伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

やっぱり、映画館!

2012年01月30日 | エッセー

 
 この片田舎から映画館が消えて10年は優に経つ。先日、文化庁の事業で名画鑑賞会があった。会場は市民ホール、映画館と変わりはない。スタンダードもシネマスコープも昔ながらの大型スクリーンに映し出される。開演のベルが鳴り、ゆっくりと暗転。ノイズを微かに含んだ懐かしい大音響。久方ぶりに映画館の迫力を堪能した。
 DVDではこうはいかない。いかに大型画面のホームシアターでも映画館には適わない。なぜだろう。ふと、考えた。
 解は、異空間にあるのではないか。生活の場を離れて足を運び、別種の空間に歩み込む。しかも時間の流れを遮るように、そこは暗闇だ。時空ともに、日常を離れる。ホームシアターの技術的意匠を凌駕する秘密はそこにあるにちがいない。上映が跳ねて映画館を出る。外界(ゲカイ)に戻った時に感ずるあの落差には体感が濃密に混じる。陽光の眩しさ、外気の冷たさ、街の匂い、雑踏の音。日常のそれらが五感に否応なく押し寄せる。時差が強制的に修正される。体感による以外にはない落差だ。異空間ゆえではないか。

 掛かったのは、黒澤映画だった。1本目は「酔いどれ天使」。名作だから中身の紹介は無用だ。プログラムには、「闇市のヤクザと飲んだくれの貧乏医者との、不思議な友情と葛藤を描いた」とある。2人の確執を通じて描かれたヒューマニズム溢れる力作、とも語られてきた。確かにそうだが5回目くらいにして、はたと気づいたことがある。まことに後知恵この上もないが、別の観方ができるのではないかと。
 昭和23年の作品である。新憲法施行の明くる年だ。真新しい価値観が耀うた時代だ。主人公の医者が、匿っているヤクザの情婦を諭す場面で「男女同権なんだから」と言う。また肺病患者との遣り取りで、「病気を治すのは理性だ」とも語る。再三出てくる。「理性」とは、戦後の闇市というシチュエーションでは異彩を放つ台詞だ。ある意味、ミスマッチでもある。ラストシーンでは、女学生が医者の言い付け通り「理性」で肺病が寛解したと告げる。医者は彼女の躊躇に構わず、腕を組んで闇市を闊歩する。これらは戦後の「真新しい価値観」の象徴ではないか。別けても「理性」はその筆頭である。とすれば他方、ヤクザとは旧い社会と時代の究極的存在である。縄張りや殴り込みは旧い価値観の表徴ともいえる。つまりは新旧の価値観の鬩ぎ合いである。そう観れば、名画に別の顔が披見できなくもない。
 唸るのは、今のこの時期にこの作品が選択されたことだ。「真新しい価値観」がすっかり色褪せ、皆が頭を抱え込んいるこの時期に。なんとなく選んだのかも知れぬが、それにしても時に嵌まったいい選択だ。時代の深い闇に、「真新しい価値観」はふたたび耀うのか。
 医者はヤクザ者の頑迷に憤り落胆する。だが女学生には笑みをこぼす。「理性」が病を超えたからだ。未来の世代に希望を託したエンディング、とこじつけられなくもない。

 2本目は「天国と地獄」だった。今更ながらと嗤われそうだが、新たな発見があった。こちらも後知恵だ。なにせ10回ちかく観ているのだから。
 先ずはカメラワークだ。特に事件発生後の豪邸の室内。シネマスコープを活かしきった構図。しかもカメラは動かず、登場人物が右に左に動く。まるで舞台演劇のようだ。かつ微妙に画面が揺らぐ。臨場感と不安を煽る効果を狙ったのだろうか。ならば、心憎い。
 もう1つ。記者会見の場面で、「せろん」という発言が何度か出てくる。「よろん」は1度もない。これは注目すべき点ではないか。輿論(よろん)と世論(せろん)については、10年8月の本ブログ「ヨロンとセロン」で取り上げた。
 繰り返しになるが、「世論(せろん)」は明治に登場した新語である。明治・大正期に活躍した政治家たちは、輿論と世論の使い分けを意識的に行っていた。「世論」は世間の雰囲気(popular sentiments)であり、輿論は議論を経た公的な意見(public opinion)をいう。ところが、戦後の漢字制限で「輿論」が使えなくなり「世論」に統一されてしまった。漢字は使わないものの読みは残った。それも「世論」を「よろん」と読む歪な形で。それが輿論と世論の混同を生む主因となった。しかし、記者たちと刑事は「せろん」と言っている。「せろんが味方する」という風に。となれば、明らかに“popular sentiments”の謂だ。漢字は「世論」ひとつになったものの、読みは区別していたのではないか。輿論との差別化をしていたと推量される。この映画は昭和38年の公開だ。戦後18年、まだ常識、良識が生きていた歴史の証左ではないか。
 下手な鉄砲を撃つとすれば、「世論」が「よろん」になったのは東京オリンピック以降ではないか。この作品の翌年に開催された国家的イベントがテレビを一挙に押し拡げた。具体的な論証は手に余るが、テレビの普及が主役を担った気がしてならない。

 両作品に共通、どころか全作品にいえるのは群衆の見事さだ。変な言い方だが、1人としてエキストラがいない。スクリーンの片隅にいる人物まで、すべてに存在感がある。巨匠で片付けては身も蓋も無いが、天才的な演出である。「酔いどれ天使」での闇市、「天国と地獄」での阿片窟は胸苦しいほどに圧倒的だ。ほかに、「まあだだよ」の宴会シーン。これは絶品だ。
 ともあれ持論だが、映画は映像こそが命だ。ストーリーならテレビでも代替できる。映像の巧みさ、迫力。それが映画の真骨頂だ。加うるに、異空間の妙。それらに改めて感じ入った映画会であった。故水野晴郎氏に倣えば、「いやー、映画『館』って本当にいいもんですね」となろうか。 □