伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

茶番国葬

2022年09月27日 | エッセー

 語源辞典には
〈「茶番」は「茶番狂言」の下略で、江戸末期に歌舞伎から流行した、下手な役者が手近な物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。 本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などを使いオチにしたことから、この寸劇は「茶番狂言」と呼ばれるようになった。〉
とある。
  政府が使う国葬『儀』とは国葬の擬い物との謂である。したがって、茶番と断ずる。
 「下手な役者」……あの暗殺がなければ日の目を見なかったであろう岸田クンだ。
  「手近な物を用いて」……自民党右派への秋波に手近に見えたに違いない。この辺り、いかにも軽い、軽い。
 「滑稽な寸劇や話芸を演じるもの」……菅が追悼の辞でお追従。文字通りの「滑稽な寸劇」だ。その器にあらざる者が格好付けると滑稽でしかない。陳腐な答弁は大根役者の芸成らざる話芸ともいえる。
 「楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者」とは前記の「下手な役者」の言い換え。自民党右派へのサービスがとんでもない裏目に出て、支持率急落の憂き目。大部屋の役者がやりそうなことだ。
 「余興で茶菓子などを使いオチにした」……大層な国家行事に三権の議決がない。そんなのはまるでアトラクション、余興ではないか。茶菓子は差し詰め献花の菊か。大変な品薄、高騰と聞く。
 「オチ」は支持率の落ちとなり、政治の堕ちが極まって奈落の底か。
 思想家 内田 樹氏がこないだRADIO SAKAMOTOでしみじみ語っていた。
「若いころは体制を外側から変えなきゃダメだといきがっていたが、長く生きてきて気がついた。中身が変わらないと同じこと。みんながちゃんとしなければ変わらないと」
 民度が上がらないと民主主義はいとも簡単に骨抜きにされてしまう。今日、九段坂公園に積み重なる献花の山は「みんながちゃん」としていないメルクマールではなかろうか。「あんな男」(内田氏)には「あんな贔屓筋」しか付かない。
 かくて『日本のいちばん愚かな日』が始まる。(9月27日午後12時) □