伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

私的読書法

2017年06月12日 | エッセー

 うどん屋の釜と一笑に付されるのは覚悟の上で、似ぬ京物語をしたい。
 かつて養老孟司氏が
「本屋さんとは、精神科の待合室みたいなものだ。大勢の人(著者たち)が訴えを抱えて並んでいる」(新潮社『養老訓』)
 と語っていた。となると、
「私はあくまでも読書は自分で考える材料にすぎないと考えています。つまり本は結論を書いているものではなく、自分で結論に辿り着くための道具です」(同上)
 ということになる。強い矜恃だ。竹葉に準えるなら、「読んでも読まれるな」であろうか。
 西欧、別けてもフランスともなると、独立自尊はいよいよ高々としてくる。08年に話題を呼んだピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房)にいたっては凄まじい卓袱台返しだった。さすがはフランス論壇の雄とされる人だ。読書至上主義に創造の斧を手に縦横に斬り込んでいる。読書とは、完読とは、どういうことか。読むと読まないは表裏一体ではないのか。さらには「読んでいることがかえって障害となることもある」という。読書コンプレックスを打ち破り、読者の主体性を徹頭徹尾押し出していく。決してトンデモ本でも、ハウツーものでもない。きわめて深い文化論であり、啓発の書である。
 特に同書の次のパラグラフには釘付けになった。
 〈教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである。〉
 つまりは、マッピングに読書の本質があるとする。しかしそれには多くの書物に触れなくてはならない。通読は不要にしても多読は必要だ。
 そこで、稿者なりに括るとこうなる。
──読書は人づきあいと同じだ。袖振り合う全員と語り合うのは物理的に不可能だが、多種で多様な人物を知り、広い人脈をつくっておくことは一生の財産になる。とはいっても、信条も好き嫌いもある。好みだけを選ぶか、隔てなく付き合うか、それは自分次第だ。途中で嫌いになることもあろうし、存外に好もしくなる場合だってある。良縁、悪縁、それは運次第だ(それに人徳も)。
 たくさんの知り合いがいると人脈図が作れる。それぞれの、または自らの位置づけができる。これが世渡りに欠かせない。
 実際の選択には、帯が大事だ。とりわけ推奨する人物が誰か。「友だちの友だちはみな友だち」である。稿者なぞのチョイスはほとんどそれに依る。
 人生も長くやってくると、対面して数分話を聞けば対する人物の品定めはほぼできる。じっくり語り合うべきか、話半分にしておくか、相槌だけ打っておくか、名刺だけもらってお引き取り願うか、あるいは席を立つか。本も同じ。目次から読み始めて数ページで、拾い読みでいいか、流し読みにするか、ページだけ捲って済ませるか、床に叩き付けるか、破り捨てるか、焼却するか、あるいは精読、熟読すべきか、その見極めは付く。──
 そんな按配である。ここにきてふと、かつて拙稿(11年1月「線香花火」)で引いた小林秀雄のエピソードが甦る。今日出海の『わが友の生涯』から。
 〈ある夜、文壇の会合で小林君がスピーチをした。その中で流行作家、吉屋信子の小説を厳しく批評した。
「私はちよつと読んだだけだが、あれはダメです」
  その席の後の方に、まずいことに吉屋さんがいた。
「小林さん、何ですか、ずいぶん失礼じやないの。読みもしないで人の作品をよくもけなしたわね。よく読んでから批評しなさいよ」
  普通の男だつたら、あの吉屋さんにかみつかれたら、おしまいである。しかし小林君は負けなかった。
「吉屋さん、いいですか、患者の身体を全部診ないとわからないのはヤブ医者。名医は顔色みて、脈を見ればわかるんです。私はね、あなたの小説を二頁読んでるんですよ。そりや、わかりますよ」〉
 これは決して強がりでも、ましてや増長でもない。バイヤール氏は上掲書でこう語る。
 〈流し読みしかしていなくても、本について語ることはできる。しかも流し読みは、本をわがものとするもっとも効果的な方法かもしれないのだ。それは、ディテールに迷い込むことなしに、本がもっている内奥の本質と、知性を豊かにする可能性を尊重することだからである。〉
 流し読みどころか、小林はたったの「二頁」。待合室から招き入れた患者に、名医は2度聴診器を当てただけでたちどころに患部を見抜く。これぞ奥義だ。 □