伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ガードレールの謎

2011年10月31日 | エッセー

 中学生だったころ、ひとつの大きな謎を抱えていた。なぜガードレールは路肩にあるのか。
 当時急速なモータリゼーションの最中(サナカ)で、新設や既設の道路にさかんにガードレールが拵えられていた。「交通戦争」と呼ばれた時代で、事故が多発し戦争のように死傷者が累増していた。まだ歩車道を別つブロックもなく、白線が引かれただけの道路が大部分だった。もちろん歩行者でしかなかったわたしは、ならばなぜ道路の端にそれを作るのか、むしろ歩道を区切る白線上に設置すべきではないか、と引っ掛かっていたのだ。
 長じて、謎は解けた。あれは歩行者ではなく、車を守るための設備なのだ。撓んで衝撃を吸収し、かつ車が道路から飛び出さないような構造になっている。さらに自ら車を運転するようになってからは、もしも歩道の白線上にあれば走りにくく返って危ないと得心するようにもなった。まことに身勝手なものだ。
 つまりは視点をどこに置くか、立ち位置をどこに取るかで見え方は変わる。変わるどころか、見えたり見えなかったりする。交通事故などはその具象的な典型であろう。思考とて同じだ。春秋の筆法が生まれる所以である。
 唐突だが、「生類憐みの令」は天下の悪法とされる。ために、後期は「犬公方」として綱吉の評価はすこぶる低い。しかし「生類」とは生きもの全般を指し、猛々しい武士の気性を和らげて泰平の代に馴致させようとしたとの再評価もある。
 さらに田中角栄というと、金権政治の権化とされる。「日本列島改造論」を打ち上げて土建国家へと走った。しかし経済復興を区切りに、対米追随から自立へパラダイム変換を図った側面は見落とされがちだ。対中国や対中東外交、原発推進の底意もそこにあった。
 例には事欠かぬが、ワン・フレーズの『春秋』では明解ではあっても多面性や重層性は失せる。発言者の立ち位置をしっかり掴んでいないと、交通事故よろしく見えた見えないの水掛け論に堕す。それに先入主でもあれば、論議はいよいよ不毛を極める。ついには夜郎国王の自大に鼻を抓んで御免被るしかあるまい。
 肝要なのは複眼の視座ではないか。自己本位の閉じた発想に豊饒はない。想像と創造は踵を接する。彼岸に視点を置く想像力は、此岸に時ならぬ創造の稔りをもたらす。世に言う逆転の発想はこの伝だ。
 山中伸弥教授は「じゃま中」と渾名されるほど手術が下手だった。臨床から研究へ進路を変えたのはそのためだった。iPS細胞は受精卵からの細胞分裂を逆進する発想が開発をもたらした(立花隆氏はこれを「タイムマシン」と呼んでいる)。

 蒸し返すが、やはりガードレールは合点が行かぬ。「車社会」という転倒のスタンスが車をガードするレールを生んだにちがいなかろう。車にも命は乗っているが、歩行者も命だ。どちらが交通弱者かは言うまでもない。歩車道の完全分離ができない以上、ガードすべきは弱者ではないか。技術を駆使した新時代のガードレールを俟つか、当今の自転車問題を含め道路のあり様をドラスティックに変えるか。スタンスの転倒を正さねばならぬ。
 「安全保障」とて同様だ。「国家の安全保障」と「人間の安全保障」はアンビヴァレンツである。象徴する話がある。司馬遼太郎の講演から一部を引く。
──私は戦車兵でした。敵が東京湾や相模湾に上陸したら、出ていく。これが私どもの戦車連隊の役目だったわけです。あるとき、参謀肩章をつけた大本営の偉い人がやってきて、いろいろ説明したことがあり、私はちょっと質問してみました。敵が上陸してきたら東京の人は逃げることになる。大八車に家財道具を積んで北のほうに逃げるとすれば大混雑するだろう。「途中の交通整理はどうするのですか」大本営の人は頭をひねって、「轢き殺していけ」これにはびっくりしました。日本人が日本人を守るために戦争をしていて、それで日本人を轢き殺していけと言う。不思議な理屈ですね。──
 墨子は戦争の不採算を説き非戦論を唱えたが、2400年を経てもいまだに褪せてはいない。膏血を絞って贖う兵器が、「人間の安全」を保障するだろうか。人類が歴史に学んでいない最大の教訓は、戦争の二文字だ。□