伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

一瞬の主権在民

2010年08月02日 | エッセー

 先月15日付本ブログ「参院選 総括」に寄せていただいたfulltime氏のコメントの末尾に、こうあった。
「センキョという一瞬の主権在民は終わった。」
 実に穿った警句として、印象に残った。先日、この句をオーソライズする一文に偶会した。孫引きする。
「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる」
 J―J・ルソーの大著「社会契約論」の一節である。fulltime氏の観察眼に脱帽する。
 孫引きであるからには、子がいる。 ―― 「理念なき政党政治」の理念型 ―― 「世界」8月号に掲載された空井護氏の小論である。氏は北海道大学公共政策大学院教授で、現代政治分析を専門とする。
 市井にはない深み、筆者のようなディレッタントの意表をつく視座が気鋭の学者にはある。吐哺捉髪である。メシなど喰ってる暇はない。急ぎ身繕いをして先生の元へ、だ。
 かねてより二大政党制へのオブジェクション、選挙制度の不具合について幾度となく言い募ってきた。しかし、空井論はまず現在の政治状況を以下のように捉える。(抄録)

〓〓民主党と自民党の二つの主要政党が、いずれも「理念」「イデオロギー」を失い、与野党間で明確な理念的政策対立軸が形成されなくなっている。世界的に見れば、「理念なき政党政治」は昨日今日始まった話ではない。主要政党の脱イデオロギー化は、小選挙区制へと転換したことで、人為的に大きく促された。大政党を目指すのであれば、固い「理念」は大いに邪魔となる。「理念」に固執する政党は、連合参加能力を失う。
 われわれは「理念を備えた政党政治」という容易に叶えられない期待を抱き、当然のようにそれが裏切られるなかで幻滅を募らせるのではなく、むしろ「理念なき政党政治」を前提としながら、そのもとで市民としていかに政治を理解し、いかに政治的に振る舞うべきなのかを、いま一度よく考えてみるべきだ。〓〓
 冷戦の終結は脱イデオロギー化を世界にもたらした。イデオロギーという巨大な対立軸が消えた。日本でも55年体制は崩れ、対立軸なき時代に入った。「理念なき政党政治」は不可避となる。「『理念』に固執する政党は、連合参加能力を失う」とは、まさに普天間問題で連立を離脱した社民党である。理念が消えると、選挙そのものが変貌してくる。  

〓〓選挙は将来の政治的決定者の事前選択から、現在までの政治的決定者の事後評価へと、その基本的な性格を変えることになるものと考えられる。
 市民は、それまでの実績などを勘案しつつ、各党の政権公約を割り引かなければならない。割引率の上昇をくい止めるのが、イデオロギー政党である。
 政党が脱イデオロギー化すればどうなるか。政党が理念や大目標から政治的決定案を演繹的に導出しなくなると、将来約束の安定性は低下し、公約の見直しも珍しい事態ではなくなる。これでは市民は、選択に際して割引率を高めに設定せざるを得ない。また、複数の政治的決定案を統一的に理解できなくなり、政権公約をパッケージとして評価できなくなるから、市民が投じる一票は往々にして分裂的性格を帯びることになる。〓〓
 複雑系の社会にあって、理念がなくなれば『なんでもアリーノ』になるのは必然である。政策に嵌める箍(タガ)が外れるのだから、「政治的決定案を演繹的に導出しなくなる」のは必然で、大向こう受けする総花的政策が陳列されることになる。果ては、「公約の見直しも珍しい事態ではなくなる」のだ。マニフェスト『違反』が頻発する道理である。だから、「市民は、選択に際して割引率を高めに設定せざるを得ない」のだが、はたしてそのレベルにあるか。今は『違反』に目が向くばかりではないだろうか。選挙の賑やかしになりつつあるマニフェストが、政党にとっては他党と自党への諸刃の剣となりつつあるのだ。
 呉服屋でドレスを仕立てる訳にはいかない。イタリアンレストランで蕎麦は食えない。スーパーではなんでも揃う。しかし専門店の品質は期待できない。クオリティーは割引かねばならない。 …… そんな次第か。ただし選挙がショッピングと違うのは、一回切りの一店だけということだ。かつ返品も効かない。
 「政治的決定者」の「事前選択」から「事後評価」へシフトする選挙 ―― ここが、この論考の眼目である。
 事後的な評価である以上は、事前的であるマニフェストは限りなく希薄化する。早い話が、政策の丸投げである。それが実態的推移だ。宜なる哉である。選挙のたびに耳にする「だれがなっても同じでしょ」は、一面の真実といえなくもない。

 では、どうするのか。空井氏は、
〓〓政治的決定局面が不確定性と可塑性を備えるのであれば、市民に要請されるのは、なによりも政治的決定局面における政治的自己活性化であろう(要は「指示出し」や「ダメ出し」を積極的に行うことである)。市民には、大きな負担が要求される。政治的決定者を判定者としながら、それに対し市民が次々と政治的要求を突きつけるような政治である。
 市民は、選挙で事後評価を下すからこそ、政治的決定局面を真剣に見つめるのであり、選挙のときだけでなく、常にアテンティヴでなければならない。脱イデオロギー化した政党は、安定的な支持基盤を持たないから、そういう声に何らかの形で対応せざるを得ない。むしろ、市民間での対立する意見を前に、バランスのとれた決定を見出す能力こそが、政治的決定者に求められることとなる。〓〓
 と述べる。「市民が次々と政治的要求を突きつけるような政治」が要請され、「選挙で事後評価を下すからこそ、政治的決定局面を真剣に見つめるのであり、選挙のときだけでなく、常にアテンティヴでなければならない」とは、つまり、心して監視せねばならぬ、という結語ともなろう。
 
 だからつづけて、
〓〓「理念なき政党政治」のもとでは、基本的に選挙は未来を選択するものたり得ない。よって、市民は選挙の終了とともに、その政治的役割を終えてはならない。選挙が終わったまさにその瞬間、新たな政治的決定者とともに政治的決定局面に臨む心構えをしっかり整えなければならないのである。市民にとっての死活問題は、政治的決定それは、政治的共同体の全構成員を、有無を言わさず拘束する内容だからである。〓〓
 と締め括る。触れられてはいないが、「脱イデオロギー化した政党は、安定的な支持基盤を持たない」とは無党派層の存在を連想させる。脱イデオロギー化はひとり政党だけではない。市民もそうだ。むしろ流れは逆で、市民の脱イデオロギー化が政党のそれを呼び込んだともいえる。
 空井論を四捨五入どころか八捨二入すると、

 【対立軸の消失 → 脱イデオロギー化 → 選挙が事前選択から事後承認へ → 市民の監視が必要】

 となろうか。
 「政治的決定それは、政治的共同体の全構成員を、有無を言わさず拘束する」。然りだ。かつ「政治的決定局面が不確定性と可塑性を備える」以上、「政治的自己活性化」を市民に求める。 ―― 解る。たしかにそうだ。しかし、それだけか。現代の啓蒙思想で終始するのか。システムはこのままでいいのか。空井論はとば口でしかないのか。隔靴掻痒は免れない。

 ともあれ、「一瞬の主権在民」は「終わり」にせねばなるまい。「奴隷となり、何ものでもなくなる」前に。 □