備忘録として

タイトルのまま

玄奘三蔵

2014-08-10 01:07:52 | 仏教

西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵は602年河南省陳留に生まれ、幼くして出家し多くの経典を学んだ。その内容に多くの疑義があり、法顕のようにインド(天竺)へ行って仏教経典を学び疑問を正したいと思うようになった。そして628年、26歳の時、インドに向けて一人長安を出発した。隋の煬帝の即位が604年、隋が滅んだのが618年なので、法師は隋末から唐初の動乱期に仏教勉学に励んだのである。帰国後書いた地理書が『大唐西域記』で、それが小説『西遊記』のもとになった。また、弟子の慧立(えりゅう)と彦悰(げんそう)が法師の旅行記『大慈恩寺三蔵法師伝』を書いた。その前半部を長澤和俊が訳した『玄奘三蔵 西域・インド紀行』を読んだ。

三蔵法師は約200年前の法顕と同じように長安を出立し河西回廊を通り西域に入る。法顕が玉門関を通りタクラマカン砂漠の南、天山南路を辿ったのに対し、法師は天山北路を通りサマルカンドとプルシャプラ(ペシャワール)を経由してインドに入る。630年にバーミアンに立ち寄り、高さ150尺の立石像と長さ1000尺の釈尊の涅槃臥像を見ている。当時の1尺が今と同じ30㎝だとすると、立石像は高さが45m、涅槃臥像は長さ300mということになる。タリバンが2001年に破壊した磨崖仏2体の高さは58mと35mなので、法師が見たのはおそらくこのどちらかである。300mの涅槃臥像を見つけたという未確認情報があるが真偽は定かではない。法師は途中の国々で足止めされるなどし、3年の歳月を費やしてインドにたどり着く。

 

『玄奘三蔵』の中にあった上下の地図はスキャンが手元になく、アイフォンで撮ったので、歪んでしまった。 

マガタ国周辺地図

 この本を読んだ最大の理由は、玄奘三蔵がブッダゆかりの地・仏跡をどう見たか、200年前の法顕の時代からどう変貌したかを知ることである。

祇園精舎

シュラーヴァスティーの周囲は6000余里、伽藍数百、僧徒は数千人おり、ともに正量部(しょうりょうぶ=小乗の部派仏教のひとつ)を学んでいる。城内にはスダッタの屋敷跡があり、城の南5~6里にジェータ林(スダッタが金貨を敷き詰めた逸話のある林)がある。すなわち祇園精舎で、むかしは伽藍があったが、今はすっかり崩れている。東門の左右に石柱があり、高さは70余尺でアショカ王が建てたものである。

カピラヴァストゥー

国の周囲は4000余里あり、都城の周囲は10余里、ともにみな荒れ果てている。宮城はまわりが15里あり、煉瓦造りできわめて堅固である。内部にスッドーダナ王(ブッダの父)の御殿の遺跡があり、その上に寺を建て、中に王の像が置かれている。その北の遺跡はマーヤー夫人の寝殿で、ここにも寺を建てて、内部に夫人の像を祀ってある。そのそばにも寺があるが、ここは釈尊菩薩が母胎に降臨された所であり、内部に菩薩降生の像が置かれている。

クシナガラ

この国もきわめて荒れ果てていた。城内の東北隅にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。ここはチュンダ(彼が給した茸料理でブッダは激しく下痢をする)の邸の跡である。邸内に井戸があり釈尊に食事を作るために掘ったものといい、いまも水は澄み映えている。町の西北3,4里でアジタヴァティー河を渡り、河岸近くに沙羅の林がある。そこには4対のほぼ同じ高さの木があり、ここが如来の涅槃し給うたところである。そこに大きな煉瓦の精舎があり、内部に北枕に横たわる如来の涅槃像があった。かたわらに大ストゥーパがあり、高さ200余尺でアショカ王の造ったものである。また仏涅槃の事跡を記した石柱が立っていたが、年月は記してなかった。

サルナート(鹿野苑)

台観は雲に連なり、四方に長い廊下が連なっている。ここには僧侶1500人が住み、小乗正量部を学んでいる。伽藍内に寺院があり、高さは百余丈(30m強)、石の階段や煉瓦の仏龕(ぶつがん=仏像を安置するための小室)の層数は百数階あり、仏龕にはみな黄金の仏像を浮彫してある。内部には真鍮製の仏像があり、この仏像は大きさは如来の等身大で、初転法輪(ブッダが初めて仏教の教義を説いた)の有様をうつしている。寺院の東南には石のストゥーパがあり、高さ百余丈でアショカ王の作である。その前に高さ七十余尺の石柱があるが、こここそ釈尊が初転法輪された場所である。

