備忘録として

タイトルのまま

柿本人麻呂

2008-07-21 19:38:06 | 万葉

昨年の10月に益田の柿本人麻呂神社へ行った時に撮った写真がやっと使える。梅原猛の”水底の歌-柿本人麿論”を読了したからだ。明石の柿本神社へは20年ほど前、明石海峡大橋の仕事の合間に訪れたことがある。

柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとする時、自ら傷みて作る歌一首

鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ



”水底の歌”は人麻呂終焉の地をめぐる斎藤茂吉の”鴨山考”批判で始まる。茂吉は、人麻呂は石見に派遣された地方官であり役目で訪れた江ノ川上流の湯抱の鴨山で病死したとする。梅原は茂吉説を茂吉天皇とまで揶揄するほどの激しさで否定したのち、益田川河口にかつてあった鴨島で水死刑に処せられたという自説を述べる。鴨島は平安時代の地震と津波で消滅しているが、潜水探査で鴨島の跡地は確認されたそうだ。

人麻呂を簡単に紹介すると、
1.万葉集中最大の94首が収録されている。
2.皇族の挽歌を多く詠む。
3.赤人と並び歌聖と称される。
4.持統~文武天皇期に活躍した。
5.石見国で死んだ。
6.正史に登場しない。

梅原説の概要と根拠
1.流罪先の石見益田で水刑死に処せられた

人麻呂の死に際して詠んだ歌二首が水死を示唆している。
人麻呂の妻である依羅娘子の「今日帰ってくるかと待っているあなたは石川の貝に交じっているというではありませんか」、依羅娘子の歌に答えて人麻呂になり替わり丹比真人が詠んだ歌「荒波に寄りくる玉を枕に置き---」
全国に70を超える柿本人麻呂神社があるが、人が神社に祀られるのは理由なく非業の死をとげた怨霊を鎮める場合だけである。柿本神社の多くは水難を祀る。

2.人麻呂は高官であった

続日本紀などの正史に人麻呂の名前が載っていないことと、高官の死には薨や卒の文字が使われるのに万葉集には死と記されていることから、六位以下の低い身分とされていた通説を否定し、紀貫之による古今集の仮名序に記された人麻呂の官位”おおきみつのくらい”(正三位)は正しいとする。理由は、流罪により官位が剥奪されたのち死後身分の復権があった。身分の低いものが皇族に随行して多くの歌を詠むことは不可能である。

3.流罪の原因

弓削皇子と額田王には相聞歌があり、人麻呂と額田王の間でも歌が交わされており、三者には密接な関係があったと推定される。梅原は弓削皇子を罪を着せられて殺された高松塚の被葬者と考えている(”黄泉の王-私見高松塚”)。人麻呂も弓削事件(推定)に連座したと推定する。

4.続日本紀に出てくる柿本猿(さる)は人麻呂と同一人物である

柿本猿は天武10年小錦下に任官され和銅元年(708年)に従四位下で死んでいるが、人麻呂と完全に時代が重なる。従四位下の役職としては春宮大夫や中宮大夫があり、人麻呂も古今集では大夫と記されている。中宮大夫は天皇の妃や母などの高貴な夫人の庶務係であり、春宮大夫は皇太子の庶務係であり、彼らに随行して歌を詠むのに適した役職である。人から猿は、刑罰としての改名である。

5.三十六歌仙の猿丸大夫は人麻呂である

猿丸大夫は古今集に”大友の黒主の歌は古の猿丸大夫の次なり”と初出するが、万葉集に猿丸の名はなく、出自は何一つわかっていない。猿丸は人麻呂同様に弓削皇子に関連づけられた歌が多い。舟歌という狂言で人麻呂と猿丸大夫が同じ歌の作者とされる。

いつもの梅原流の仮説と論証が十分に発揮された論文だったが、”聖徳太子”よりも読みにくかった。後年になる”聖徳太子”における梅原の論述方法がより成熟しているということだろうか。いつものことながらその思弁の徹底ぶりに感心するとともに、思考が空を縦横無尽に駆け巡り飽きない。

引き続き、梅原猛の”羅漢”講談社現代新書を古本屋で買ってしまった。”仏像のこころ”集英社文庫にも手を出している。


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