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山田歯科エクセレンスクリニック:山田忠生の歯医者人生&文化活動人生

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切って血がでるフィロソフィ

2009-12-22 | 歯医者人生、思いつくまま

                     宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生

「フィロソフィ」、日本語では「哲学」、ときには「理念」と表現される。いずれの言葉も、理解しにくい言葉だ。そこを、少しだけでもお付き合い願いたい。

輸入前の「フィロソフィ」の英語での説明を日本語に訳した表現によると、1)人生の意義についての思想と信条の学問⇒哲学、2)人生の意義を説明しようとする、またはどのように振る舞うかについての規則を与えようとする信条⇒人生観・主義・持論、とある。さらに、わからなくなりそうな気もする。

卒業して2年後だったか、この「フィロソフィ」に出くわした。それも「パンキー・フィロソフィ」というアメリカの歯科医師パンキーの名前がついた「フィロソフィ」だ。日本語表現としては「パンキー歯科医業哲学」とでもいうべきか。つまり、歯科医業を生業とする歯科医師が携えるべき哲学の中で、歯科医師パンキーが提唱する一つの哲学と表現するのが適切だろうか…。

それをわかりやすく(?)表現すれば、目の前にいる患者に対して、歯科医師として「己の最善を尽くせ」ということになる。最善を尽くさない、あるいは尽くせない理由は、数限りなく存在する。しかし、人間としての歯科医師が、人間である患者に歯科医学を適用するときには、それらの理由などを超越して「己の最善を尽くす」ことだと、パンキーは説く。

まことに人間くさい、血の通った歯科医業を実践せよと迫る。まさしく、「切って血が出るフィロソフィ」でなければならないのだ。 決して大学で行われている研究を「眉唾的な代物」だというつもりはない。

しかし、研究のための研究という観も無きにしも非ずだ。臨床の場はきびしい。自らが最善を尽くすときに、診療哲学が鮮血となってほとばしるほどに、血となり肉となっていなければならないのだ。

「フィロソフィ」は、具体的で、具現化される必要がある。

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「新しい歯科」の軌跡:第1話

2009-12-22 | わかる歯の話

                     宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生

1:「歯科・三種の神器」登場

「新しい歯科」といいながら、何か古めかしい「三種の神器」という表現になるのは、お許しを願います。

 それでは、歯科における「三種の神器」の登場にいたる経過を説明しながら、その「三種の神器」が登場した結果、どれほどに大きな変革が歯科医療に、そして歯科治療に起こったかをお話しします。まさしく「新しい歯科」の誕生だったのです。

 2:ほんの少し「歯科医師の歴史」をご紹介

私たち現代社会で歯科医業を営む歯科医師のルーツは、1876年(明治8年)、明治政府が実施した医術開業試験(いわゆる医師国家試験)に、自ら進んで歯科の科目で受検、歯科医師免許第1号となった歯科医師・小幡英之助であります。ちなみに、私の歯科医籍登録番号は、第5××××号であります。

多分、現在では10万代の登録番号になっているでしょう。 もちろん、江戸時代以前から歯医者らしきことを生業とする人々は存在していました。江戸時代では「入れ歯師」、あるいは「歯抜き屋」とも称されていたそうです。

明治維新(1868年)より10年前の日米修交通商条約の調印後に、外国人歯科医師として最初に来日したのはアメリカの歯科医師でした。上記の小幡先生も横浜で開業するエリオット歯科医師の門下生であったのです。

以来、今日まで日本の歯科のお手本は、医学が当初はドイツ医学であったのに比べて、アメリカ歯科医学でありました。 ですから、当時の最先端の歯科は、横浜や神戸だったのです。

多数の私たち歯科医師の先輩たちは、横浜や神戸で開業する外国人歯科医師の許で研鑽を積みました。日本で最初の西洋の歯科医学を教育する機関は、1980年(明治23年)に歯科医師・高山紀斎が創立した高山歯科医学院であります。これが今日では東京歯科大学として発展しています。

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