伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「息子」もすごい

2020年03月18日 | エッセー

 刻下、ヨーロッパで新型コロナウイルスが猖獗を極めている。ほとんど報じられていないが、それに合わせて「黄禍論」が鎌首をもたげつつあるという。
 黄禍論とは黄色人種への差別的警戒論である。以下、ブリタニカ国際大百科事典を引く。
 〈日清戦争末期の1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論。19世紀末にドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、アジア民族の移住と労働力の脅威にふれ、黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろうと指摘した。日清戦争における日本の勝利は、ヨーロッパの白人の間に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めた。
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように、黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題であるから、この「黄禍」に対して、ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきであると主張した。この主張の背後には、ロシアを極東進出政策に向けることによって、ヨーロッパ、近東におけるロシアからの脅威を減殺してドイツのオスマン帝国進出政策を容易にしようとする政治的意図が存在した。この構想の最初の具体的表現が、三国干渉の対日行動であった。
 その後も、第1次世界大戦中の1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ、また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも、黄禍論的な議論がしばしば行われた。〉(一部省略)
 英語では yellow peril(危険) と表記する。直截さが鰾膠も無い蔑視を突き付ける。1世紀余を経て蘇ったゾンビのようだ。yellow の中心には中国がいる。
 今年1月の拙稿「多様性はめんどくさい<承前>」でブレイディみかこ女史を紹介した。母親も凄いが、(息子」もすごい。子母沢寛の「親子鷹」は勝海舟の父小吉もすごかったという物語だが、その母子版になるか。この母にしてこの子あり。親子共にそんじょそこらの並みではない。
 愚稿はこう締め括った。
 〈エンパシーとは? と問われて「自分で誰かの靴を履いてみること」と英語の定型句を返した「息子」。稿者を含め日本の大人たち、とりわけ要路にある面々は彼の爪の垢でも煎じて飲むといい。〉 
 その中学生の「息子」についてである。ついこないだ3月12日、朝日の「欧州季評」にみかこ女史が寄せたエピソードにも登場した。
 独仏英の大手メディアやSNSで黄禍論が流れ、子どもたちにも及んでいる。中身を拾ってみる。
 〈「教室を移動していたら、階段ですれ違いざまに同級生の男子から『学校にコロナを広めるな』って言われた」
「あまりにひどいから、絶句してしばらくその場に立っていた。なんだか、もはやアジア人そのものがコロナウイルスになったみたいだね」
  その後、件の少年は息子に謝りに来たそうだ。階段で起きたことを見ていた誰かが彼に注意したそうで、「さっきはひどいことを言ってごめん」と申し訳なさそうに謝ったというのだ。〉
 と、ここまではありがちな話である。ところが、次の展開に唸ってしまった。
〈「僕は黙って立っていただけだったけど、誰かが彼にきちんと話をしてくれたから、彼は自分が言ったことのひどさがわかったんだよね。謝られた時、あの場で何も言わなかった僕にも偏見があったと気づいた」
「偏見?」
「その子、自閉症なんだ。だから、彼に話してもわかってもらえないだろうと心のどこかで決め付けて、僕は黙っていたんじゃないかと思う」〉
 日本の学校教育でこんな「息子」は育つだろうか。「彼にきちんと話を」した「誰か」ならいるだろう。しかし、自らの優しさに潜む偏見をも同等に見抜く中学生は発見しがたいにちがいない。母子版親子鷹は希少種、いや絶滅種といえなくもない。
 昨年9月に愚案した「グレタの新しさ」ではこう書いた。
 〈悪友に嗾されてグレたのではない。環境問題でグレた(失礼!)。断言するが、日本にそんなグレ方をして学校に行かない16歳はいない。あり得ない。原因は地球規模、ふけた先も大西洋の向こう側(NYでの国連)。なんともすごい。〉  
 「息子」も同い年か。羨ましくもあり、わが身が恥ずかしくもある。 □