伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「おおー、一緒だ!」

2019年08月15日 | エッセー

 稿者のような鄙のディレッタントにとって、高名な識者と同じ問題意識を持ち見解が一致することは望外の喜びである。「おおー、一緒だ!」と、ガッツポーズのひとつもとりたくなる。知的ミーハーには至福の共鳴である。
 12年1月の本稿『“断捨離” と “ときめき”』から。
 〈なんといっても『ときめき』がキーワードである。「片づけはマインドが9割」と説く。触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかが、捨てるか否かの見極めどこだと力説する。そして、完璧な片づけで人生がときめくと誘(イザナ)う。
 「ときめかなくなったモノを捨てる。それはそのモノにとっての新しい門出。だから祝福してあげてください」などと諭されると、フェティシズムの臭気を感じなくもない。だが個人的な嗜好でいえば、(「断捨離」より)こちらの方に引かれる。なにせ斬り口が鮮烈だ。『好奇のムシ』が喜ぶ、喜ぶ。〉(抄録)
 “コンマリ”こと近藤真理恵氏の“片付けの魔法”である。あれから8年、時の人は今や世界の“KonMari”へと飛躍した。1月後、『“ときめき”と“ワクワク”』と題して再び触れた。
 「ワクワク」を選択し続けると学問・生活両面でいいことが起こる。それは身体に自らを善導するセンサーがあるからではないか、との思想家・内田 樹氏の達見を引いて、
 〈「ワクワク」と「センサー」。見事に「ときめき」と一致するではないか。身体の情報処理という哲学的知見を家常茶飯にパラフレーズすると、「ときめき収納法」になるのか。こんまり先生、鮮やかである。“ときめき”といい“ワクワク”といい、人類のプリミティヴな探知能力がそのような心のありように引き継がれているとしたら、なんだか楽しくなってくる。だが裏を返せば、“ときめき”や“ワクワク”が失せたらキケンと知ろう。〉(抄録)
 と記した。匍匐ながら“ときめき”の実体に迫ったような気がする。さらに本年5月の『岡目八目』で米国人ジャーナリストの著作を紹介し、国難にある日本を救うひとつの曙光としてコンマリを取り上げていると綴った。
 〈戦後物作りのハードで先行し、平成に入りソフトで後れを取った日本──。大括りにすればそうなる。ところがどっこい、欧米から「ウサギ小屋」とバカにされた住環境ゆえに「Spark Joy」(「ときめき」の訳語)が生まれ、「KonMari~人生がときめく片づけの魔法~」が誕生した。今や「世界で最もクリエイティブな国」と評されている。「日常的な家事を、見事なまでにイノベーティブなソフトとして展開した」と彼は評する。〉(抄録)
 そこで件(クダン)の「至福の共鳴」だ。
 脳科学者・茂木健一郎氏の近著「なぜ日本の当たり前に世界は熱狂するのか」(角川新書 本年5月刊)──アニメからこんまりまで、世界が日本を絶賛する理由は脳科学で解明できる。「礼賛」でも「自虐」でもない、著者渾身の日本人論!──で、同趣旨の論攷を提示している。
 服に「また会いたいか」、長い間押し入れにある物は「寝ている」、わが家の物は「おうちの子」など、片付けを物との対話と捉え擬人化する表現が多いことに注目し、
「物に精神性を求めるこのような発想は、八百万の神の世界観に極めて近いものがあり、片付けを理論的な作業として捉える外国人にとっては新鮮なものだったにちがいない」(上掲書より)
 と語る。「おおー、一緒だ!」ではないか。幼稚と揶揄されようと、権威への追従と冷笑されようと「鄙のディレッタント」には「望外の喜び」である。
 もうひとつ。英語の「I」と「YOU」。
 英語の「私」が「I」ひとつ切りであるのに日本語ではいくつもあると疑問を投げかけ、
 〈内田樹さんの言葉を借りれば、これらは一種の「メタ・メッセージ」として、相手との関係性を表す際に非常に有効に使われる。一人称の使い方一つで相手への印象はがらりと変わり、それは「私はこういう立場で、あなたはこういう立場ですよ」というメタ・メッセージとして大きな役割を果たしている。一人称の発達は、ときに話の内容よりも相手との関係性を明確にしたいと考える、日本人ならではの配慮の極みといえるだろう。〉(上掲書より抄録)
 これは16年11月『“I” と “You”』で愚慮を呈した通りだ。ただ拙稿ではその拠って来る淵源に浅慮を致した。
 〈日本語の一人称が、話者と相手との関係で巧みにトポスを変え多様に変化するのとは大いに異なる。なぜか。
 相手はひとりしかいないからだ。  そのひとりとは神である。唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっているからだ。“God”と対するなら“I”のトポスは不変だ。いかなる高位者であろうとも“Godに向き合うI”に比するなら、神の僕(シモベ)以上の意味はもたない。常に“Godに向き合うI”からの発語なのだ。しかも日常的には“Godに向き合う”の部分が捨象され、“I”だけが残る。だから、これ一つ限りになる。〉
 さらに、
 〈なぜ二人称は単複ともに“You”なのか。これがかねてよりの疑問であった。だが如上の愚見を踏まえると、謎は氷解する。つまり、“You”とは神だからだ。唯一の絶対者であるのだから、当然複数形はあり得ない。これがプリミティヴな成り立ちだ。複数を兼ねるのは派生の一形態だろう。〉
 まことに盲蛇に怖じず、郢書燕説、汗顔の至りだが、智者が語り残したイシューに分け入る蛮勇もまた「鄙のディレッタント」には浅慮の一得か、鄙ゆえの特権ではあろう。
 さらにひとつ。「ファクトフルネス」について。
 先月、本稿で絶賛した。ただし、上掲書で茂木氏は高い評価をした上でオブジェクションを投げかける。
 〈ファクトフルネスで真実を知ることは極めて大切なことだが、データに載らない人々の声や感情があることも理解し、つねに物事の全体を把握する俯瞰的な視点を持ち合わせていなければならない。こうした思想のことを「社会的マインドフルネス」とでもいおうか。「いま、この瞬間の体験に目を向け、目の前で起こることを評価をせずに受け入れる」ことがマインドフルネスの定義だとすれば、対人、対世界においても「社会的マインドフルネス」が必要だとぼくは考える。それはあるいは、共感能力にも近い。ファクトフルネスと社会的マインドフルネスは、いわばクルマの両輪である。いつの時代も事実は説得力をもつが、それを相手の心に届けるには共感の力が必要だ。〉(上掲書から収録)
 んー、これは参った。著者であるハンス・ロスリングも触れてはいるが、ファクトの圧倒的なインパクトゆえに見逃してしまう視座である。「鄙のディレッタント」には頂門の一針だ。至福の不協和音といえなくもない。深遠な知の世界の外れにある「鄙のディレッタント」。鄙ゆえの悲喜交々があるが、万に一つの至福の共鳴は格別だ。 □