備忘録として

タイトルのまま

イブン・バトゥータ

2007-10-21 19:59:54 | 中国
マルコ・ポーロから半世紀ほど後、1331年21歳の時にイスラム教徒イブン・バットゥータは故郷モロッコを出発し、中東、メッカ、イスタンブール、キプチャク、インド、モルジブ、スリランカ、東南アジア、中国を旅し、1349年46歳で再び故郷の地を踏んだ。バットゥータは1352年再びサハラ砂漠を縦断する旅に出かけている。彼の旅行記が残されていて、家島彦一がまとめた旅の概要”イブン・バットゥータの世界大旅行”を読んだ。14世紀はチンギス・ハンが樹立したモンゴル世界帝国が4つの汗国に分かれた頃で、イスラム教国はモロッコを最西地としてインドネシアを最東端とする広大な地域を占めるとともに、中国にも鄭和の先祖など宗徒が大勢いた。家島によると、このイスラム教国の広がりがバットゥータの旅を可能にしたということだ。

以下はバットゥータが旅先で見たものである。
1.バットゥータは1327年旅の往路で世界の七不思議で有名なアレキサンドリアの灯台を見ているが24年後帰路立ち寄った時には灯台は完全に破壊されていた。
2.アラビア半島の南、現在のオマーンに産する乳香は当時すでにインドや中国に輸出されていた。その土地の人間に檳榔子(ビンロウ)を噛んで嗜好品とする習慣があることを記録している。20年ほど前、台湾に行ったときに道端で売っている檳榔を買って噛んだことがあるがただ苦いだけだった。
3.鄭和は第1回目の航海を1405年に出発しているからバットゥータの旅は鄭和より半世紀以上前のことになる。バットゥータはインドの港で数多くの中国のジャンク船を見ており、鄭和以前に中国はインドやアラビア諸国と頻繁に交易をしていたことがわかる。
4.バットゥータはモルジブに1年半滞在し、彼が書き残した島名は現在の島名とほとんど比定できる。
5.バングラデッシュを出た後のスマトラ、タイ、ベトナム付近で語られる話のうち例えば巨鳥の話はアラビアンナイトのシンドバッドの航海の巨鳥とそっくりであったり、他の逸話も当時の書物の中の話とそっくりであるため信憑性が疑問視され、東南アジアと中国までは足を運んでいないというのが定説となっている。


著者家島彦一の言う旅の原点は、
”旅による他者の発見は、同時に自己の発見であって、自己のアイデンティティーを確立するための旅と言える。相手の異なる価値を認め、相手から学ぶ受身の柔軟な姿勢である。”とし、
”西ヨーロッパ・キリスト教国家による十字軍の遠征や大航海はつねに他者を排除することで自己の強烈なアイデンティティーを主張しようとする旅であった。自世界・文化の優越性を主張し、他者を支配した。現在のグローバリゼーションの展開による市場主義、石油戦略、自然破壊などは同じ原理の中で起こってきた。”
と批判している。

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