御方が少ない為か、
恥ずかしながら私は、昨年より1位となっている。

そして私は、『80歳代』は、殆ど毎日のように投稿していれば、
加入している御方が少ない為か、上位になるよなぁ・・、
と微苦笑したりしている。

しかしながら『70歳代』の時は、私のサイトは訪問者数は、
長らく日々1000人前後が多かったが、
『80歳代』になると、訪問者数は700人前後となり、
読んで下さる御方は、減ってしまった・・、と微苦笑したりしている。

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歯の定期検診、80歳の私でも、受診して3年半が過ぎて

2025-05-13 12:33:54 | 傘寿からの思い
  • 虫歯や歯周病などを早期発見できる

  • 虫歯、歯周病のリスクを減らすことができる

  • 虫歯や歯周病が進行して悪化する前に、
    早期治療が出来るので費用を抑えられる

このようなことを私は学んだりした。


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芍薬(シャクヤク)、恥ずかしながら80歳の私は、魅了されて・・。

2025-05-12 13:50:35 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
恥ずかしながら、この時節に咲く芍薬(シャクヤク)は、
殆ど見ないできた・・。

私の幼年期は、農家の児として育てられて、
初春の頃には、梅の花、その後は桃の花、やがて桜の花、
この間に福寿草や水仙の花・・このような移ろいを見て、育ったりした・・。

この後は、公園、旅先で多彩な優雅な牡丹(ボタン)の花に魅了されて、
何かの書物で『立てば芍薬(シャクヤク)、座れば牡丹(ボタン)』と学んだが、
芍薬(シャクヤク)の花も見過ごして殆ど見ることなく、過ごしてきた・・。

たまたま私の住む市内にある都立の『神代植物公園』で、
週に一度ぐらい散策代わりに、歩き廻って、
まもなくベンチに座っていた時、前方の花を見ていた時、
高貴な色合い、形も優雅で、30秒ぐらい見惚れたりした・・。



まもなく近づくと、芍薬(シャクヤク)の一種と知り、
『これが芍薬(シャクヤク)かょ・・』、
と私は心の中で、呟(つぶや)いたりした。









恥ずかしながら、確か2週間前で、これ以来、
この公園の片隅に『ぼたん・しゃくやく園』あるが、
私は寄ったりしている・・。

こうした中で、齢ばかり重ねた私は、
、心の中で、呟(つぶや)いたりした。

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都立の『神代植物公園』、『春のバラフェスタ 』を私は鑑賞して・・。

2025-05-11 16:22:14 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
市内にある都立の『神代植物公園』に於いて、
数多くの薔薇(バラ)が披露される恒例の『バラフェスタ 』が、
春のひととき、そして秋のひととき、毎年開催されている・・。

今年の『春のバラフェスタ 』は5月3日より6月1日まで開催される。



開催
中は、百花繚乱のように多彩なバラの花が彩(いろどっているが、
毎年人出の多い中、ゆっくりと鑑賞が出来ないと思われる上、
バラに疎(うと)い私でも、開催される前の4月29日、
この後、開催された初日の5月3日、そして5日も、
散策代わりに訪れてきた・・。

本日も散策代わりに、『神代植物公園』に訪ねたりした・・。

今回の多彩なバラの花は、百花繚乱であったが、
いつも感じることは、それぞれのバラの開花の状況などは、
天候の気温などに左右されるので、関係スタッフの手入れも大変だなぁ・・、
と私は思ったりした・。







こうした中で、日曜日の為か、御年配の御方、家族連れのシニア世代、
幼児を伴った若きママ、女性グールプなど、多くが訪れていた・・。




こうした中で、写真の愛好の御方も、盛んに撮られていた。

そして私も、バラに不慣れな私でも、つたない感性を頼りに撮ったりした・・。









こうした中、ここ5年前の頃より、スマホで撮られる御方も多くみられ、
ときおり私は微苦笑する時がある。

私は魅せられたバラを撮ろうと、
カメラのファインダー越しに構図を数秒以内で決めていると、
スマホを持った御方が私の前に現れて、私は苦笑したりしている。

10年前の頃は、カメラのファインダー越しに構えている場合は、
私は少なくとも邪魔をしないように、その手前で静止して、
お互いの暗黙のエチケットがあったりした。

スマホが普及している今、バラを撮る場合は、
スマホを近づけて撮る御方が多く、後方でカメラを構えている人を
無視している御方が多く、私は苦笑したりしている。



今回、私は10数枚撮った後、後日の平日の午前中に撮れば良い、
と思いながら、バラ園を去ったりした・・。

そして私は、四季折々が明晰に変貌する雑木林を歩いたりした。







やがて私は、『深大寺門』より『神代植物公園』を辞して

帰路に向かったりした。

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『小雨降る径』、かぼそい声で私は唄い、やがて新婚時代の頃が甦(よみがえ)り・・。

