伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

俯瞰する力

2014年02月21日 | エッセー

 先日、久方ぶりに京都に立ち寄った。桓武天皇は遷都先を決めるに当たり、現在の東山区にある将軍塚に立って葛野(カドノ)の地を見渡したそうだ。確かにそこは一眸の適地で、いまでも有数の夜景スポットである。爾来、平安の都は1200年を経てなお生き続ける。
 あらためて殷賑の街衢を眺め遙かな稜線を遠望しつつ、太古を生きた人の眼力に畏れ入った。延暦のころ、もちろんそこは茫漠たる原野であったはずだ。あるいは盆地の底に起伏する森の連なりだったかもしれない。だからそこを衢地と見抜き、都と定めた古人の鳥瞰力に脱帽せざるを得ない。
 そう愚慮を巡らすうち、かつての拙稿が甦った。抄録してみる。
〓城は山城から始まり、平山城へと移り、平城に至った。
 山城の場合、いつも不思議なのは、なぜあそこなんだろう、ということだ。
 山城は、防御の拠点であった。武器、弾薬、糧秣、資金を集積しておき、非常の時に備えた。普段、領主は麓で起居する。屋形、館と呼ばれた。戦況を見て、籠城する。ために難攻不落、峻険な山頂や山腹が選ばれた。しかしそれとて地理的な孤立が過ぎると単なる疎開や不戦でしかなく、戦略的意味をなさない。籠城も戦略のひとつである。それを大筋にして勘案し、居が定められた。これが戦国初期までの築城である。
 今では山容は変わらぬまでも、裾野に展開する街区は一変している。交通網は隔世して別物となり、地理的状況は旧態を留めない。前述の「不思議」は、ここからくるのであろうか。いや、もっと深みに不思議はあるのではないか。
 たしかに航空写真でも見せられれば、そこがこの上ない適地であると判るのだが、素人目にはそうはいかない。しかし、専門家はいにしえの選択眼に驚嘆する。
 一族郎党の命運が懸かった見立てである。武将の眼力には、現今の人間には見えないものが見えていたのだろう。正確な地図などない時代である。連なる山々を望み、野を見晴るかし、川の流れを織り込んで、俯瞰図が描(エガ)けたのではあるまいか。自在な鳥の目をもっていたのでなければ、合点がいかぬし辻褄が合わぬ。
 山野の景観を戦略的に視る能力。戦国の武士たちのそれは、機械の助力を介さない本能に近いものであったろう。当今では不思議としか言いようのない才だ。〓(10年10月「山城の不思議」から)
 俯瞰力について、脳科学者の池谷裕二(イケガヤ・ユウジ)氏が近著で興味深い知見を述べている。
◇(右側の頭頂葉の「角回」と呼ばれる部位を刺激すると、被験者の意識は2メートルほど舞い上がり、天井付近から「ベッドに寝ている自分」が部分的に見えたという海外で行われた幽体離脱実験を紹介し・引用者註)驚かれるかもしれませんが、じつは、幽体離脱に似た現象は日常生活でもよく見られます。たとえば、有能なサッカー選手には、プレイ中に上空からフィールドが見え、有効なパスのコースが読めるという人がいます。こうした俯瞰力は、幽体離脱現象とよく似ています。
 さらに言えば、客観的に自己評価し、自分の振る舞いを省みる「反省」も、他者の視点で自分を眺めることが必要です。自己を離れて眺める能力があるからこそ、私たちは社会的に成長できるわけです。
 幽体離脱の脳回路は俯瞰力のために備わっているのかもしれません。主観と客観その妙なるバランスに乗って立ち、「自分とは何か」を考えるとき、頭頂葉はとりわけ味わい深い脳部位です。◇(「脳には妙なクセがある」から)
 頭頂葉による俯瞰力の賦活化。『当今』でも『不思議としか言いようのない才』が顕現する。遷都と山城、それに幽体離脱が「角回」で繋がる。脳科学とは、実におもしろい。人類の発祥とともに、敵や獲物を探知し生き延びる能力として獲得されたのであろう。
 さらに瞠目すべきは、池谷氏が「反省」に言及している件(クダリ)だ。俯瞰力が「他者の視点で自分を眺める」、「自己を離れて眺める能力」に連動している──。胸躍るほどにすばらしい卓見ではないか。稿者十八番の「自己を客観視する謙虚さ」にも通じようか。
 唐突だが、俯瞰力の逆位相にあるのが当今よく耳にする「反知性主義」ではないか。無知では当然なく、非知性でもない。知性を攻撃的に否定するスタンスをこう呼ぶ。どこかの市長が「学者は本を読んでいるだけの、現場を知らない役立たず」と扱き下ろす。あの手合だ。
 今月19日付の朝日新聞が文化欄でこれを取り上げた。
〓自分に都合のよい物語 他者に強要
 「嫌中」「憎韓」「反日」――首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリスティックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して特集した(1月25日&2月1日合併号)。
 元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。
 異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな「決断」を重視する姿勢がそこにあると氏は見た。「反知性主義の典型です」。週刊現代の対談では、靖国や慰安婦に関する海外からの批判の深刻さを安倍政権が認識できていない、とも指摘した。
 自分が理解したいように世界を理解する「反知性主義のプリズム」が働いているせいで、「不適切な発言をした」という自覚ができず、聞く側の受け止め方に問題があるとしか認識できない。そう分析する。〓(抜粋)
  「異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな『決断』を重視する」とは、さすがに佐藤氏は慧眼の士である。「不適切な発言をしたという自覚」がなく、「聞く側の受け止め方に問題があるとしか認識できない」連中はここのところ頓に目立つ。某国首相をはじめ、某財務大臣、某放送の会長、某売れっ子小説家などなど。狷介な再帰的思考といえなくもないが、ひょっとして頭頂葉にダメージを抱えているのではないかと勘ぐりたくもなる。
 括りに、内田 樹氏の洞見を徴したい。
◇「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。◇(「『おじさん』的思考」から)
 「『マッピング』する能力」とは、俯瞰力に異なるまい。高見より四方八方を見霽かす鳥の目。それこそが知性の肝である。海図なき航海に漂流は必定だ。地図なき登山に遭難は免れない。蓋し、マッピング能力とは死活に係わる。知性にとっても存否に直結する。頭頂葉角回の機能回復が俟たれる所以だ。

 京都から、あらぬ方(カタ)へいざよってしまった。これぞマッピングなき迷走である。 □