ブッダガヤ

(ブッダが下に座り悟りを開いた)菩提樹の囲いは煉瓦を積み重ねたもので、きわめて高く堅固で、東西に長く南北にやや狭い。正門は東方に開いてナイランジャナー河に対し、南門は大花池に接し、西は険しい丘に閉ざされ、北門は大伽藍(大覚寺)に通じており、その中に聖跡が連接し、あるいは寺院、あるいはストゥーパがあり、これらはともに諸王、大臣、富豪、長者が釈尊を慕い、きそって営造したもので、それぞれの名を残している。これらのまん真中に金剛座がある。天地開闢のとき、大地とともにできたものである。これは三千大世界の中央にあり、下は金輪を極め、上は地の果てに等しく、金剛で形造られ周囲は百余歩である。菩提樹は、如来ご在世のときは高さ数百尺であったが、このころはたびたび悪王のために伐採され、いまは高さ五丈あまりにすぎない。

パータリプトラ

アショカ王はすなわちビンビサーラ王のひ孫で、王舎城から遷都してここへ来たのであるが、遠いむかしのことなのでいまはただ遺跡が残っているのみである。かつては伽藍数百といわれたが、いま残っているのは2,3しかない。このもとの宮殿の北方、ガンガー河の岸辺に、千余戸の家々をもつ小城がある。同じ方向に高さ数十尺の石柱があり、ここはアショカ王が地獄を作った所である。法師はこの小城に7日間滞在して仏跡を巡礼した。地獄の南にいわゆるアショカ王の八万四千塔の一大ストゥーパがある。つぎに寺院があり、内部に釈尊が踏んだ石(いわゆる仏足跡)がある。石の上には釈尊の両足の足跡があり、長さ一尺八寸、広さ六寸で、両足の下に千幅輪相(仏の32相のひとつ)があり、10指の端には万字、花文(けもん)、瓶、魚などがいずれもはっきりとみえている。こここそ釈尊がヴァイシャーリーを出発して河の南岸の大きな方形の岩の上に立ち、アーナンダを顧みて、”こここそは私が最後に金剛座と王舎城を望んで留まった跡である”といわれたときのものである。

ナーランダー寺

三蔵法師が5年滞在し学んだナーランダー寺は荘厳で、当時客僧を入れてつねに1万人の僧侶がいて、大乗を学び小乗を兼学している。ヴェーダ、医学、数学なども研究していた。建立以来700年になるという。法師は正法蔵すなわち戒賢法師(シーラバドラ)に師事し、『瑜伽師地論』などの大乗経典を始め、小乗、バラモンを学んだ。

6人の皇帝がつぎつぎに隣り合わせに伽藍を建てたものをすべてに門を建て、庭を別々にして内部を八院に分けた。宝台は星のように並び、玉楼はあちこちにそびえ、高大な建物は煙や霞の上に立ち、風雲は戸や窓に生じ、日月は軒端に輝く。その間を緑水がゆるやかに流れ、青蓮が浮かんでいる。ところどころにカニカーラ樹が花咲き、外にはマンゴーの樹林が点綴(てんてつ)している。諸院・僧房はみな四階建で、これらの建物は棟木や梁は七彩の動物文で飾られ、斗栱は五彩、柱は朱塗りでさまざまの彫刻があり、礎石は玉製で文様が美しく刻まれ、甍は日光に輝き、垂木は彩糸に連なっている。インドの伽藍数は無数であるが、このナーランダー寺ほど壮麗崇高なものはない。(7世紀のナーランダー寺の荘厳で色彩豊かな天国のような様子が眼前に広がる)

丸山勇『ブッダの旅』よりナーランダー寺院跡

ラージギル(王舎城)

 四方はみな山で、険しいことはあたかも削ったようである。西に小道を通じ、北方に大門があり、東西に長く南北に狭く、周囲は百五十里あまりである。その中にさらに周囲三十余里の小城がある。カニカーラ樹がところどころに林をなし、いつも花開いて一年中花のないときはなく、葉は金色のように映えている。宮城から東北へ十四、五里ゆくと霊鷲山(グリドウラクータ山)がある。

法師はインド滞在中、南部を含めインド各地を旅し仏跡を訪ねる。小乗仏教、バラモン教、ジャイナ教の僧侶と論争するもその学識に敵うものはなく法師の学識はインド全土に知れ渡り、法師を失うのを惜しむ戒日王は引き止めようとする。中国に仏教経典をもたらすという法師の強い意志は固く、戒日王も承諾せざるを得なくなる。そして往路と逆方向にインド北西のヒンドゥークシュ山脈を越え、その後は北路ではなく天山南路をたどり、玉門関を抜け、645年長安の地を踏む。628年に長安を出て以来18年目のことであった。帰国後の法師は、『大唐西域記』を記すとともに、『瑜伽師地論』、『摂大乗経』、『金剛般若経』、『大般若経』などの経典翻訳に一生をささげ、664年に63歳の生涯を閉じた。 


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