伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

オニオンスライス

2010年02月14日 | エッセー

 先日、立松和平氏が亡くなった。対談などは読んだものの、作品に直接触れることはなかった作家だ。栃木訛りや面容に違(タガ)わず、頑固なまでに自然をいとおしんだ人のようだ。かつ、行動する作家とも評された。以下は、2月11日付の天声人語である。

〓〓出世作の「遠雷」も忘れがたいが、立松和平さんといえばオニオンスライスである。早大に合格して上京し、下宿の近くの食堂へ行った。むろん懐は寒い。品書きをにらみ、一番安いオニオンスライスを注文した▼「オニオンス・ライス」、つまり玉葱ご飯だと解釈したのだった。薄切りの玉葱が運ばれたが、おかずだと思い、ご飯が来るのをひたすら待ったそうだ。「玉葱の上にかかった花かつおが、人を小馬鹿にしたように揺れていた」と回想している▼そんな田舎の青年が、そのまま年を重ねたような風貌だった。故郷の栃木弁が似合っていた。玉葱の食堂では、訛りが恥ずかしくてご飯を「催促」できなかったという。だが後年はそれが持ち味になり、語りは炉辺談話の趣をかもしていた。▼冒頭の食堂に話を戻せば、立松さんは玉葱だけ黙って食べたそうだ。そして「東京暮らしはつらいな」と思う。切ないのに、どこかおかしくて、あたたかい。そんな空気を人徳のようにまとい続けた作家だった。(抄録)〓〓

 実に驚いた。氏から少し遅れて、わたしにもまったく同じ経験があったからだ。朝、東京・中野駅近くの喫茶店だった。壁にぶら下げてあるメニューを見ると、それがあった。「花かつお」の乗った玉葱のスライスは出てきたものの、ライスが一向に姿を現さない。痺れを切らして、ライスはまだかとついに尋ねた。少しの静寂(シジマ)があって、仲間の笑いが弾けた。
 中黒がないのが仇(アダ)になった。「ス」がどちらに付くのか。オニオンの複数形か、所有格か。ライスの頭に付いて、スライスなのか。当時の個人的な食料事情により、咄嗟に前者の解釈をしてしまったのである。

 今までさんざん話の種に使ってきたが、この作家のように「切ないのに、どこかおかしくて、あたたかい」逸話とはならず、人格に滋味が薫ずることもなかった。「花かつおが、人を小馬鹿にしたように揺れていた」と観る感性も持ち合わせてはいなかった。単なる失敗談に終始した。

 小学校に上がってすぐの頃、わが家の斜向かいにあった金物屋の看板を『かねもちや』と読んで周囲の失笑を買ったこともある。「金物」とあるのを誤読ではあるが「金」が読めたのを幸いに、ありあわせのボキャブラリーから「かねもち」とやってしまったのだろう。振り返ると、「戦後」が終わり金物屋なるものが立ち行かなくなる際(キワ)でもあった。なぜか記憶に残るあの失笑の違和感は、そのような背景があったのだろうか。ほどなく別の店に変わり、看板も付け替わった。

 読みちがい、勘ちがいは人の世の常だ。例を挙げれば切りがない。肝心なのは、そこからどんな花が咲くか。種のままで終わるのか。蕾には至るもそれで枯れるのか。人間、生まれにちがいはないが、生い先でちがいがつく。
 いまではオニオンスライスはわが家夏場の定番メニューになっている。直前まで冷凍庫に入れておいてパリパリの食感を楽しむ。まあ、いいとこ、「蕾」のままというところか。一方、「かねもち」は種ともならず遥かな遠景に消え去った。 □