伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

やったね、ばあば

2022年03月12日 | エッセー

 退職したのが4年前。ひと月と経たないうちに県から声が掛かり、保育アドバイザーとして嘱託職員に。東奔西走の忙しい日常に再び戻った。その間、連れ合い(つまり、稿者)が二度入退院。踏んだり蹴ったりだ。一昨年には当方が免許を返納したため(20年12月愚稿「免許自主返納」に記した)、アッシー役が付け加わることに。
 さらにお立ち会い。おととし末の免許更新をすっかり忘れ、気がついたのが去年の4月。慌てて“自ら”運転して警察署へ直行。飛んで火に入る夏の虫、署のカメラに写っている以上無免許運転とせざるを得ない。擦った揉んだの挙句、お上の思し召しで不起訴とはなったものの2年間の欠格処分。泣きっ面に蜂、いや熊ん蜂である。
 辞表は差し戻され、なお奮励せよとのお達し。しょぼいバス通勤が始まった。禍福は糾える縄の如しとはいうが、この縄は順番がまったく無視され禍ばりで糾われているようだ。
 証拠に、なんと昨年12月バス停に向かう途次足首を骨折(同月の拙稿「妻 骨折中」に録した)。畳み掛けるような禍の襲来である。
〈心理学におけるレジリエンスとは、社会的ディスアドバンテージや、己に不利な状況において、そういった状況に自身のライフタスクを対応させる個人の能力と定義される 。自己に不利な状況、あるいはストレスとは、家族、人間関係、健康問題、職場や金銭的な心配事、その他より起こり得る 。〉
 とWikiにある。
 レジリエンスの対極にあるのが白旗である。かつて浅田次郎氏は「ハッピー・リタイアメント」(幻冬舎)にこう綴った。 
〈ポケットからおもむろに取り出したパッケージの白さを、立花女史は見逃さなかった。意志薄弱の証明、「マイルドセブン・ワン」。タール一ミリ、ニコチン0・一ミリ、この究極の成分を煙草と称するならば、蝶々もトンボも鳥のうちであろう。やめるにやめられず、かといって肺癌も脳卒中も心臓病も怖いという、日本男児の風上にも置けぬオヤジの象徴である。〉
 浅田氏は、決然と白旗を揚げられず微温的な妥協策に逃げ込むオヤジたちの弱腰を糾弾している。「蝶々もトンボも鳥のうち」にしてしまうあざとさを断罪している。
 白旗も妥協もかなぐり捨てれば、「撃ちてし止まん」以外に選択肢はない。銃砲を松葉杖に持ち替え、往来には乗合自動車を専らとし、兵糧は握り飯を常食とし、ついにアナクロニズムの媼へと化身したのであった。まあ、件(クダン)の「オヤジ」を「風下」に追い遣ったのは確実だ。畏るべし、レジリエンスである。
 屈折4年、この3月で年季が明ける。移動の時期ゆえ、上司、同僚から早めに寄せ書きと花束をいただいた。旭日・瑞宝章、如何ほどこれに過ぎようか。
 孫娘がもう少し大きければ「やったね、ばあば」と言ってくれるところだろうが、とりあえずじいじが代弁しておこう。 □