伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

当世『国家論』

2016年12月28日 | Weblog

 プラトンの「国家」を富士山とすると、これは富士塚といえよう。3776メートルは無理でも江戸市中の10メートルにも満たない「お富士さん」なら苦もなく登れる。かつ霊験もあらたかとくれば、行かない手はない。
 橋本 治著  「国家を考えてみよう」  ちくまプリマー新書(6月刊)
 今年の新書ベストワン、まちがいなしだ。タイトルは「考えてみよう」とまことに緩いが、「考え」は高々としている。だから、富士塚だ。
 この人の知性はなんと表現したらいいのだろう。失礼ながらあの飄然たる風貌に似ず、快刀乱麻を断つ颯爽たる知性とでもいえばいいのだろうか(颯爽といっても桃尻娘調は微かに底流するが)。この人の手に掛かると、こんがらがった糸が鮮やかに解(ホド)ける。その手捌きは当代随一ではないか。別けても三島由紀夫論、小林秀雄論は胸をすく。そして今回、大いに縺れた糸である「国家」を相手に快刀が唸りを発した。
 のっけから
 〈『国家を考えてみよう』という本ですが、そのために重要なことは、まず「国家を考えない」ということでしょう。〉(上掲書より抄録、以下同様)
 と意表を突いてくる。哲学の迷路に行かずに、政治の具象に即して考えようというのだ。まずは「國」の解字から始まる。まことに具体的だ。
 〈漢字には、「支配者のものではなくて国民のもの」であるような国民国家を表す、一文字の「クニ」はありません。〉(引用者註・国構えに民が入るクニは俗字で正字ではない)
 信長が右大臣、秀吉は関白で幕府を開かず、頼朝や家康が征夷大将軍となって幕府を開いた訳。国に家が付く国家の意味と天下との違い。
 〈最大の間違いは、主君に忠誠を誓うのは武士だけで、百姓や町人はそんなことをしません。ただ、将軍や大名の領地となった場所に住んでいるだけです。そもそも、「日本全体」を一まとめにする考え方がないのです。どうしてかと言うと、日本人は「日本人」である前に、「武士」だったり「町人」だったり「百姓」であったりするような、階層ごとの捉え方しかしていないからです。〉
 と、この辺りはいかにも治さん流で目から1枚鱗がポロリだ。続いて「王政復古の大号令」によって日本に「国家」が復活したと述べ、明治日本の大啓蒙家・福沢諭吉が『学問のすゝめ』の中で「国家」「天皇」という言葉をまったく使っていない理由を探る。諭吉は現在の象徴天皇制に近い考え方をしていたと聞いて、また鱗がポロリ。
 翻って話は日本の土地所有制度に移り、封建制のキモに。
 〈「所有することよりも、それを保証されること」という不思議なシステム。この日本を安定させていた不思議なシステムの名前が、実は「封建制度」です。〉
 かつて司馬遼太郎が廃藩置県がなぜスムーズに成されたかについて語った論旨に重なる。
 〈誤解されがちですが、「主君に忠誠を誓う」とか「忠義を尽す」というのは、封建制度ではありません。これは儒教の方から出た考え方で、「交換条件があるから従う」ではなくて、「えらい人なんだから、文句を言わずに従え」というのが儒教です。〉
 これで、3枚目の鱗がはらり。そしていよいよ佳境に入る。「国家主義」についてだ。「国家の悪いDNA」を剔抉し、
 〈「国民の国家」が出来上がった後で生まれる、本当ならもういらないはずの国家主義は、「国家に関する不安の表れ」なのです。〉
 と本質を喝破する。ここからが治さんの極めつけ。
 〈民主主義の政治というのは、その政治を支える国民の頭のレベルを、まともでかなり高いものと想定して、これを前提にしています。自動車の運転なら「運転免許を取るための学習」が必要になりますが、国民には、参政権を行使するための学習が必要ありません。〉
 譬えが絶妙である。目から鱗の4枚目だ。
 〈自信のなくなった民主主義国家の国民は、民主主義である国民の国家になる前にあった、自分達の国の君主制政治の「輝かしい幻」を見るのです。〉
 先月の拙稿「ニューシフト・イレブンが紡ぐぼくたちへのアンソロジー」で紹介した《「国を愛する」ってなんだろう?》で、山崎雅弘氏が指摘した「戦前戦中の古いバージョンの『愛国心』」に通底する卓見だ。
 「自信」を回復するには「改革」が要る。それには「大いなる権力」が必須だが、そうは明け透けに言えない。そこで、「決断力」と「実行力」に巧みにパラフレーズされる。そこを見逃してはならない。
 〈「パッとしない状況」が長引き、「変革の必要」が叫ばれて「決断力と実行力のあるリーダー」が待望され出現してしまえば、「グダグダ言うやつのことを聞く必要はない」になって、議会の言うことは平気で無視されてしまいます。一度リーダーになってしまえば、どんな批判を受けても「私は間違っていない。私はきちんと民主主義のやり方を踏襲している」と言って通ってしまうのが、民主主義を前提とした国家主義のすごいところで、逆を言えば、それを可能にしてしまうところが、民主主義の弱いところなのです──ということはつまり、民主主義の世の中に、「国家主義の芽」はいくらでも存在しているということです。〉
 これは当今の永田町のありようを糾弾しているともいえる。さらに「国家主義の芽」つまりは「支配者になりかねない権力者」を防止する最終的な砦が憲法であると述べ、自民党憲法改正草案の指弾へと展開する。
 最新の調査によると年代と自民党の支持率はパラレルではないという。むしろ、団塊の世代では薄くなるそうだ。自民党の一人勝ちは小選挙区制と低投票率の帰結であるらしい。してみれば、国民の約半数に及ぶ無投票者が実質的に自民党に“投票”していたことになる。この件については、本年1月の愚稿「多数決を疑え!」で取り上げた。ともあれ「運転免許を取るための学習」はしても、1人の例外もなく国民全員の生殺与奪の権をも握る「参政権を行使するための学習」がなされていない証左といえよう。
 本書の結びはこうだ。
 〈「政治に失望しているから」と言う人がいます。「選挙に行ったってなにも変わらないし、政治家なんかみんな同じでしょう?」とか。こういう人は、実は、政治を他人にまかせ放しにして、「政治に参加する義務」というものを放棄しているのですね。〉
 「政治に参加する義務」とは重く厳しい言葉だ。残念ながら、「国家」がバージョンアップして別の何ものかに変身する気配はない。ならば、そこに住まう者として「国家を考えてみよう」とするのは一身上と同等に至極当然のことではないか。それも具体的な政治に即して考える。「3776メートルは無理でも江戸市中の10メートルにも満たない『お富士さん』なら苦もなく登れる。かつ霊験もあらたかとくれば、行かない手はない」。この書はわが町の「富士塚」である。ぜひ、お出ましを。 □

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