伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

とんでもニュースを見て

2011年05月31日 | エッセー

 間の抜けたニュースもあるものだ。5月28日のこと、NHKが海江田経産大臣が女川原発を視察したと映像つきで報じた。すべての電源が失われたという想定の訓練にも立ち会ったと伝え、中央制御室での訓練の模様を映した。
 わたしはたまらず噴いてしまった。
 すべての電源が失われたのに、中央制御室がなぜ写る! 煌々と常設の照明が灯るなかで、所員が計器を読んだり指さし呼称や各種操作をする。そんなばかな!  福島第1原発では各号機の中央制御室の電源も落ち、暗闇の修羅場と化したはずだ。それが全電源喪失の意味ではないか。
 マンガみたいなニュースだった。海江田氏はいつものように緊張感のまるでない面相で、「訓練を見たが、比較的しっかりやっている印象を受けた」などとお気楽なコメントをしていた。
 武田邦彦氏が近著(「原発大崩壊!」ベスト新書)で、原子『炉』自体の安全にだけ目を向け、電源系や冷却系を等閑視してきた国や原発関係者の姿勢──原発を、周辺設備を捨象して原子炉に局限化した──を糾弾していたが、まさにその通りである。現に5月末、3.11の本震直後女川原発の配電盤がショートし、非常用発電機が破損していたことが判明している。
 こんなブラックジョークのような訓練や、冗談のようなニュースを見ると武田氏にまったく異論なしだ。それにしてもこの大臣は何を見たのだろう。訓練が本気で本物なら、それ自体が見えるはずがないではないか(暗視カメラでも用意せねばならない)。暗転の中でなければ訓練にはならない。停電の街中をヘッドライトを点けた車で走れたからといって、至極当たり前の話ではないか。ヘッドライトさえ消えた車でなければ、シミュレーションにもテストにもトレーニングにもならない。だから、件の視察と訓練は実に人を喰った話だ。いまだに原子炉のみに目を奪わる陥穽から脱していないと断じざるをえない。
 どうして、こんなことが罷り通るのだろう。
 
 先頃、内田 樹氏、中沢新一氏、平川克美氏が交わした鼎談「大津波と原発」(朝日新聞出版)が話題になっている。特に注目されるのが中沢氏の『一神教論』だ。
 生物の生きる生態圏の内部に、外部の太陽圏に属する核反応の過程を持ち込んだ原子力発電は、ほかのエネルギー利用の形態とは本質的に異なる。それは、本来そこには所属しない外部を、われわれの生態圏に持ち込むことであり、一神教と同じではないか。だから、「原子力技術は一神教的な技術」である。さらに、日本は元来ブリコラージュが得意でモノティズムの発想はないに等しい。モノティズムとの対応についてノウハウの蓄積がない。にもかかわらず、産業拡大の巨大な渦の中で原発を闇雲に開発してきた。それがついに福島原発の事故に至ったのである。
 という。おもしろい見方だ。唯一絶対、万物創造神への絶対的服従。外なる巨力への渇仰と、異端への排斥。一神教は外在性と排他性を属性とする。約(ツヅ)めていえば、一神教の圧倒的な力も怖さも知らず、とりあえずの間に合わせをするということだ。
 内田氏は神仏習合を例にとり、一神教である原子力エネルギーを一神教的方法で対処せず、多神教的なアマルガムのなかで制御しようとしてきた、と応ずる。「鬼神を敬して之を遠ざく」ではなく、鬼神と在来の神々でアマルガムを拵(コサ)えてしまう。つまりは、混ぜ物にして取り込んでしまうのである。
 ブリコラージュとアマルガム。逆相のようであるが、この伝統的手法が原子『炉』偏向の根にあるのではないか。ブリコラージュもアマルガムもモノティズムからは最も遠い。徹底した外在性の下(モト)で『ありあわせ』などあろうはずはなく、排他性が貫徹するところ『合金』などありうべくもないからだ。まことに両氏の炯眼には度肝を抜かれる。放射能許容値が目まぐるしく変化するご都合主義も、十八番(オハコ)のブリコラージュでありアマルガムのなせる技だ。

 中沢氏は、詰まるところ「文明の大転換」を呼びかける。たしかにフクシマが問いかけるものは深くて重い。とんでもニュースでも一見の価値はあるというものだ。□