2025-05-10 15:38:21 | 傘寿からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
今朝、洗面を終えて、まもなく
玄関の軒下に降り立ち、
まもなく小雨が降りだした・・

そして小庭に降りしきる雨を眺めていたら、

何かと単細胞の私は、ひとつの歌が脳裏から舞い降りて、
かぼそい声で唄いだした・・。


♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、作曲・Henry HIMMEL 】 

このような歌を唄った後、この歌を盛んに聴いたりしていた頃が想い浮かび、
過ぎし年の私たち夫婦の新婚時代の頃が甦(よみがえ)ったりした・・。

              

確か52年前の前後、この頃の独身の私は会社を退社後に、
幾10回ぐらい銀座の一角にあるシャンソン喫茶として名高い『銀巴里』に通うように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめの水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
そして、ときおり歌をリクエストをしたりしていた。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、この『銀巴里』とか、
『蛙たち』にも行ったりしていた。


               

私たち夫婦は、1976年(昭和51年)の3月下旬に結婚し、新婚生活の始めた。

入居した所は、東京都と千葉県の間に流れる江戸川沿いにある『国府台』であり、

この駅の付近には東京医歯大、和洋女子大、国府台高校などある学園街であった。

京成電鉄の『国府台』駅より商店街を抜けると、真間川が流れ、
この近くに賃貸マンションがあり、ここの最上階のひとつの2DKを借り入れた。

角部屋の窓を開けると、樹木に覆われた小高い丘にお寺があり、
私はこの窓辺から観える景観に瞬時に魅了され、借り入れることを決めたりした。
そしてこのお寺は、由緒ある弘法寺(ぐほうじ)であることを知るのは、後日ある。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤めて、コンピュータの専任者として、
兄弟会社のようなレコード会社の担当者と共に、
未熟な私は指導を受けながら、システム開発を共にして奮闘したりしていた。

そして家内は専業主婦として過ごす中、
中学生の時から茶事を学んできた延長として、
週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、

料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。

               

こうした中で、私たち夫婦が新婚まもない
1977年(昭和51年)の晩春だったと記憶しているが、

東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私たち夫婦は参加した。

歌い手は、私がこの当時こよなく心酔していた金子由香里さんで、
私は、金子由香里さんが『銀巴里』、『蛙たち』と違った面が表現できる御方、
と私は感じたりしていたので、家内を誘ったりした。

そして金子由香里さんが3曲を唄った後、
ボーイさんが、リクエスト曲の用紙を廻してきた・・。


私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

やがて20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
と金子由香里さんは言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

金子由香里さんは、リクエストした方が人生の苦楽に未熟な若い方であり、
少し驚ろかれた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私たちのテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、金子由香里さんは言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、幾たびか通ったりし、
金子由香里さんの歌を聴きたくて、時折リクエストなどをし、
記憶されていたのかしら、と私は思いながらも照れたりした。


そして、金子由香里さんは、
『あなた方・・お若くて・・これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫ですから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私たち夫婦に言った。

私は、人生の駆け出しの夫婦として、
希望と幸福に満ちたあどけない私たちを視(み)て、

人生は波乱に満ち、たとえ苦難にあっても、励ましと慰めがあれば・・
このように配慮されて下さり、

わざわざ私たちのテーブルに寄って下さった、と思ったりした。


このようなささやかな思いでが私たち夫婦にはあったが、
若き日々、人生を歩みだした時、『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生の怖さ、痛みも知らず、ただ気負(きお)っていたのかしら、
と結婚生活49年を過ぎた私は、人生には世間の荒波などもあったからねぇ、
微苦笑したりした。


この後、私は金子由香里さんの『小雨降る径』を急に聴きたくなったりした・・。

                

