備忘録として

タイトルのまま

からの崎

2009-11-07 20:18:05 | 万葉

  つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛之埼(からのさき)なる 海石(いくり)にぞ 
  深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し児を・・・・
                           柿本人麻呂 (巻2-135)

 辛之埼は、かつて邇摩(にま)郡仁摩町宅野(今は大田市)にある韓島(写真)とされていたが、斎藤茂吉は韓島では国庁から離れ過ぎていると考え国庁のあった那珂郡国府町(今の浜田市)の唐鐘の岬を辛之崎と推定した。唐鐘(とうかね)を古代”からかね”とよんだと推定してのことで証拠はない。梅原猛は自著「水底の歌」で、辛之崎はやはり韓島で、人麻呂はこの島に流人として妻とともにいたとする。梅原は人麻呂が死人を見た讃岐の沙弥島(さみねの島)も流刑地だという。沙弥島は讃岐本土から2.5kmの沖合にあり流刑地に似つかわしいが、韓島は本土から200mと離れておらず流刑地として不向きに見えた。また、沙弥島は周囲2kmで自活のための耕作のできる平地もあるが、韓島は周囲400mほどと小さく、海岸線から急傾斜のずんぐりむっくりの島で耕作地にできる平地は狭い。隣に寄り添う小さな無木島と逢島と昔陸続きだったとしたら沙弥島程度の大きさとなり、流刑地として手ごろな感じになる。

  石見のや 高角山の 木の際(このま)より わが振る袖を 妹見つらむか (巻2-132)
  小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば (巻2-133)
                                 柿本人麻呂 

 この歌は、多方の人は、人麻呂が国庁の任務を終え、現地妻を残し都へ帰るときのものと解釈する。そのため、韓島から西に向かう行程では都と逆方向になり都合がわるいため、辛之崎や高角山を別の場所に求めるわけである。これに対し、梅原猛は人麻呂は罪人で、流刑地の仁摩の韓島から西の益田の鴨山(処刑地)に送られるときに、妻を思って詠んだものであり、高角山は益田の高津の山だという。この鴨山は、人麻呂終焉の地であるが、梅原は高津川河口の沖合にかつてあった島で、平安時代に地震と津波で沈んだという。

犬養孝の「万葉の旅」では、茂吉説に沿って、”からの崎”の章に唐鐘の写真を掲げている。
 
                        左:2009年11月初旬   右:犬養孝「万葉の旅」昭和30年代の唐鐘浦、大洞窟より猫島を望む。

 写真の日の日本海は大荒れで、大洞窟を強風が吹き抜け、猫島には大波が打ち寄せ砕けていた。犬養孝が見た猫島の上の松の木は消え、島の周囲には防潮堤が築かれている。大洞窟は礫岩を波が浸食した海蝕洞であり、洞窟を奥に抜けると1872年に隆起した石見畳ケ浦(天然記念物)という千畳敷がある。満潮だったため千畳敷は水没し見ることはできなかった。
沢瀉博士は唐鐘から東4kmにある大崎の鼻を辛之崎とするがこちらも根拠はないらしい。犬養孝は、”ここなら位置景情ともに好都合である。両地ともまだ推定を出るわけにはいかないが、人がいないだけに、こわいような自然の景観のなかに思いをめぐらすには格好の処だ。”と書く。位置景情が好都合とは、人麻呂が近くにあった国庁の役人であり、犬養はここで海藻採りの人々やウニ採りの漁夫を見たので歌の”荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす”の情景にも合うということである。ただし、奈良時代国庁は、仁摩の宅野にあり、平安時代に那珂郡国府に移ったという説がある。宅野に国庁があったなら、韓島を流刑地とした場合に監視は容易い。


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