宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生
そのようなヨーロッパの言語と比べて日本語をみた場合、私たちはお互いを三人称的に見た対話をしているということになるのである。自分は絶えずその場の役割で言語的な自己を変えて出している。
今、自分自身の自分を表す言語を考えてみよう。自分の相手によって代わっているのに気づく。家庭にあっては、妻に対しては「ぼく」や「おれ」であり、子供に対しては、「パパは出かけるよ。」となり、近所の子供には「おじさんと遊ぼうか。」となり、子供の患者には「先生は痛くしないからね。」、そして大人の患者や先輩の先生には、「私はこう思います。」というように、そのときの相手との役割を指す言葉は、日本語においては人称代名詞のかわりに「万華鏡」のように変化するのである。
「これは結局、自己を三人称化しているのであって、自分のたくさんある側面のある部分をたまたまにそのときに選んでいるにすぎない。」
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