「きほんの『き』」の続きを試みる。昨年10月22日付本ブログの愚考を煎じてみたい。
① 1989年11月9日、② 2001年9月11日、③ 2008年9月14日 ―― こう並べると、それぞれ何が起こった日かお判りになるだろう。
① は、ベルリンの壁崩壊。イデオロギーの時代が終焉した日だ。
② は、同時多発テロ事件。ファンダメンタリズムが暴発した。
③ は、リーマンショック。経済危機の発火点だ。
現代史、とりわけここ20年間のエポックメーキングな出来事である。20年は短いかもしれぬが、昨今は時代の速度が上がっている。ドッグイヤーで勘定しても、優に1世紀を跨ぐスパンになる。そこに劃然たる三つの歴史の沸点があったと見たい。
① ② については、かつて以下のように触れた。
☆1989年11月ベルリンの壁が崩れ、12月冷戦の終結が宣言された。頑なな政治イデオロギーの呪縛から世界が解放された。半世紀間、地球を締め付けてきたタガが一気に緩んだ。そして噴き出してきたものは血の呪縛という妖怪である。ナチスの先祖返りのような醜怪なレーシズム(人種差別主義)やエスノセントリズム(自民族中心主義)、さらにエスニック・クレンジング(民族浄化)の悪夢であった。☆(06年6月十九日付本ブログ「醜悪なる連鎖」より)
「イデオロギーの呪縛」の後に世界を襲ったものは「血の呪縛」であった。それがボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇であり、踵を接して原理主義のテロルが世界を震撼させた。
そして、③ である。市場経済と金融経済が蹉跌をきたし、「暴走する資本主義」がメルトダウンを始めた日だ。わたしはこれを「マモニズムの呪縛」が沸点を迎えた刹那と捉えたい。問題は、呪縛から解かれるか否かだ。
卑近に例を引く。1月30日のasahi.comから。
〓〓15億円集め主婦が失跡 「関西一の女相場師」触れ込み
「関西一の女相場師」との触れ込みで出資者から多額の資金を集め、自宅のパソコンで運用していた大阪府泉佐野市の主婦(54)が、25日夜から姿を消していることが関係者への取材でわかった。少なくとも約200人から計約15億円を集めたとみられ、出資者らはこの主婦を近く大阪府警に出資法違反(預かり金の禁止)容疑で告訴する方針だ。
出資者らによると、この主婦は十数年前から「元本保証」と宣伝し、知人を通じて出資を募っていた。数年前に投資事業組合を立ち上げて資金集めを本格化。出資者は大阪、京都、三重などの主婦や会社員らで、月に2~5%前後の配当を受け取る内容の契約書を交わしていたという。
主婦は集めた資金を、日経平均株価の変動を予想する「日経225オプション取引」で運用しており、昨年9月までは約束通りの配当があった。しかし、米大手証券会社のリーマン・ブラザーズが破綻(はたん)したことによる「リーマンショック」後の同10月ごろから滞るようになり、同12月ごろからは「3カ月で25%の配当を払う」などと配当率をアップして、出資者に増資を求めていたという。
ところが主婦は今月25日夜、夫や子どもら家族4人とともに自宅から突然失跡。出資者の一部は被害者の会を結成し、弁護士に相談した。弁護士は「元本保証と言って不特定多数から金を集めるのは出資法違反」と指摘。弁護士が確認できていない出資者も多数いるとみられ、被害総額は増える見通しだ。〓〓
リーマンショックが生んだ、とんだ悲喜劇である。そこで、「きほんの『き』」だ。拙稿で、物品貨幣について次のように述べた。長い繰り返しを赦されたい。
☆ ―― Aは漁で鮭を獲った。鮭がほしかったBは貝殻と鮭を交換した。Aはその貝殻でCの持っていた鶏と交換した。『鮭 → 貝殻 → 鶏』の連鎖である。この中に、三つの重要な論点がある。
一つ目は、鮭が鶏に変わる『マジック』が起こったこと。超魔術師・Mr.マリックなぞ足元にも及ばない超弩級のマジックである。この魔術は人類以外には断じて成し得ない。『二足歩行に匹敵する』人類史的進化である。この魔法は人間の生活に革命的変化をもたらした。
二つ目に、魔法のタネは貝殻という異質のモノであったことである。鮭と鶏は喰えるが、貝殻は喰えない。貝殻自体にはほとんど値打ちはない。鮭および鶏の値打ちを象徴し代替するモノとしてある。鮭から貝殻、貝殻から鶏。そこに『大きな飛躍』があり、幻想性が潜む。つまり、猫に小判。いかな愛猫であっても、幻想性を共有することは叶わぬ。『人類以外には断じて成し得ない』幻想の共有があった。『つまるところ、カネ(金)はイリュージョンではないか 』という筆者の問題意識はここに起因する。
