備忘録として

タイトルのまま

志都の石室

2009-11-03 20:49:25 | 万葉

大汝(おおむなち) 少彦名(すくなひこな)の いましけむ 志都の石室(いわや)は 幾代経ぬらむ
                              生石真人 (巻3-355)

大国主命(大汝=大己貴おおむなち)は少彦名とともに国造りをしたと古事記や日本書紀に記されている。二神は志都の石室で国家の経営を論じたのだろうか。志都の石室の伝説地のひとつ大田市静間町垂水の静の窟は、島根県発行の観光地図には載らず、国道9号から、車一台がやっと通れる細い間道に入り、目立たない立札に導かれやっとのことで到達できる場所である。万葉ファン以外に訪れる人はいないと思う。犬養孝も、”誰一人、旅の人の来ないところだから海水も澄明のかぎりだし、砂浜の汀には千鳥が群れ、鳴き声は波音にまじって、やがて岬の山にすいこまれてゆくように思われる。”と、閑静な風景を描写している。



犬養孝の昭和30年代との相違点

  1. 鳥居が立派になった。
  2. 鳥居の右手前の岩礁がなくなった。
  3. 左手前の岩礁の変わりに防潮堤が築かれている。
  4. 犬養孝は洞窟に入っているが、今は”落石危険入るな”と洞窟の入り口にロープが張られているため、入ることはできなかった。洞窟が口を開ける断崖は脆い凝灰角礫岩からなる。暗い洞窟の中を眼を凝らしてみると、小さな鳥居と石碑が立っていた。石碑は犬養の言う、”奥の中央に大正4年に立てた万葉歌碑”と思われる。
  5. 犬養孝の見た閑静な風景とは異なり、小雨混じりの強風で海は荒れ、日本海の厳しさが際立っていた。波が引いた隙をみて波打ち際に踏み出して写真を撮ったが、次の瞬間、大きな波が押し寄せ、膝下まで濡れてしまった。
  6. 今回の訪問者は車のカギを砂浜でなくし、小雨と強風の中、寒さに震えながらY君の援護を2時間半待った。

江戸初期まで洞窟の前に滝の前千軒という集落があったが、明暦二年(一六五六年)四月の大津波で一瞬にして海中に没したと伝えられる。車のカギをなくしたことと集落一つが消えたことを同列にして恐縮だけど、大汝神と少彦名神の祟りかも。

柿本人麻呂終焉の地で益田川の河口近くにあったとされる鴨山(斎藤茂吉の湯抱温泉近くの鴨山とは違う)も、平安時代の大津波で海底に沈んだというから、山陰の海はほんとうに荒々しい。

スペアキーを持って翌日車を取りに再訪したとき、静の窟の岬の上にある静間神社へ行ってみた。社伝によると、”光孝天皇仁和二年(886)二月八日の創祀。もとは、魚津漁港にある「静之窟」の中に祭られていたが、延宝二年(1674年)六月二十七日、洪水により崩壊したため、現社地(垂水山)へ遷座。”とある。静の窟前の集落が消えた1656年から18年後のことである。社殿には出雲大社拝殿と同じような大綱が張られている。面白いことに、神社の向かいにある沼の端にかわいい社があった。こちらの社殿にも、ちゃんと大綱が張られ、屋根には千木(2本のクロスした木)と鰹木(屋根に横に並べた木)がある。


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