3Dプリンターで三角縁神獣鏡を再現したところ、魔鏡現象が確認できた(2014年1月29日毎日新聞記事 下の写真も)。鏡面に太陽の光を当てると裏面の文様が映し出されたという。鏡面を磨くときに裏の文様の硬軟が影響し鏡面にわずかな凹凸が生じ、それが魔境現象を起こすと解説されている。これが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚としたら、”卑弥呼事鬼道能惑衆”(卑弥呼は鬼道(呪術)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす)という魏志倭人伝の記述に得心がいく。
実際、三角縁神獣鏡の中には魏の年号である景初三年の記銘をもつ鏡があり、三角縁神獣鏡こそが魏王が卑弥呼に贈った銅鏡百枚であるという説がある。そしてこの鏡は3~4世紀の近畿地方の古墳からたくさん出土することから邪馬台国近畿説の根拠のひとつとなっている。
九州論者の植村清二は「神武天皇」で、鏡は持ち運びが容易で渡来年と埋葬年が制作年と一致するとは言えないから、魏の鏡が近畿に多くあることをもって魏と近畿の国の間で交渉があったとは結論できないとする。しかし、この部分の植村の説明ははぎれが悪い。同じ九州論者の古田武彦は、魏王が銅鏡百枚を贈ったのは景初二年のことで、卑弥呼に贈られた鏡に景初三年銘があるはずがないとする。だから、景初三年銘のある三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとする。
魏志倭人伝によると、景初二年6月卑弥呼は帯方郡に使節を送り天子に朝献を求め、帯方郡太守の劉夏は護衛をつけて使節を都・洛陽へ送る。同年12月に使節は天子に謁見し返礼として親魏倭王の金印や銅鏡百枚を含む方物を賜わる。植村は景初二年ではなく景初三年(239年)に使節は洛陽に送られ朝献したと書いている。魏志倭人伝には、景初二年とはっきりと書かれているのだが、その年は魏と公孫氏が戦闘中で、戦時下の帯方郡に使節を送るはずがないという考えから江戸時代以降改訂が加えられ、後代の研究者は改訂に疑問をもたず景初三年が定説となったものだと「邪馬台国はなかった」の著者である古田武彦はいう。
古田武彦は、景初二年だからこそ説明でき、三年では解釈不能の事実がいくつもあると指摘する。(1)帯方郡太守が倭国使節に護衛をつけて都へ送り届けたのは、魏と公孫氏が戦争中だったからである。このとき以外に使節に護衛をつけるなどという記録はない。(2)倭国の使節は人数が少なく貢物が貧弱だったのは戦時下だったことで説明できる。それ以降、これほど使節や貢物が少なかったことはない。(3)戦争中にも関わらず、東夷諸国の中でいち早く倭国が使節を送ったことを魏は喜び、親魏倭王という称号と豪華な下賜品を与えた。(4)景初二年12月に魏の明帝は病を発し急死する。だから同月に魏は親魏倭王と下賜品を装封(品物は準備したが封印して留め置いた)し詔書だけを出した。(5)1年の喪が明ける景初三年12月に諸公事を再開し、実際に使者を発したのは翌正始元年で下賜品は卑弥呼に直接届けられた。
卑弥呼への下賜品は景初二年12月に装封したのだから、そこに景初三年銘の銅鏡が入る可能性はなくなるというのが古田の説である。だから、景初三年銘の銅鏡は、卑弥呼に下賜された銅鏡百枚ではないというのだ。もちろんその後も魏と倭国の使節の交換は続いたので後の使者が持ち帰った可能性は残る。一方、同じ鏡が中国では1枚も発見されていないことから、中国で作られたものではなく日本で鋳造されたという説もある。いずれにしても三角縁神獣鏡が近畿周辺で数多く発見されていることで邪馬台国の所在地が確定したということにはならないと九州説派は述べている。しかし、魏の年代を記した銅鏡が東北から九州まで広く存在することは特筆されなければならない。
ところで、3Dプリンターの威力はすごいが、グーグルがまもなく限定販売するGoogle glassも優れものである。アーノルド・シュワルツェネッガーの「トゥルーライズ」で小型カメラの映像がメガネに映写されるスパイキットが出てきた。「ロボコップ」や「ターミネーター」では自分や対象物のデータが眼前に映し出された。それがやっと現実になってきた。検索、道案内、写真・ビデオ撮影、翻訳が音声指示でできるという。道を歩いていると、昼時なら近くのレストランを嗜好に合わせて教えてくれるらしい。ネット上で個人の嗜好はすでに筒抜けになっているから個人情報を制限することはもはや無理のようである。津波のときの人間の行動を分析するために集められたビッグデータをみると、個人の行動パターンは携帯やNavi管理会社にすべて把握されている。これらデータの制限は防災を目的とする津波時の行動パターンの分析やネットの利便性を阻害してしまうので、それを使う側の倫理観や、利用方法が適法かを監視するしかないと思う。