伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

春の海

2018年05月16日 | エッセー

 もうそろそろだろうが、梅雨の気配はまだない。麗らかな陽気に誘われて海辺を訪った。凪ではあるものの細い波頭(ナミガシラ)が揺蕩うように岸に寄せ、海原は日の光を浴びて一段と群青の度を増していた。

   春の海終日のたりのたりかな
 
 蕪村は丹後の海を詠んだらしい。白砂青松によく似合う。ひねもすには、厳冬とのきっぱりした決別が含意されているのか。晴る(ハル)時季の到来を嘉しているのか。なんといっても、この句は繰り返される擬態語が万言を一身に担う。人口に膾炙する所以だ。
 春の海。のたりと寄せ、のたりと返す波。まことに長閑だ。しかし、それは時として凶暴な悪鬼と化す。大時化の波だ。さらに悪逆無道な魔神となって陸(オカ)を陵辱することがある。津波だ。津と呼ばれた船着き場を跡形もなく嘗め尽くす。七年前の惨劇は未だ癒えない。
 海が宿す狂気。この星に住まう者が担い続けねばならない定めである。といって、並びなき俳人を揶揄するつもりなぞ毛頭ない。ただ一望の嫋やかな海を前に昨今の非道な事件が脳裏を掠め、人間の狂気と二重写しになったのだ。あるいは、人間界の理不尽と春の海との絶望的な落差に狼狽えたのかもしれない。
 水平線に至るまで、舟一艘浮かんではいない。目を凝らしても、鋼を纏った遠洋船とてどこにもいない。無粋なほどに海一色だ。釣り人も見当たらない。こんな春の海では魚とて釣り餌には目もくれず、のたりのたりと潮の流れに身を委ねているのかもしれぬ。微風が朧気な磯の香を運んでくるばかりだ。
 のたりと揺蕩う春の海。こんな日ばかりではないと、歩きづらい砂浜に足を絡まれつつ妙な自戒をしてみた。 □