私の音楽収納棚には、金子由香里さんのレコード、カセット、CDは
少なくとも15枚のアルバムはあったりしたが、

この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであったので、
私は確か5年前に、レコードは処分してしまった・・。


やむなくネットの【YouTube】に頼って検索し、
久々に【YouTube】の上であるが、
愛(いと)しき金子由香里さんの『小雨降る径』の歌に、めぐり逢えた・・。


http://www.youtube.com/watch?v=8ynlEywBSBI&playnext=1&list=PLC14E9415E89B51B1
☆【YouTube】【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、
作曲・Henry HIMMEL 、唄・金子由香里】☆


私はあれから49年近く金子由香里さんにお逢いすることなく、
ときおりCDのアルバムで聴いたりするばかりであるが、
お齢を召されもお元気なのかしら、と私は小雨降る小庭を眺めながら思ったりした。

               

余談であるが、過ぎし13年前、私が勤めていた会社でOB懇親会の中、
洋楽畑に在籍されていた金子由香里さんの弟さんとお逢いした時、少し談笑した後、
『私は何かと金子由香里さんには・・人生の機敏を教えられました』、
と御礼の言葉を重ねたりした。


『そうぉ・・姉貴がねぇ・・』
と少し照れくさそうに弟さんは私に言ったりした。
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新緑の中、散策すれば、介護される期間の思いなどは、忘却の彼方に・・。

2025-05-09 14:16:17 | 傘寿からの思い

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思ったりしている。

そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、
年金生活を丸20年半を過ごしてきた。

そして




こうした中、ときおり無念ながら、物忘れもあり、自身を叱咤激励をする為に、
人生は気合いだ、と心の中で呟(つぶや)く時もある。

或いは何かと単細胞の私は、好奇心をなくしたら、この世は終りだ、
と思いながら、年金生活の中、享受したりしてきた。
【図解】平均寿命と健康寿命の推移

【図解】平均寿命と健康寿命の推移

厚生労働省は24日、健康上の問題がなく日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」が、
2022年は、男性72.57歳、女性75.45歳だったとする推計値を発表した。
前回19年調査と比べ、男性は0.11歳短く、女性は0.07歳長かった。

平均寿命は、男性81.05歳、女性87.09歳。

平均寿命から健康寿命を差し引いた日常生活に支障がある期間は、
男性8.49年、女性11.63年で、
2019年と比べて男性は0.24年、女性は0.43年短くなった。
初調査の10年以降、縮小傾向が続いている。

もとより健康であれば、人それぞれのささやかな願いが叶えることもできるので、
80歳の私は改めて学び、微笑み返しをしてしまった・・。

そして私は健康寿命と平均寿命の悩ましい期間を限りなく少なくして、
介護される期間を短くしょう、と私は願っているひとりである・・。

私は殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩いたりし、
熱い夏も、何とか熱中症対策をしてを乗り越えてきた・・。 

こうした中で、陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
陽射しが燦燦と照らす道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。
        


こうした時、ときおり
 ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・

何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った
『三百六十五歩のマーチ』の歌を心の中で唄い、歩く時もある。

このように私は、水前寺清子さんが唄った『三百六十五歩のマーチ』の歌に、
ときおり叱咤激励されて、 何とか健康寿命の範囲にいられている。

そして作詞された星野哲郎さんに感謝をしながら、
私にとっては『三百六十五歩のマーチ』の歌は、心身のビタミン剤だ、
と思いを深める時もあったりしている。

こうした中で、今の5月は、樹木のたわわな葉は、
過ぎし3月に芽吹き、やがて幼い葉を拡げて、若葉となり、
やがて色合いを深めて、新緑の時節となっている。

ときおり微風が吹けば、さわやかな薫風となり、
身体を吹き抜けるように心地良い・・。




こうした中に、身も心も委(ゆだ)ねると、
悩ましい介護される期間の思いなどは、とおり抜けて、忘却の彼方に・・。

もしかしたら健康寿命=平均寿命で、私は介護される期間は不要で、
いつの日にかあの世に旅立つ、と思ったりしてしまう・・。

いずれにしても、もとより自助努力は肝要であるが、
このようなことは神様か仏様が采配される世界であり、
果たして・・、と空を見上げたりしている。
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