伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「これでいいのだ」

2017年06月06日 | エッセー

 「これでいいのだ」、読み進むうちしきりにこの名台詞が浮かんできた。天才バカボンのパパをトリックスターの祖型だという人もいる。いわゆる賑やかしである。正気と狂気の混在。世の成り立ちを圧倒的な支離滅裂が切り裂いていく。常識が卓袱台返しにされ、ウソっぽさが晒される。散々賑やかしておいて、決まり文句が「これでいいのだ」である。実に深い! かつ懐かしい。
 「勉強の哲学 来たるべきバカのために」 文藝春秋社 本年4月刊
 著者は新鋭の哲学者 千葉雅也氏である。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、現在立命館大学准教授。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させる哲学/表象文化論を専攻する。
 帯にはこうある。
──人生の根底に革命を起こす「深い」勉強、その原理と実践
   勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。
   だが人はおそらく、変身を恐れるから勉強を恐れている。
   東大・京大でいま1番読まれている本!
   勉強とは変身である
   ・勉強と言語──言語偏重の人になる
   ・アイロニー、ユーモア、ナンセンス
   ・決断ではなく中断
   ・勉強を有限化する技術
 勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」が、いったんできなくなります。「昔はバカやったよなー」というふうに、昔のノリが失われる。しかし、その先には「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。──
 「哲学」とはいうものの、らしくない言葉が頻出する。別けてもツッコミ(=アイロニー)とボケ(=ユーモア)がキーワードだ(お笑いのそれ)。勉強はツッコミに始まる。かのソクラテスもツッコミを駆使したというから驚きだ。何事につけツッコミを入れる(=アイロニカルに問う)ことから「深い」勉強が駆動する。だが、ツッコミが極まればナンセンスに至る。「根拠を疑う」(=ツッコミ・アイロニー)果てに、遂には自らの足場を掘り崩してしまうからだ。よろしきところでボケに切り替える。しかし、ボケも極まればナンセンスに至る。「見方を変えること」(=ボケ・ユーモア)は行き着くところ何でもありのナンセンスに陥るからだ。だから漫才は「もう、ええわ」や「いいかげんにしろ」で中断する(この漫才のカットオフは稿者の勝手な譬え)。中断であって「決断」ではない。氏は決断主義を固く戒めている。「決断ではなく中断」とあるのはそういう事情を指している。
 「勉強と言語──言語偏重の人になる」とは、フランス現代思想をベースに言語論を語る(あるいは、言語論をネタにフランス現代思想を語る)ツカミである。導入ではあっても、圧巻だ。
 前後するが、「勉強とは変身である」はかなりインパクトがある。同書ではこういう。
 〈【勉強とは、自己破壊である】 では、何のために勉強をするのか? 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか? それは、「自由になる」ためです。どういう自由か? これまでの「ノリ」から自由になるのです。〉
 「ノリ」もよく出る。環境や既知、それに囲まれてある自己の謂であろう。ノリからの自由、および新たなるノリへ。ここに勉強の目的がある。なにを大仰なという向きには、「学ぶ」をドラスティックに捉えた孔子の言「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」を想起願いたい。養老孟司氏は次のように訓(オシ)える。
 〈この言葉の背景には、自分ががらっと変わると、過去の自分は死んでしまうんだという認識があるんですね。たとえば僕はそれを学生に説明するときに、癌の告知を例に挙げて言うんだけど、「あなたは癌です。半年も持ちません」って言われたとき、やっぱり愕然とするでしょう。そのとたん、今そこに咲いている桜が違って見えるでしょう。「来年はもうこの桜は見られない」と……。で、桜が違って見えたときに、じゃあ自分は去年まで桜をどういう気持ちで見ていたかと考えても、自分が変わってしまっているから思い出せないんですよ、本当には。ということは、過去の自分はもうすでに死んでいるわけです。生まれ変わって新しい自分になってしまうというかね。学問をするということは、それを絶えず繰り返していくことなんです。〉(扶桑社「記憶がウソをつく!」から)
 まことに勉強とは「恐ろしげなこと」である。「自己破壊」はキツい物言いだが、「死すとも可なり」よりはソフトといえなくもない。
 「勉強を有限化する技術」は一転、実用的だ。「来たるべきバカ」に変身するため、「もう、ええわ」をスキル化する。加えて、「書く」技術も提示。これはかなりユースフルだ。
 「東大・京大でいま1番読まれている」とはいえ、学生ばかりが対象ではない。繰り返しになるが、勉強を哲学しつつフランス現代思想をも望見する仕掛けになっている。まさか「夕べ」ではなくとも、逢魔が時に接近しつつあるおじさん・おばさんにも「読まれて」不思議ではない好著である。
 併せて、千葉氏のこの著作には大いにエンカレッジされた。なぜなら前稿のツッコミをはじめ、先般の「奇想・珍説 目録」に挙げたすべての拙稿はことごとくツッコミとボケだらけだからだ。それゆえ、バカボンのパパよろしく「これでいいのだ」と大いに意を強くしたところである。ツッコミは十八番の「珍説」、「奇想」は宿痾ともいうべきボケか。いわば『伽草子』はわが勉強ノートともいえる。ただし、お立ち寄りの皆さまからは「もう、ええわ」の連打ではあるが。 □