宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生
Dr.マンは歯科医師としても人間としても、すばらしいバックグラウンドをもっており、修復歯科の分野に非常に関心をもっていた。短期間の間に、彼は私と仕事をし始めた。
実際、アービンはすばらしい男だった。すぐに友人となり、仕事も互いにうまくできるようになった。彼は患者の装着された診断用模型と一連のレントゲン写真、健康歴を一組として、私のオフィスに持参したものだ。私は診断と治療計画を立て、患者に見立てた彼に症例を提示した。私が実際にして見せたのは、患者を知るということをするためには、どのように哲学を使うのか、何をする必要があるのかということをどのように説明するのか、患者を教育し、治療計画を受け入れるようにするにはどうすればよいのかなどであった。アービンは治療計画を説明できるようになり、そしてそれを”売る”ことができるようになって、その後に修復処置を始めるようになった。治療の完了後、彼はそれを”再び売り”、その患者から伝道者をつくっていった。2年もしない間に、彼は忙しくなり、医業もうまくいくようになった。ついには、私が彼を援助したのと同じように、オフィス外の4人の若い歯科医師に手を差し伸べ、彼のところのあふれ出た患者を送り込んだのだ。このようなことw実践した、あるいは実践をしている歯科医師をあなたは一人でも知っているだろうか。
アービンは私たちの修復テクニックに感激し、興奮を覚えて、この知識をシカゴのミッドウィンター・デンタルミーティングで他の歯科医師に提供するべきだと思った。私は咬合の分野に関心をもっている少人数の限定した歯科医師のグループに実践するのが、ベストだと考えていた。それまでの数年間に、私は哲学を教えていたので、さまざまな地域から少なくとも哲学のコースを3回は受けており、修復するにあたって数多くの方法を採り入れている、そのような歯科医師を11人選択した。翌年のダラスの会合で、そのテクニックを使ったリポートを提出することを求めた。そのときのリポートは満足のいくものだった。そこで、私たちはオクル―ザル・リハビリテーション・セミナー(O.R.S.)を結成した。それが、パンキー・マン・スカイラ―・テクニックの始まりである。