伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

犬の遠吠え

2006年11月11日 | エッセー
 「青年の主張」はとっくに過ぎた。「国民の主張」では恐れ多い。やはり、「団塊の主張」か。それも大仰だ。ひとまず、「欠片の主張」としておこう。何度か、切り分けて小出しにしていく。 ※「NHK青年の主張」は、1990年から「NHK青春メッセージ」とタイトルが変わっている。

<欠片の主張 その1> ―― 『とか』弁・『方』言は日本人をダメにする
 ことばは生き物である。つねに変化している。学者の研究によれば、日本語の伝播速度は年速1キロだそうだ。(井上史雄著 講談社現代新書「日本語は年速1キロで動く」に詳しい)ことしは「坊ちゃん」初出から100年になる。当時はハイカラ(この言葉だって死語に近い)だった文章も、今では相当に古めかしい。中高生は読むに難儀をするだろう。そのように、ことばは時空両軸にわたって変わりつづけている。変わることが常態なのだ。
 今どき髷を結って街中(マチナカ)を歩けば、石を投げられないまでも誰も寄りつかないことは必定だ。同じ伝で、まさか「拙者は」、「何々で候」などとは言えまい。ことばの移ろいの河に身を任せて泳ぐしかない。しかないが、丸ごと認めるわけにもいかない。かといって、すべてに背を向けたのでは定心を失う。いまのところ、どこか無人島に疎開する余裕はない。ならば、折り合いをつけて生きていくしかない。
 太古の昔から、青年は大人の批判を受けてきた。人の世の変わらぬ定めだ。エジプトの遺跡には「今時の若い者は……」というフレーズがあちこちに刻印されている。だから、変化が最初に起こる青年層に目くじら立てるつもりはない。わたしひとりが吠えたところで犬の遠吠えにもならぬ。「ラ・マンチャの男」を襲う外連(ケレン)などない。ただの『犬の近吠え』と心得おき願いたい。

 3月27日付の拙稿「ヘンなことば」で以下のごとく、わたしは嘆いた。 
―― 『とか弁』…「手紙とか書きます」「コーヒーとか飲もうよ」、とやたら「とか」を連発する。あれこれの選択肢を並べる分けでもないのに、他にも選択の余地を残すような言葉遣いで、言い切ることを迂回する。
 『方』言…「方言」ではなく、「○○の方(ホウ)」を多用する語法。これはおそらくファーストフード店の接客用語から始まったのだろう。「ご注文の方は何になさいますか」とくる。「ご会計の方は千円となります」などと使う。丁寧に接しているつもりなのだろう。しかし、余分な言葉をつけ加えることで、丁寧に「バカ」がついてしまう。あげくは、心のこもらない耳障りな決まり文句でしかなくなる。 ――
 曖昧語法の典型だ。いくつか挙げたうちの二つだ。まずはここから直したい。直してほしい。お願いだから、直してほしい。

 慣性(ナライセイ)と成る。「とか」を付けなければまともに会話ができないのではと、疑いたくなる。それに、耳障りこの上もない。おそらくは、若者同士の距離感覚から生まれたのだろう。お互いのテリトリーを侵さない『やさしさ』といえば言えなくもない。不即不離といえば格好いいが、終(シマ)いにはなにも語っていないことになる。
 「オレとか、メールとかする時とか、……」とくれば、お前ええかげんにせい、ではないか。書いてみると珍奇はすぐに知れるが、会話だとスルリと通ってしまう。ともかく許せないのは、年端も『十分行った』大人がこれを使うことだ。おもねっているのか、若もの振(ブ)っているのか。わたしなど時として殺意を催すことさえある。まあ、このような「大人」は脳足りんに決まっている。まったく年甲斐もなく、だ。このような手合いは『言語自殺者』に違いない。自分で自分の言語環境を貧弱にし、衰退させ、ついには破壊してしまう。なにかを語っているつもりがなにごとも伝えられず、呟きにもならず、唖法同然に堕してしまう。大人の自覚のある諸氏はすぐさま止めるべきだ。
 少なくとも、一・二人称に「とか」を付けることだけは止めよう。そうすれば、どれほど日本語がスッキリすることか。『わたし』は一人きりしかいない。対する『きみ』も君一人だ。これだけで世界は相当に澄明になる。千里の道も一歩から、だ。

 「消防署の方から来ました」と言って高額の消火器を売りつける手合いがいたそうな。被害者は消防署の関係者と勘違いしたらしい。冗談のような本当の話だ。『方』言はいまや、ほとんどの世代で使われる。このマニュアル言語、一体どこのどいつが作ったものか。三度の飯より好きな『ケンタ』であったとしても、赦すわけにはいかない。「方」を付ければ、なぜ暈(ボ)かしになるのか。考究に値するが、意欲がない。おそらくは、「えー」「えーと」「さて」などの感動詞、間投詞の類が起源であろう。これを多用されるのを避ける工夫だったのかも知れない。あるいは、若者に特有のアップトークを封じるためか。定かではないが、接客に未熟な若者に与えたマニュアルがことの起こりであろう。
 皆さん! これも止めましょう。特に、消火器の訪問販売を生業(ナリワイ)とされる方(=力夕と読む、意味が違います)は厳禁です。『方』言が抜けると、日本はどれほど見晴らしがよくなることか。大気汚染も深刻だが、ことばのスモッグも劣らず深刻だ。放っておくと視界は閉ざされてしまう。

 養老孟司氏は次のように言う。
  ―― 個性とは、じつは身体そのものなんです。でもふつうは、個性とは心だと思ってるでしょう。心に個性があったらどうなるか、まじめに考えてみたことがありますか。心とはなにかといえば、共通性そのものです。なぜなら私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、こうやって話して、あなたがそれを理解します。同じ日本語で話しても、それが理解できなかったら、どうなりますか。つまり通じないわけです。通じなかったら、話す意味がありません。 (「逆さメガネ」PHP新書) ――

 なぜ日本人がダメになるか? ―― 素っ頓狂な杞憂ともつかぬ愚案を巡らすのは、心を通じ合う便(ヨスガ)が危ういからだ。共通するはずの日本語が与太っているからだ。
 この期に及んで、お上は「英語教育」などと能天気なことを言い始めている。順序がアベコベだろう。英語なんぞ、アメリカにでも行ってみりゃあ三つのガキでも立派に喋る。ところが日本では、三十路のおとなが使う天下の日本語が与太っているのだ。
 もちろん、心根の具現がことばだ。正すべきは心根でもある。しかし、両両相俟ってことは成る。先ずは一歩を。一言を。と、切に願うものである。 
 以上、欠片の主張でありました。□