笑子と書いて「しょうこ」と読ませる。「えみこ」ではない。訓ではないのが、ひどく珍しかった。
町内いたるところに同級生がいるなかで、彼女の住まいはわが家の斜向かいにあった。となれば一緒に遊んでもよさそうなものだが、思い出せる情景は一つか、二つしかない。当時の子どもたちはいつも群れていたし、男女の別もあったからだろうか。もっともこちらの記憶の減衰を棚に上げるわけにもいくまいが……。
彼女は三人姉妹の末っ子だった。長姉はすらっと背の高い、長ずればきっと美人になるにちがいない容姿をしていた。二十代の終わりに、病気で他界したと風の便りに聞いた。やはり佳人は薄命なのだろうか。笑子は長姉ほどではないが、やがて佳人の列に連なるかもしれぬ面立ちをしていた。
幼稚園から中学に上がるまでは一緒だった。父親の転勤に伴い、中一の早々に東京へ越した。おとなしく目立たない子だったし、こちらにも引っ越しの騒動があって、お別れの場面は記憶に一つも残ってはいない。残ったのは、一葉の写真だ。幼稚園の遠足で、肩から水筒の下げ紐を袈裟に掛け彼女と手をつなぎ、隊伍の先頭に立つふたりが写し込まれている。モノクロームでセピア色に変色してはいるが、切り取られた刹那はたしかに初々しくあどけない。
東京で学生生活を始めたころ、一度笑子を訪った。中央線からバスに乗り替えた。家族が揃い踏みで迎えてくれ、御馳走になった。後日、お礼の手紙を出した。末尾に、お嫁に行く時は連絡をくれるよう認(シタタ)めた。なぜそんなお節介を書いたのだろう。
祝いでもしようと考えたのか。間抜けな夜郎自大か。それとも、あえかな恋心だったろうか。結婚によって幼馴染みという繋がりは様相を変える。その際(キワ)を自虐してみたかったのか。
笑子が結婚した時、連絡はなかった。あの末文は若気の勇み足とでも、打っ棄られたのか。知ったのは数年後だった。もっともその時分はこちらも激しい青春の坂を上下していて、それどころではなかったろう。しかし、ごくわずかな澱が凝った。
先日、年頭に東京で開いた同窓会での写真を見た。彼女が映っていた。ほぼ四十年ぶりだ。四十という星霜は剛力というほかない。津波のように否も応もない。みんなが相応に、剛力に搦め捕られていた。彼らがわたしを見ても同じ感想を漏らすだろう。お互い様だ。すでに面影は霞んだ認識番号でしかない。彼女とて例外ではない。ただ、おとなしく目立たない撮られかたは昔のままだった。さらに軽く微笑んでいるようで、笑子の名に故事付けたくもなった。
微かだが、にわかに「澱」が撹拌された。
人生のそれぞれのフェーズには相応の書割がある。「澱」は何枚目かの書割に点描のように滲みでている。しかし決して汚くはない。その書割を引き出す際の、格好の目印だ。□