伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

巧い!!

2008年03月20日 | エッセー
 予感や予想がことごとく外れ格段にちがう感動に浸る時、それは微量の媚薬が混じったカタルシスともいえる。
 浅田次郎著「壬生義士伝」がそうであった。
 新選組ものは随分読んできた。だから、誰を主人公に据えるにせよ、あるいはどの事件をメインテーマに設(シツラ)えるにせよ、おおよその察しはつく。パターンが先入主として組み込まれている。だが、これはちがった。まったく想像の外であった。
 はじめの二話ぐらいまで読み進んだ時、「やられた!」と唸った。つづいて「巧い!」と快哉を叫んだ。件(クダン)の先入主は脆くも崩れた。物語の紡ぎ方がまるで尋常ではない。本末が転倒しているといえなくもないプロットなのだ。しかも五、六人の語り部が時間軸を巧みにずらしながら物語をすすめる。維新から五十年、大正から往時の記憶を辿る。かつ、見せ場ではタイムスリップしてリアルタイムに描かれる。そのズレが妙技といっていいほどに読者を酔わせる。やはりこの作家、只者ではない。「お主、できるな」どころではない。並外れた膂力だ。
 映画も観た。中井貴一は小説のイメージに適ってもいたし、好演だった。しかし平板に過ぎた。物語の厚みがまるでない。シナリオに工夫がないか、映画の限界か。あの重厚感はやはり小説にして初めてなし得るものかもしれない。

 「義士」とは、壬生「狼(ロ)」の対語、アンチテーゼであろう。しかも主人公・吉村貫一郎に即して「義」とは主君への忠義ではなく、家族を飢えさせないという極めて人間的な色彩で語られる。脱藩という不義を超えるより大きな義として位置づけられる。この辺りの色合いは作者の真骨頂だ。しかし当時の武士として、これはあきらかに珍稀に属す。この珍稀さは作者の創造に帰すべきところだが、奇しくも同類がいた。実在の人物、相馬大作である。
 文政四年(1821年)、盛岡藩士相馬大作が弘前藩主を狙撃しようとした暗殺未遂事件である。元を糺せば、津軽・弘前藩は南部・盛岡藩から略取したものである。津軽の祖は南部の子飼いであった。弘前藩の成立は南部衆がいわば嵌められるかたちでなされた。怨念といえばそうにちがいないが、二百年も前のことである。相馬三十過ぎの時、無位無冠の盛岡藩主に対して弘前藩主は叙任される。その不満がすでに歴史になっていた怨念に火を付けた。それが「相馬大作事件」である。吉田松陰は歌にまで詠んで賞讃している。
 司馬遼太郎はかつてこの事件について次のように述べた。

 この事件で驚歎すべきことは時代が江戸期の四海波風もたたぬ天下泰平のころだったということが第一である。第二に、南部氏から津軽氏が独立したのは豊臣期で、大作の事件から二百年も前の昔ばなしだったということである。さらに第三として、津軽氏の藩主は代々温厚で聡明な人物が多く、具体的に南部氏に意地悪したとか、南部氏の利益を害するといったふうの加害行為をしたことがなかったということである.第四に考えねばならぬことは、相馬大作が狂人でも愚人でもなく、当時江戸の軍事学者として名声の高かった平山小竜の門下で、その門下でも四天王のひとりにかぞえられていたという事情から推して没知性の人でもなかったろうということである。となれば相馬大作の憎悪というのは、ありうべからざるほどに抽象度の高い憎悪であったにちがいない。(「街道をゆく」3から)

 「ありうべからざるほどに抽象度の高い憎悪」これがキーワードか。朱子学という観念性の強い思想が江戸期三百年に亘って武士層に培養され、とくに南部という過酷な自然条件の中で凝結した、と考えられなくもない。南部では飢饉の折、食人さえもなされたほどに環境は苛烈さを極めた。勢い、思弁は先鋭化し抽象度はいや増す。珍稀の生まれる所以である。安藤昌益の珍稀もこれに来由すると考えねば収まりがわるい。だから南部衆の精神風土を前提とするなら、南部藩士・吉村貫一郎を「ありうべからざるほどに抽象度の高い憎悪」をもった義士として描くのは十分に理のあるところだ。憎悪は愛惜と表裏をなす。愛憎併せ持つ情念と置き換えてもいい。守銭奴と罵詈されようとも、妻子を養うことを義といって憚らない愛惜。一転して、徳川の殿(シンガリ)と呼ばわりつつ単騎で敵陣と斬り結ぶ修羅闘諍の姿。それはもっとも打算から遠い「抽象度の高い」情念の激発ではなかろうか。
 
 以前にも触れたが、繰り返す。浅田作品の歴史ものはいつも滅びる側を描く。「蒼穹の昴」・「中原の虹」は最右翼だ。「歴史もの」という呼び方をあえてするのは「歴史小説」なる模糊たる表現を避けるためだ。時代小説と言い換えてもいい。歴史に材を採った小説、というほどの意味である。したがって当然、小説に軸足はある。「中原の虹」の読後感で語った通り、歴史解釈に対する『冒険』が始まる。かつ、滅びる側を描いてもデカダンではない。滅びの美学でもない。美学を易易として超える人間臭さが充満する。前述した「人間的な色彩」である。ここがこの作家の魅力であり、膂力の源ではないか。

 「壬生義士伝」には、ある仕掛けが施されている。 ―― 吉村貫一郎と大野次郎右衛門との友情、さらにその子息同士のそれが全編を織りなす縦糸である。実はここに秘密がある。有り体にいえば、トリックが隠されている。
 「友情」とは舶来の概念である。明治期に本邦で創られた言葉だ。友はあっても、情が結ばれ、ましてや忠義と拮抗する徳目として存在し得たであろうか。吉村は友情に縋(スガ)り、大野は忠との迫間で呻吟する。いや、だから小説なのだともいえる。たしかにこの縦糸を抜けば、艶(アデ)のない無粋な織物しかできなかったであろう。この附会も作家の膂力の一端か。
 
 さらに「歴史もの」である一面を挙げれば、この作品には歴史が語られていない。書割としての歴史はあっても、歴史そのものが登場することはない。
 幕末の日本には身を焦がすほどの危機意識があった。清国と同じように欧米列強に侵略されるのではないかという居ても立ってもいられない焦燥感に覆われていた。痩身長躯の日本列島にあって、特に西に遍在した。維新は西国の雄藩で発火し、列島を北上して五稜郭で終焉を迎える。そのような歴史のうねりの中で新選組は誕生し、徒花と消える。刀による支配と武士への昇進願望は徳川支配体制のカリカチュアであるともいえる。つまり彼らは時代に盲目であった。「歴史小説」であれば俯瞰するであろうそのような視座がない。最後の将軍となる慶喜へのにべもない評価、薩長倒幕勢力への一方的断罪は欲目に見ても正当を欠く。「歴史もの」であるゆえの隔靴掻痒であり、食い足りなさであろうか。

 この作品は第十三回柴田錬三郎賞を受けた。宜なるかな。時代小説である以上、シバレンこそが相応しい。
 巻末の解説は演出家の久世光彦が書いている。冒頭、「巧い」と絶賛している。奇しくも印象が一致し、意を強くした。
 さらに、先般病気加療中にこの作品に大いにエンカレッジされた。そのことは、拙稿「囚人の記 3」で触れた。ここでは略す。
 
 発刊から八年。遅きに失してはいない。感動は抱えられないぐらい重い。□


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