伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

嘘八百(ようやっと800回)

2014年12月16日 | エッセー

 本ブログは今稿で800回となる。06年3月に始めてより、8年と9ヶ月。遂に“大台”に乗った。とはいってもほとんどのブロガーにとってはさしたる数字ではなかろうが、稿者にとっては遙かなる稜線であった。喘ぎ喘ぎつつ、なんとか辿り着いた。
 なによりも先ず、決してリーダブルとはいえない、どころか佶屈聱牙この上ない駄文にお付き合いくださった方々に満腔の謝意を表したい。お一人ずつにせめてご祝儀の1万円なりともお配りしたいところだが、預金はすべて他人名義のため手元には糊口を凌ぐだけの金子しかない。したがって、やがて1万回に達した暁にはきっと約束を果たすことをここに固くお誓いして、今回は謝辞のみに止めたい。
 一句、湧いた。

    八年で嘘八百の八百回

 お粗末。そこで、解読。
 “八”には「多くの」という字義がある。末広がりの字形だからであろう。欧風の“8”も横にすれば「∞」となる。不思議にも類義といえる。「八百八町」は江戸の町、「八百八橋」は大阪の河、「八百八寺」は京都のお寺。すべて、やたら多い様をいう。さらに、「八百屋」とは“八百万”の商いから来たともいう。青物屋だけではなく、多趣味でかつ雑駁な御仁をも指す。してみると、当ブログなぞはその典型であろう。
 さて「嘘」はどうか。字義は説明を要すまい。だれしも胸に手を当てれば骨身に沁みるあれだ。「嘘字」「嘘吐き」「嘘っ八」。「嘘泣き」「嘘寝」に「嘘の皮」。「嘘も方便」は定番で、「嘘も重宝」「嘘も誠も話の手管」。まだまだ。「嘘は世の宝」てのもあれば、「嘘つき世渡り上手」に「嘘も追従も世渡り」ときて、「嘘をつかねば仏になれぬ」は極め付けか。
 英語は“lie”“fib”と“false”“untrue”では軽重がよほど違う。だが、本邦ではすべて“嘘”で済ます。彼の国は厳格といえるし、当国では柔軟ともいえる。本ブログもぜひその伝来の融通の衣に包んで、「嘘も重宝」とまではいかずとも「浮き世の暇つぶし」ぐらいにはお目こぼしをいただきたい。
 ところで、「嘘は世の宝」とは紛れもない金言だ。訳は浅田次郎御大の以下の言葉に瞭らかである。
◇良い小説は読者に思惟をもたらし、勇気や希望を与え、生きる糧となる。神はそのために、物語という嘘をつく特権を、小説家にのみ与えたのではあるまいか。
 学者は真実を追究しなければならない。しかし小説家は嘘をつくことが仕事である。つまりあらぬ推理をこうして文字にするのは小説家の特権で、しみじみまじめに勉強してこなくてよかった、と思う。◇(前段:「勇気凛凛ルリの色」、後段:「つばさよ つばさ」から)
 「生きる糧」を供すればこその「嘘をつく特権」。吐(ツ)いても吐いても、舌を抜かれる心配のないとびきりの冥加。なんとも羨ましい。
 氏は同窓会で小学校の担任先生から
「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」
 と、すげぇー進路指導を戴いたという。これもとびきりの果報というべきであろう。しかし「小説家にでもなれ」なければ、ただの「嘘つき」ではないか。わが身に引き当てて、悔し涙に暮れざるをえない。
 ああ、やっぱり次は“嘘八百一”。増えるは下(シモ)の数字のみ。末広がりの「八」もやがては苦しみの「九」となる、などと狼オジさんの悲哀に咽びつつ歩みを繰り出すしかなさそうである。皆さま、向後も変わらぬ御愛顧を。 欠片拝 □