伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「名もなき毒」

2012年01月10日 | エッセー

〓〓世界は毒に満ちている。かくも無力で、守るべき者を持った私たちの中にさえ。
 今多コンツェルンの広報室では、ひとりのアルバイトを雇った。編集経験があると自称して採用された原田いずみは、しかし、質の悪いトラブルメーカーだった。
 解雇された彼女の連絡窓口となった杉村三郎は、極端なまでの経歴詐称とクレーマーぶりに振り回される。
 折しも、街では連続して起こった、無差別と思しき毒殺事件が多くの注目を集めていた……。
 人間の心の陥穽を、圧倒的な筆致で描ききった、現代ミステリーの最高峰!〓〓
 というキャッチ・コピーと、第41回吉川英治文学賞受賞の折り紙につられて読んでみた。

  宮部みゆき著「名もなき毒」 06年 幻冬舎

 昨年12月に文庫化(文春文庫)された。(もちろん)読んだのはこちらの方だ。早速、朝日の本年最初のベスト10にランクインしている。
 3部作の2作目だが、初めの「誰か」は読んでいない。第3部は現在進行中らしい。おそらく単体としても充分な作品であろう。
 買ったのは昨年の大晦日。オウムの平田 信容疑者の出頭、逮捕がその日に報じられ、書名とのメタファーじみた偶会に驚いた。
 杉村三郎が原田(ゲンダ)いずみに振り回されたように、読者もいずみに振り回される。少なくとも私の場合はそうだった。「無差別連続毒殺事件」の謎解きは、いずみという変化球に翻弄される。それは作者の狙った物語の膨らみでもあったのだろうが。
 「圧倒的な筆致」はともあれ、軽快で闊達な筆致ではある。読者をして一気に読ませてしまう吸引力は見事というほかない。間断なくヤマがつづき、展開は意表を突く。
 「名もなき」とは何だろう。「毒」の正体は青酸カリだとすぐに知れるのだから、毒の謂ではない。きっと犯意と犯状を表徴する言葉ではないか。コピーが詠う「無力で、守るべき者を持った私たちの中にさえ」が、その真意にちがいなかろう。「名もなき」とは決してマイノリティーではなく、マジョリティーが原義だ。ならば犯意から視れば無差別つまりは未必の故意であろうし、犯状でいうなら「世界は毒に満ちている」ことになる。
 私立探偵が、いずみについて杉山に語る。

「たいていの人間は、自分の素性を偽ったりはしない」
 わたしの名刺に目を落として、彼は言った。
「我々はみんなそう思い込んでいます。そんなことをするのは詐欺師とその同類のみだ。普通の人間ならけっしてしない。でも現実には、普通の人間が普通の顔でそういうことをする場合があるんです」
「原田さんの場合は──少々きつい言い方になりますが、普通とは言えません」
「いいえ、普通です。もっとも普通の、正直な若い女性ですよ。正直すぎると言ってもいいくらいです」

 ここがこの作品の核心部分にちがいなかろう。誰もがもつ毒と、誰もが侵される毒。その両義を託したのが「名もなき」ではないか。では「毒」とは何か。宮部ワールドに歩み込むに如くはない。
 さて、『メタファーじみた偶会』についてだ。「松本サリン」が94年、「地下鉄サリン」が95年。この小説が世に出る11年、12年も前だ。しかし、本著では一言も語られてはいない(時代設定はまさに06年当時である)。法的にも渦中であるし、さまざまな視点からの分析もいまだ只中にあったはずだ。なのに、「サ」の字もないのはどうしたことか。もちろん「現代ミステリーの最高峰」でないとはいわない。だが『偶会』がすれ違いに終わってしまったような、ごく軽い虚脱感が残った。
 事実は小説よりも奇なりである。「サリン事件」こそ『名もなき毒』のシンボルである。ドキュメンタリーならまだしも、同類の小説を書いたところで事実の圧倒的膂力に適いはしない。踏み拉かれるに決まっている。
 「普通の人間が普通の顔でそういうことをする場合」がオウムであったのだから、先述の『両義』は十全に満たしている。ただ違いがあるとすれば、目的の有無ではないか。教団の掲げる世紀末思想の自演か、捜査への目眩まし、陽動作戦か。いずれにせよ、テロだ。明らかな犯意があり、確たる狙いがあった。しかし、この小説の犯人たち(2件を除き)にはそれがない。それさえもない。恐怖はオウムを超えたといえなくもない。『偶会』は早とちりで、『虚脱』はこちらの新旧の「毒」への理解不足が呼んだのではなかったか。
 「名もなき」ほどのマジョリティーへと拡散した「毒」。ミステリーが色褪せるほどに毒の回った現代。作者はその黒々とした病理の闇に分け入ろうとしたのではないか。
 大団円は見事である。歌が流れ、晴れやかに終わる。「丘を越えて」歩き続ける。──暗闇に一点の灯りをともすことを、決して忘れない。これがこの作家の真骨頂ではないか。 □