備忘録として

タイトルのまま

鴨山

2009-11-08 13:50:02 | 万葉

 柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまから)むとする時、自ら傷みて作る歌

鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ (巻2-223)

 柿本人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首

今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも   (巻2-224)
直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ (巻2-225)

 ”鴨山”は人麻呂の死んだ場所と考えられ、古来よりその”所在は諸説紛々定まるところがない”(犬養孝)という。人麻呂の妻である依羅娘子が詠んだ歌にある”石川”は鴨山のそばにあると考えられている。
                            
斎藤茂吉は、江の川上流の邑智郡邑智町大字湯抱小字に鴨山という地名を見つけ、「人麻呂がつひのいのち乎(を)終はりたる 鴨山をしも此処と定めむ」(下の写真の歌碑)として、ここを人麻呂終焉の地と決めたのである。

 左:湯抱の鴨山公園に立つ茂吉の歌碑   右:鴨山公園から撮った鴨山

 犬養孝の鴨山公園から撮った鴨山の写真は、おそらく植林前か直後のものだと思われ禿げ山のように見える。公園からの視界も開けているが、今は公園を取り巻いて杉が林立し鴨山の頂部しか見えない。鴨山の杉もまた、この50年で大きく育っている。ちなみに鴨山公園は訪れる人もないようで車道から登る小道や公園内の木々の手入れはおざなりだった。また、この辺はどこもかしこも似通った山ばかりで、敢えてこの鴨山を歌に詠むには、人麻呂の住居の前に見える山かなにか、相応の理由があったはずだ。”茂吉の説に難点はつけられ確定し難いとしても、人麻呂に寄せる茂吉のひとすじの執念はもう湯抱の山峡から離れることはない。”(犬養孝)

 
 こちらは石川の巻に犬養が「万葉の旅」に掲げた写真である。粕淵周辺の江の川で、茂吉の言う石川に倣った場所である。犬養の写真に合致する場所を探したが、完璧な場所は見つからなかった。江の川河畔にあったカヌー教室の職員にも犬養の写真を見せて尋ねたが、河原の様子や周辺の風景は変化しているようで確実な情報は得られなかった。上の写真も、川の様子が違うのは仕方ないにしても、遠方の山の形が違うのは撮った角度や標高だけの所為ではないような気がして自信がない。

 ”’もう、じかにお会いすることはとうていできないだろう。川の雲が立ち渡っておくれ、その雲を見てあの方をお偲びしよう’の趣にふさわしい景は川の屈折のあちこちで遭遇し、江ノ川が石川であってもいいような気さえしてくる。”と、犬養孝は石川の巻を締めくくり、ここが石川ということに、かなり懐疑的である。

梅原猛「水底の歌」(昭和48年)から拾った斎藤茂吉「柿本人麿」(昭和15年)と梅原猛の考える説の比較は以下のとおり。ただし、両者とも先人の説をそれぞれ踏襲する個所もあり独自説ばかりではない。

1.鴨山

(茂吉)邑智郡邑智町湯抱の鴨山
(梅原)益田の高津川河口近くの沖合の鴨島、平安時代に地震と津波で消滅した

2.石川

(茂吉)江ノ川、粕淵付近
(梅原)高津川、益田

3.”石川の貝に交りて”(依羅娘子の歌)の解釈

(茂吉)石川の峡(かい)の間違い、石川は山の中のなので貝では説明できない
(梅原)人麻呂は水死であり、石川の河口で貝に交っている。

4.人麻呂の身分

(茂吉)都から派遣された従六位以下の下級官吏である。万葉集詞書きに”死”とあり、身分の低い人が死んだときに使われ、身分の高い人の場合は、三位以上”薨”、四位と五位”卒”と定められている。
(梅原)都で従四位下の身分の宮廷歌人であったが、何かの罪を得て石見国に流された。

5.人麻呂の死

(茂吉)湯抱に見回りに来て伝染病による病死
(梅原)鴨山で刑死(水死刑)、怨念を残して死んだ悲劇の人のみ神として祭られる。例、菅原道真、崇徳上皇。人麻呂の命日の3月18日は死んで死霊になった義経や和泉式部らに限られるため、柳田國男は人麻呂がなぜと疑っている。

6.辛之崎

(茂吉)那珂郡唐鐘(浜田市)
(梅原)邇摩郡韓島(大田市)


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