三つ目に、『信用の環(ワ)』があったこと。実はこれこそが核心である。貝殻の幻想性を超えるものとして信頼関係があった。Bの持っていた貝殻をCを含む他人が物資の交換手段として受け入れてくれる、とAは信じた。これが前提である。この信頼が魔法を喚んだ。ところが、信頼は時として裏切られる。だから、信用の行為には『賭け』がつきまとう。たとえば、貝殻には祟りがあるという噂が流れたとする。だれも受け取らなくなった貝殻は、たちまちにして貨幣としての機能を失う。幻想性を帯したモノを信用することは賭けでもあるのだ。サブプライムは『信用の環』が崩れ、幻想性が露わになったモノだ。
物品貨幣としての貝殻は物資そのものではない。決して鮭でも鶏でもない。さらに貝殻ですらない。だから、実体を装う幻想である。幻想に寄りかかることは無から有を産むこと。つまりは『マジック』であり、同時に『賭け』である。幻想は時として誇大する。そこに危険が宿り、諸悪の根源となる。 (略)
貨幣が『幻想性を帯したモノ』である以上、それを『信用することは賭けでもある』。賭け、すなわち投機は不安定だからこそ成り立つ。一寸先が闇だからこそ機会を投げるのだ。貨幣は生来、「効率化」と「不安定」化の「二律背反的な存在」としてある。この「貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題」を克服する、貨幣に替わるなにものかは出現するのだろうか。世紀を跨ぐ課題であろう。電子マネーの試みはあるが、所詮は貨幣の代替物でしかない。イリュージョンが転位しただけだ。☆
貨幣のアプリオリな属性として幻想性(二つ目)を挙げた。これを下敷きに『マジック』(一つ目)は起こる。魔術を裏書きするのは『信用の環(ワ)』(三つ目)である。さらに、それらを陰画に転ずると『賭け』が浮き上がると語った。つまり、一つ目と二つ目は人類の経済活動に革命をもたらしたが、幻想性ゆえに人間の所有欲に火をつける結果になった。食欲は健常な場合、胃袋の容積を越えることはない。しかし本来物理的存在ではない貨幣への欲は満たされることがない。また何にでも『変』えられる『マジック』である以上、所有するにこれほど便利なものはない。打ち出の小槌だ。小槌で小槌を生もうとしたのが金融経済だ。幻想性ゆえのトリックであり、幻想性ゆえにトラップと化した。それがリーマンショックだ。
そのようにして手段と目的は逆転していく。手段が自己目的化する。避け難い陥穽であり、宿痾でもある。それゆえにマモニズムは跋扈する。大阪の事件はその一例であり典型でさえある。たしかに、風が『吹かねば、』桶屋が儲か『らぬ』のだ。風は、もちろん、幻想の風だ。
処方箋はあるか。霞を喰らっては生きられぬ限り、いまのところ貨幣経済の外に出るわけにはいかない。かといって、倹約を旨とすれば片付く問題でもない。一国にレンジを広げれば、「合成の誤謬」が発生する。シュリンクが一番の難敵だ。
幻想性に足元を搦め捕られずに、真っ当に歩き抜く方途はあるだろうか。アポリアは価値観の転換だ。人間自身の「進化」と「深化」を俟つほかない。ないが、心掛けからはじめるに及(シ)くはあるまい。吐哺捉髪、先達の言は重い。
養老孟司氏は感覚の復権を唱える。
〓〓私たちがものを考えるときには、二つの方法を使っています。「感覚的」に捉えるか、「概念的」に処理するか、その二つです。前者を「感覚的思考」、後者を「概念的思考」と呼びます。感覚的であるというのは、具体的であることだといってもいいでしょう。具体的ということは、別の言い方をすれば、「現場の視点」ともいえるでしょう。
問題は最近の人は概念的な思考ばかりが優先して感覚的な思考ができなくなってきていることです。感覚が鈍くなっているのです。平たく言えば、頭でっかちになって、目の前のことに鈍くなってしまっている人が増えているのです。
感覚的に捉えることが苦手な人が増えています。その原因としては社会が感覚を消していく方向に進んでいることが挙げられます。いちばん大きな犯人は情報化が進んだことで、特にテレビの責任は大だと思っています。テレビに映っている「現実」は視点のひとつに過ぎない。それを忘れてしまう人がテレビを過剰に信用してしまうのです。〓〓(新潮社「養老訓」から抄録)
「きほんの『き』」で『掻』き残した部分、どうやら本稿でもそのままになりそうだ。酢豆腐には荷が重い。 □
