この月末(ツキズエ)は「閏」に触れぬわけにはいかないだろう。なにせ四年に一度だ。もしも永らえたとしたら次は齢、途轍もない大台に達する。なにせ未経験、考えるだに空恐ろしい。
解字すると、門構えの中に「王」とある。白川 静先生は「壬(ジン)」だとされたが、通説を採る。二通りに読める。門内に王が居ます。王は門内に籠もり静養し、門外の統治を一時的に放棄する。この間、門外は王の統治からはみ出した余り分となる。そのような古代の慣習を適用した、と読む。昨年七月朔日午前九時直前の閏秒に始まり閏日、閏月、閏年の「閏」は剰余、はみ出し部分の謂となる。これが一つ。
もう一つは門内の王は幽閉されているとする見方だ。前漢の帝位を簒奪し奇矯な暴政をほしいままにした王莽を暗喩する。天命を受けない偽皇帝、転じて異端の謂だ。常軌にあらざる型破りな時間。それを「閏」と呼ぶ。閏年以外は平年という。平生の年とイレギュラーする年。これもまた味わい深い。
どちらも王は門内に在(マシマ)す。自らなのか、強いられてか。事は一つながら、見方は割れる。閏日も余とみえるし、奇ともみえる。いずれにせよ、奇貨可居ではある。さて、どう過ごすか。
閏に三水が付くと「潤」になるが、実は逆だった。暦法の閏が入ってきて、先にあった潤の読みを当てた。だから「うるふ」、「うるう」である。先述の余剰に似たニュアンスともいえる。「う(浮)(居)る」、つまり表面に水(三水)が浮いている様を潤といった。目が「うるうる」するはここから来たらしい。湿潤、豊潤、潤滑、利潤。さまざまに語彙を潤してきた。
余談ながら、白川説の「壬」は腹部の膨らんだ物、真ん中が太い糸巻きを象形する。会意形声されて「妊」ともなった。十干では、壬は「水の兄(=みずのえ)」である。「兄(え)」は陰陽の陽、ちなみに陰は「弟(と)」である。陽の気だから水の活動、活性化をいうのであろうか。閏は腹部がふくらんだ形を表し、潤は水が染み込んで膨らむことをいう。壬と王は字源が重なるので、糸巻きだとしても「門内の王」に通底する。むしろこちらが原義だったのかもしれない。
京都の壬生は「水」と「辺」の転訛だというし、開祖の姓だともいう。戯れに、沢山の古墳から壬と王の同根を連想できなくもない。「壬生浪(みぶろ)」は幕末、当地に本拠を据えた新撰組の蔑称である。永い歴史ゆえの皮肉であるかもしれない。
考えてみれば一日多い三六六日、腹が膨れるほどではないかもしれぬ。だが、生涯では十数日分に達する。中太の壬であり、王のごとく貴くもある。さて、どう迎えるか。 □