伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

スポーツおバカ

2016年01月18日 | エッセー

 「白面でテレビなんか見るな!」をはじめとして、タモリの名言は数多い。煙草の警告表示を捩った「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」もまた出色であり、かつ甚深である。なぜなら、“スポーツおバカ”への凄烈なアンチテーゼであるからだ。
 激しい競技のアスリートは様々な障害を抱え、果ては短命に終わるともいわれる。特に格闘技は現役年齢も低く、安美錦はまだ37歳ですでに関取最年長である。北の湖前理事長は62歳で故人となった。均等な全身運動が理想であろうが、ほとんどのスポーツが身体に局所的で偏向的な運用を強いる。プロ野球投手は臂を病むし、膝の故障はサッカーなどおおよそどの競技にも付き纏う。
 今月13日、朝日は社説で「スポーツ競技 女性の健康守る方策を」と題して女性スポーツ選手の健康に不安を投げかけた。産科婦人科学会と国立スポーツ科学センターによる調査の結果、「多くの女性選手が体の異常を抱えながら競技している実態が浮き彫りになった」という。過剰な体重制限などで不妊や骨粗鬆症の恐れが高まっていると心配する。
 なんにせよ健康で豊かな人生のための身体活動が、あろうことかその阻害要因になる。この顚倒、まさに「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」である。
 さて内田 樹氏はかねてより、スポーツを蝕む病根を「勝利至上主義」にあると指弾している。目先の勝ち負けに拘泥し、発育段階から心身を消耗し尽くす。一生掛けて使っていく身体ポテンシャルを「先食い」してしまうと警告する。宜なる哉だ。
 その先食いを強いるのが指導者の「待ったなし主義」であると糾弾する。ゴールとなる次の大会から逆算されたリミットが設定され、「速成プログラム」が合理化される。非科学的なトレーニングや不条理な仕打ち、体罰までもが期間限定で課される。だから“年季”が明けたとたんにおさらば。大学や社会に入っても続けるのはごく限られたアスリートだけになる。
 「勝利至上主義」のおバカな典型がオリンピック2020の金メダル目標ではないか。政府として明文化は避けたものの、担当相が「個人的には30個」と漏らすに及んでは開いた口が塞がらない。一国の要路にある者の発言が「待ったなし主義」をいや増して加速する。その愚に気が付かぬのであろうか。面貌が朴訥ならオツムも無骨にできているらしい。いったいIOC憲章のどこにオリンピックは国家間のメダル獲得競争であると書いてあるのか。憲章が謳うのは、アスリート同士の競い合いである。お上のおバカな打ち上げ花火に疑問を呈するスポーツジャーナリストN宮氏のような良識派もいれば、「絶対に目標は高くないとだめですよ。僕らも予想する時に少なく言う人いるでしょ? あれ失礼ですよ」と同調したアナリストもいた。T木だ。「僕らも予想する時」とはなにか。アナリストはいつから予想屋に成り下がったのか。大所高所からスポーツのありよう、行く末に物申すのが彼らの役目ではないのか。「失礼ですよ」とは、随分アスリートを見くびったのものだ。それは、勝つこと以外にスポーツの価値を認めない「勝利至上主義」の裏返しでしかない。
 国家的規模のエネルギーと金と長年月を費やして、オリンピックの意義がたった30人のゴールドメダリストを生むことだけであるなら、こんな費用対効果の劣悪な事業は他に例を見ない。銀、銅を入れてメダリスト以外の絶対多数の参加アスリートはなにものも得ずして会場を去るだけなのであろうか。そんなはずはない。かつて内田氏は高校野球に関して、「参加者のほとんど全員が敗者であるイベントが教育的でありうるとしたら、それは『適切に負ける』仕方を学ぶことが人間にとって死活的に重要だということを私たちが知っているからである」と語った。トリビアルなスポーツ知識を切り売りして飯の種にしているT木ごときに、このような深い話は理解が届くまい。KFCの店先でカーネル・サンダースのそっくりさんでもしていれば丁度いい。「失礼」というなら、君がスポーツに対して失礼なのだ。“スポーツおバカ”のこまったジジイだ。商業主義や政治との関わりもある。今やスポーツ万歳で済む時代ではないのだ。
 パラリンピックにも新手の問題が浮上している。義足についてだ。
 健常者を超える記録が出そうなのだ。ドイツのマルクス・レームは去年の障害者世界陸上選手権=ロングジャンプで8.40mを跳んで優勝した。米国マイク・パウエルの8.95mには及ばないものの、健常者日本記録8.25mはすでに超えている。ところが、今夏のリオ五輪への参加が危ぶまれている。障害者の記録が健常者に迫り超えようとすると、懸命な努力への今までの賞賛が『技術ドーピング』だとの批判に変わった。それに応じて昨年国際陸連が出場の条件として、義足が有利に働いていないことを選手自身が証明するように決めた。証明のためには3800万円が必要だという。今後、同じ問題は他の人工四肢や種目でも予想される。これは難題だ。誤解を怖れずにいうと、極まればサイボーグになってしまう。それではスポーツとはいえまい。
 「ドーピング」はアフリカの原住民が戦の前や祭礼で飲む強い酒の名を語源とする。酒の力であらぬ力を出そうとした。つまり、外部から人為的に力を借りることだ。背景には心身二元論がある。過去何度か引用した内田氏の論攷を引く。
◇アメリカは身体加工への抵抗がきわめて希薄な国です。それは言い換えると、身体というものが一種のヴィークルのようなものとして観念されているということです。筋肉増強剤やステロイドを打ってまで、オリンピックに出てメダルを取ろうとしたり、試合に勝とうとする。それは、彼らにとっての自分の身体が、彼らの意思や野望を実現するための「道具」として扱われているからです。◇(『街場のアメリカ論』から)
 心身二元論が勝利至上主義に背中を押された時、薬物ドーピングも技術ドーピングも鎌首をもたげる。勝利至上主義は物欲、名誉欲の海に浮かぶ氷山だ。不沈を誇った巨大な神・タイタニックでさえ一溜まりもなかった。海がなければ船は浮かぬ。浮かねば動けぬ。動けば遠近(オチコチ)の氷山が待ち構える。まことに難儀な航海ではあるが、進まねば新天地は開けぬ。人類の存在と同等に難題だ。
 スポーツを無思慮、無批判に受け入れる“スポーツおバカ”たち。タモリの箴言「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」に、さてなんと応える。 □