賞味期限の切れたギャグだが、「やっちまったな!」である。それも『ま~た』が付く。「ま~た、やっちまったな!」だ。
つい先日のこと。同じ本を二度買ってしまった。「原発社会からの離脱」(宮台真司×飯田哲也 講談社現代新書)である。まったく同じ本だ。昨年7月に読んでいた。前回の二度買いは09年8月、塩野七生著「ローマ学」。こちらは装丁がちがっていたから、今度の方が事態は深刻だともいえる。しかし、序文3行で判った。前回は5分の1まで読んでの発覚だったから、より軽微だともいえる。本屋で友達にせかされて、慌てて手にしたのがいけなかった。内容を確かめる時間がなかった。だからだ。これが最大の原因だ。そうにちがいない。第一、書名を一々覚えてはいない。昨年、原発関連はかなり読んだ。だから、紛らわしいのだ。本屋も同じだし、文句は言っても相当貢いでいるクライアントのはずだ。二度買いをチェックするぐらいのシステムは整えてほしいものだ。あ~~、腹も減っていた。思考力が落ちていた。それに……。ん~~、寒かった。寒い時は買い間違えると昔から言うではないか……、言わないか!?
言い訳も過ぎると泥沼に嵌まる。嵌まりついでに、理屈の通らないことに小理屈を嵌め込んでみたい(八つ当たりではない)。
「社会保障と税の一体改革」である。そもそも、これはおかしい。社会保障とは年金、医療、介護である。三つとも「保険」の二文字が付く。つまり公営であろうが民間保険であろうが、本質は保険である。「保障」の語句と語感に惑わされてはいけない。「保障」には保護を権利として当然視する意味合いがこもる。憲法25条を根拠とするゆえか。受動的だ。しかし積み立てて備えるのが保険である。賦課方式であろうとも、保険に変わりはない。強制加入でも、自己負担が保険の核心にある。意志的で能動的だ。保険は掛けるが、保障は掛けるとは言わない。保障はする、受けるだ。つまり憲法が掲げる社会保障の理念を達成するために、保険方式が採られている。社会保障とは保険である。これが大前提だ。ここを押さえないで枝葉の議論をしてもはじまらない。どころか、木を見て森を見ざるハメになる。目眩ましにかかって、大きな落とし穴に嵌まってしまう。
本来保険料で賄われるべき保険と、税とをなぜリンクさせるのか。これが大穴だ。保険料を財源とする社会保障と一般会計の財源である税収とを、なぜ同列に論じるのか。もちろん、これはそもそも論である。迷ったら原点。こんがらがったら、そもそもに戻るに如くはない。
100数兆に上る社会保障財源の約3割はすでに公費負担となっている。だから一体だ、との声もある。これが曲者だ。公費の投入は補填であって、別の財布だからこそ補いうめるのではないか。別々のものを「一体」に見せようとするトリックに翻弄されてはならない。親が成人している子に金を融通する。これではいけないと、財布を一緒にする親バカがいるだろうか。両方がそれぞれに自立できる方策を考えるのが真っ当ではないか。『社会保障と税の個別改革』である。
本来取り組むべきは税構造自体の改革だ。所得や資産の捕捉、再分配の適正化、徴税の向上などのはずだ。だから、「財政と税の一体改革」という問題の立て方なら解る。その文脈から消費増税が出てくるなら料簡しよう。ところが件の「一体改革」は違う。本筋の困難を避けて、手っ取り早く税収を上げたい財務官僚に洗脳され籠絡された首相(ちなみに、前・現首相ともに前職は財務大臣であった)が打ち上げた愚策ではないか。いや奇策、詭計ではないか。社会保障を錦の御旗に増税を狙う悪巧みではないか。ましてや消費税を社会保障目的税にするなどとは、空いた口が塞がらない。そんな国はどこにもない。消費税は税収の安定性ゆえに、特定財源ではなく一般財源にこそすべきではないか。子供だましにもほどがある。
といえば荒っぽい理屈に聞こえようが、彫刻だっていきなり小刀はなかろう。まずは大鉈からだ。細々(コマゴマ)とした論議は、その後だ。それが順序というものだろう。
ちなみに、前首相はTPPは「第三の開国」だと宣うた。今まで何度か取り上げたように、実は「第二の鎖国」である。家光以来、再び国を閉ざす蛮行である。元首相の「最低でも県外」もそうだが、尻軽のお調子者がM党の悲しいDNAか。今やすっかり、現首相は『増税ファンダメンタリズム』の信奉者である。「ネバー、ネバー、ギブアップ」だそうだが、向かう相手をまちがえてはいないか。
政府が打ち上げ、マスコミが囃す。皆の衆(シ)もなんとなくそんな気になり、終(ツイ)にはすっかりその気になる。裏でほくそ笑んでいるのは霞ヶ関の連中だ。桑原、桑原。「ま~た、やっちまったな!」はごめんだ。
もう一つある。年末のどさくさに紛れて、政府は武器輸出三原則の緩和を決定した。これは聞き捨ても、見過ごしもできない。こんな姑息な火事場泥棒は、断じて捨て置けない。国是ともいうべき原則の卑劣ななし崩しを見逃していい道理はない。さすれば、『本の二度買い』は貴重な教訓である。原則は何度でも確かめねばならぬ。健忘は世の常だ。あったことさえ忘れてしまえば、「ま~た、やっちまったな!」では済まなくなる。 □