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① 1989年11月9日、② 2001年9月11日、③ 2008年9月14日 ―― こう並べると、それぞれ何が起こった日かお判りになるだろう。
① は、ベルリンの壁崩壊。イデオロギーの時代が終焉した日だ。
② は、同時多発テロ事件。ファンダメンタリズムが暴発した。
③ は、リーマンショック。経済危機の発火点だ。
現代史、とりわけここ20年間のエポックメーキングな出来事である。20年は短いかもしれぬが、昨今は時代の速度が上がっている。ドッグイヤーで勘定しても、優に1世紀を跨ぐスパンになる。そこに劃然たる三つの歴史の沸点があったと見たい。
① ② については、かつて以下のように触れた。
☆1989年11月ベルリンの壁が崩れ、12月冷戦の終結が宣言された。頑なな政治イデオロギーの呪縛から世界が解放された。半世紀間、地球を締め付けてきたタガが一気に緩んだ。そして噴き出してきたものは血の呪縛という妖怪である。ナチスの先祖返りのような醜怪なレーシズム(人種差別主義)やエスノセントリズム(自民族中心主義)、さらにエスニック・クレンジング(民族浄化)の悪夢であった。☆(06年6月十九日付本ブログ「醜悪なる連鎖」より)
「イデオロギーの呪縛」の後に世界を襲ったものは「血の呪縛」であった。それがボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇であり、踵を接して原理主義のテロルが世界を震撼させた。
そして、③ である。市場経済と金融経済が蹉跌をきたし、「暴走する資本主義」がメルトダウンを始めた日だ。わたしはこれを「マモニズムの呪縛」が沸点を迎えた刹那と捉えたい。問題は、呪縛から解かれるか否かだ。
卑近に例を引く。1月30日のasahi.comから。
〓〓15億円集め主婦が失跡 「関西一の女相場師」触れ込み
「関西一の女相場師」との触れ込みで出資者から多額の資金を集め、自宅のパソコンで運用していた大阪府泉佐野市の主婦(54)が、25日夜から姿を消していることが関係者への取材でわかった。少なくとも約200人から計約15億円を集めたとみられ、出資者らはこの主婦を近く大阪府警に出資法違反(預かり金の禁止)容疑で告訴する方針だ。
出資者らによると、この主婦は十数年前から「元本保証」と宣伝し、知人を通じて出資を募っていた。数年前に投資事業組合を立ち上げて資金集めを本格化。出資者は大阪、京都、三重などの主婦や会社員らで、月に2~5%前後の配当を受け取る内容の契約書を交わしていたという。
主婦は集めた資金を、日経平均株価の変動を予想する「日経225オプション取引」で運用しており、昨年9月までは約束通りの配当があった。しかし、米大手証券会社のリーマン・ブラザーズが破綻(はたん)したことによる「リーマンショック」後の同10月ごろから滞るようになり、同12月ごろからは「3カ月で25%の配当を払う」などと配当率をアップして、出資者に増資を求めていたという。
ところが主婦は今月25日夜、夫や子どもら家族4人とともに自宅から突然失跡。出資者の一部は被害者の会を結成し、弁護士に相談した。弁護士は「元本保証と言って不特定多数から金を集めるのは出資法違反」と指摘。弁護士が確認できていない出資者も多数いるとみられ、被害総額は増える見通しだ。〓〓
リーマンショックが生んだ、とんだ悲喜劇である。そこで、「きほんの『き』」だ。拙稿で、物品貨幣について次のように述べた。長い繰り返しを赦されたい。
☆ ―― Aは漁で鮭を獲った。鮭がほしかったBは貝殻と鮭を交換した。Aはその貝殻でCの持っていた鶏と交換した。『鮭 → 貝殻 → 鶏』の連鎖である。この中に、三つの重要な論点がある。
一つ目は、鮭が鶏に変わる『マジック』が起こったこと。超魔術師・Mr.マリックなぞ足元にも及ばない超弩級のマジックである。この魔術は人類以外には断じて成し得ない。『二足歩行に匹敵する』人類史的進化である。この魔法は人間の生活に革命的変化をもたらした。
二つ目に、魔法のタネは貝殻という異質のモノであったことである。鮭と鶏は喰えるが、貝殻は喰えない。貝殻自体にはほとんど値打ちはない。鮭および鶏の値打ちを象徴し代替するモノとしてある。鮭から貝殻、貝殻から鶏。そこに『大きな飛躍』があり、幻想性が潜む。つまり、猫に小判。いかな愛猫であっても、幻想性を共有することは叶わぬ。『人類以外には断じて成し得ない』幻想の共有があった。『つまるところ、カネ(金)はイリュージョンではないか 』という筆者の問題意識はここに起因する。
