宝塚仁川/山田歯科エクセレンスクリニック 歯科医師・山田忠生
「フィロソフィ」、日本語では「哲学」、ときには「理念」と表現される。いずれの言葉も、理解しにくい言葉だ。そこを、少しだけでもお付き合い願いたい。
輸入前の「フィロソフィ」の英語での説明を日本語に訳した表現によると、1)人生の意義についての思想と信条の学問⇒哲学、2)人生の意義を説明しようとする、またはどのように振る舞うかについての規則を与えようとする信条⇒人生観・主義・持論、とある。さらに、わからなくなりそうな気もする。
卒業して2年後だったか、この「フィロソフィ」に出くわした。それも「パンキー・フィロソフィ」というアメリカの歯科医師パンキーの名前がついた「フィロソフィ」だ。日本語表現としては「パンキー歯科医業哲学」とでもいうべきか。つまり、歯科医業を生業とする歯科医師が携えるべき哲学の中で、歯科医師パンキーが提唱する一つの哲学と表現するのが適切だろうか…。
それをわかりやすく(?)表現すれば、目の前にいる患者に対して、歯科医師として「己の最善を尽くせ」ということになる。最善を尽くさない、あるいは尽くせない理由は、数限りなく存在する。しかし、人間としての歯科医師が、人間である患者に歯科医学を適用するときには、それらの理由などを超越して「己の最善を尽くす」ことだと、パンキーは説く。
まことに人間くさい、血の通った歯科医業を実践せよと迫る。まさしく、「切って血が出るフィロソフィ」でなければならないのだ。 決して大学で行われている研究を「眉唾的な代物」だというつもりはない。
しかし、研究のための研究という観も無きにしも非ずだ。臨床の場はきびしい。自らが最善を尽くすときに、診療哲学が鮮血となってほとばしるほどに、血となり肉となっていなければならないのだ。
「フィロソフィ」は、具体的で、具現化される必要がある。