備忘録として

タイトルのまま

沙弥島

2009-01-11 22:21:12 | 万葉
柿本人麻呂が訪れ石の中に死人を見て歌を詠んだ沙弥島(さみねのしま、地元では”しゃみじま”)に年末徳島へ行く途中立ち寄った。上の写真は犬養孝の”万葉の旅 下巻”にある昭和37年撮影のもの

讃岐の狭岑(さみね)の島に、石の中の死人(みまかれるひと)を視て、柿本朝臣人麻呂の作る歌

◎ 玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ
  神(かむ)柄か ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月とともに
  満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 中の水門(みなと)ゆ
  船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに
  沖見れば とゐ浪立ち 辺(へ)見れば 白浪さわく
  鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 楫(かじ)引き折りて
  をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の
  荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺を
  敷栲(しきたえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に 自伏(ころふ)す君が
  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを
  玉鉾(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは(2-220)

反歌二首

妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや(2-221)
沖つ波来寄る荒礒(ありそ)を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも(2-222)

今の写真

万葉の旅と同じ場所から撮ろうと手前の小山(新地山)に登ったが、犬養の写真とは異なり笹や灌木が繁茂し視界が開ける場所が見当たらなかった。

犬養はこの”さみねの島”に破格の6ページを割き、島の美しさと歌の抒情を伝えようとする。
「いま、沙弥島は好風絶佳ののどかな島だ。一本松ノ鼻では潮騒高く、ナカンダの磯では海底の玉藻の揺れもすきとおって見える。”夢のかけ橋”の実現や、坂出からの埋立てによって、この美しい風土と千古にひびく人間抒情の埋れ去る日のないことを祈らないではいられない。」と危惧している。
島の北側のナカンダの浜は上の写真のように犬養の頃と大きくは変わっていないように見える。埋立てによって坂出と陸続きとなり車ですぐ島を訪れることができ、ナカンダの浜の目の前に見える瀬戸大橋は絶景であるが、残念ながら”千古にひびく人間抒情”をもって人麻呂の歌を偲ぶには橋は余計なものであり島は開けすぎたと思う。


万葉の旅 上は坂出沖に見える沙弥島、下は島の南側の西ノ浜---埋立てによっていずれの風景も今は見ることができない。


ナカンダの浜から見た瀬戸大橋


左の地図は”万葉の旅”より、右は今(Yahoo地図)

梅原猛は”水底の歌”で九州への航路から遠く離れたこの島になぜ人麻呂は訪れたのだろうかと考える。沙弥島にある古墳はほとんどが人麻呂の時代のものであること、側面から見た島の形が前方後円墳そっくりであること、人麻呂が石中死人に同情しすぎていること、中国の沙門島という流人の島が有名であったことなどから、沙弥島は流人の島であったと推測し、人麻呂は自身の運命に重ね合わせているとするのである。



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