三つ目に、『信用の環(ワ)』があったこと。実はこれこそが核心である。貝殻の幻想性を超えるものとして信頼関係があった。Bの持っていた貝殻をCを含む他人が物資の交換手段として受け入れてくれる、とAは信じた。これが前提である。この信頼が魔法を喚んだ。ところが、信頼は時として裏切られる。だから、信用の行為には『賭け』がつきまとう。たとえば、貝殻には祟りがあるという噂が流れたとする。だれも受け取らなくなった貝殻は、たちまちにして貨幣としての機能を失う。幻想性を帯したモノを信用することは賭けでもあるのだ。サブプライムは『信用の環』が崩れ、幻想性が露わになったモノだ。
物品貨幣としての貝殻は物資そのものではない。決して鮭でも鶏でもない。さらに貝殻ですらない。だから、実体を装う幻想である。幻想に寄りかかることは無から有を産むこと。つまりは『マジック』であり、同時に『賭け』である。幻想は時として誇大する。そこに危険が宿り、諸悪の根源となる。 (略)
貨幣が『幻想性を帯したモノ』である以上、それを『信用することは賭けでもある』。賭け、すなわち投機は不安定だからこそ成り立つ。一寸先が闇だからこそ機会を投げるのだ。貨幣は生来、「効率化」と「不安定」化の「二律背反的な存在」としてある。この「貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題」を克服する、貨幣に替わるなにものかは出現するのだろうか。世紀を跨ぐ課題であろう。電子マネーの試みはあるが、所詮は貨幣の代替物でしかない。イリュージョンが転位しただけだ。☆
貨幣のアプリオリな属性として幻想性(二つ目)を挙げた。これを下敷きに『マジック』(一つ目)は起こる。魔術を裏書きするのは『信用の環(ワ)』(三つ目)である。さらに、それらを陰画に転ずると『賭け』が浮き上がると語った。つまり、一つ目と二つ目は人類の経済活動に革命をもたらしたが、幻想性ゆえに人間の所有欲に火をつける結果になった。食欲は健常な場合、胃袋の容積を越えることはない。しかし本来物理的存在ではない貨幣への欲は満たされることがない。また何にでも『変』えられる『マジック』である以上、所有するにこれほど便利なものはない。打ち出の小槌だ。小槌で小槌を生もうとしたのが金融経済だ。幻想性ゆえのトリックであり、幻想性ゆえにトラップと化した。それがリーマンショックだ。
そのようにして手段と目的は逆転していく。手段が自己目的化する。避け難い陥穽であり、宿痾でもある。それゆえにマモニズムは跋扈する。大阪の事件はその一例であり典型でさえある。たしかに、風が『吹かねば、』桶屋が儲か『らぬ』のだ。風は、もちろん、幻想の風だ。
処方箋はあるか。霞を喰らっては生きられぬ限り、いまのところ貨幣経済の外に出るわけにはいかない。かといって、倹約を旨とすれば片付く問題でもない。一国にレンジを広げれば、「合成の誤謬」が発生する。シュリンクが一番の難敵だ。
幻想性に足元を搦め捕られずに、真っ当に歩き抜く方途はあるだろうか。アポリアは価値観の転換だ。人間自身の「進化」と「深化」を俟つほかない。ないが、心掛けからはじめるに及(シ)くはあるまい。吐哺捉髪、先達の言は重い。
養老孟司氏は感覚の復権を唱える。
〓〓私たちがものを考えるときには、二つの方法を使っています。「感覚的」に捉えるか、「概念的」に処理するか、その二つです。前者を「感覚的思考」、後者を「概念的思考」と呼びます。感覚的であるというのは、具体的であることだといってもいいでしょう。具体的ということは、別の言い方をすれば、「現場の視点」ともいえるでしょう。
問題は最近の人は概念的な思考ばかりが優先して感覚的な思考ができなくなってきていることです。感覚が鈍くなっているのです。平たく言えば、頭でっかちになって、目の前のことに鈍くなってしまっている人が増えているのです。
感覚的に捉えることが苦手な人が増えています。その原因としては社会が感覚を消していく方向に進んでいることが挙げられます。いちばん大きな犯人は情報化が進んだことで、特にテレビの責任は大だと思っています。テレビに映っている「現実」は視点のひとつに過ぎない。それを忘れてしまう人がテレビを過剰に信用してしまうのです。〓〓(新潮社「養老訓」から抄録)
「きほんの『き』」で『掻』き残した部分、どうやら本稿でもそのままになりそうだ。酢豆腐には荷が重い。 □
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