伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

断簡 【『影武者』評】

2018年02月26日 | エッセー

 『影武者』での勝の降板について、黒澤は勝の顔がほしかったのに勝はキャラクターを買われたと勘違いした。「自分ひとりでは創れない自分を創ってもらう、つまり名を捨てて実を穫る度胸に欠けていた」と、塩野七生氏は『黒澤監督へのファンレター』で評した。「度胸」とは、なんとも手厳しい▼「『お蘭、床几を持て』と言われない前に蘭丸は走り出ていて、『持て』と言った時は、もう床几は、信長のすぐ背後に置かれいる」このワンカットだけで「蘭丸の信長にいだいていた敬愛の気持を、見事に表現したことになる」。さらに「命ぜられて持ってくるようでは、召使か奴隷と同じである。蘭丸が主人にいだいていた感情は召使や奴隷のそれとはちがうということを、この場面を見ただけで西洋人さえ理解できるように、しかも品を落とさずに示している」と、凡眼では見落としてしまう鮮やかな視点を示す。もう脱帽だ。こちらは『信長の悪魔的魅力』と題する随筆である▼続いて、出陣の場面。宣教師たちが十字を切って祝福し、それを南蛮渡来のビロードのマントを着、羽根つきの赤い帽子を従者に持たせた信長が大きく手を上げ「アメン!」と応じる。この挙手は古代ローマの武将の敬礼と同じだと塩野氏はいう。キリスト教からは異教の敬礼である。どういうことか。「欧米人にはわかってしまう。信長が、マントや帽子ぐらいで宣教師にたぶらかされるような器ではなかったということを」なのだそうだ。監督に古代ローマについての知見はなかったかもしれないが、「あの手のあげ方だけで、そして『アメン!』という言い方だけで、信長が描かれていると私などは思うのだ」と感服する▼名前は失念したが、ある作品の長いシーンに付ける曲が決まらず苦慮していた。と、監督にある曲がふと浮かぶ。試してみると、寸分違わぬ尺であった。後、監督は自らの仕事に業を感じたと語った。信長の敬礼も、同じく監督の業が生んだものであろうか。天職の極みに業は生まれ、業は天啓を招来する。凡庸には業は遂に無縁だ▼旧い話のようだが、名作は常に新しい。伯楽もまたいつになっても刺激的だ。□