現在、岡本隆司『中国『反日』の源流』(講談社選書メチエ)をボチボチと読んでます。中国での反日の源流を、倭寇の時代あたりから日中両国の社会構造の違いに着目して見ていこうという内容なんですが、本筋とはあんまり関係ない所で気になる記述が……
本書によると、明清期の幇や会党などは単なる同業者組合・相互扶助組織ではなく、「小さな国家」とも言える存在であり、政府当局が接触するのはこれらの団体の上層部のみで、団体内部のことには一切関与しなかったというようなことが述べられています。
この見方を敷衍すると、武侠物に出て来る華山派とか丐幇とか少林寺等々も単なる武術道場や組合などではなく、小規模な国家と見てよいということになります。ということは、各門派が覇権を争う「争覇武林」なんてのは正しく小規模国家同士の戦争ということになるわけですね。更にはそれらの門派が相応の武力を持っているにも関わらず、朝廷があんまりそれを気にしていないのは、歴史的に見てある意味正しい描写なのではないでしょうか。
つまりは、武侠小説からも現実の「中国」を見出すことは充分に可能であるということです。そう考えると、現実の「中国」の政治闘争を「争覇武林」に置き換えて描いてみせた金庸の『笑傲江湖』は秀逸ですよね。
本書によると、明清期の幇や会党などは単なる同業者組合・相互扶助組織ではなく、「小さな国家」とも言える存在であり、政府当局が接触するのはこれらの団体の上層部のみで、団体内部のことには一切関与しなかったというようなことが述べられています。
この見方を敷衍すると、武侠物に出て来る華山派とか丐幇とか少林寺等々も単なる武術道場や組合などではなく、小規模な国家と見てよいということになります。ということは、各門派が覇権を争う「争覇武林」なんてのは正しく小規模国家同士の戦争ということになるわけですね。更にはそれらの門派が相応の武力を持っているにも関わらず、朝廷があんまりそれを気にしていないのは、歴史的に見てある意味正しい描写なのではないでしょうか。
つまりは、武侠小説からも現実の「中国」を見出すことは充分に可能であるということです。そう考えると、現実の「中国」の政治闘争を「争覇武林」に置き換えて描いてみせた金庸の『笑傲江湖』は秀逸ですよね。
確かに梁山泊は本書で言う「小さな国家」にあてはまると思います。あと、オウムも太平天国も言ってしまえば同じようなもんですしね。
梁山泊とか、まんがでしか知りませんが、立派な地方政権ですやん。
たとえは悪いですが、
オウム真理教内部には「省庁」までありました(笑
中核や革マルも、「革命軍」を持って居ります。
こういう視点で、社会学・社会史によって、「国家とはなにか」考えてみれるかもですね。