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極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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真実は一つ、米国ばかりでなく日本の大掃除も始まっています。

2025-04-17 16:53:37 | 日本社会

 米国ばかりでなく、日本の大掃除も始まっています。世界は知っていますが、多くの日本人はメディア、御用専門家の素人でも分かるような嘘・プロパガンダ情報を鵜呑みし、誤った方向へ日本人自らが導いていると思います。

  JAL123→911→311→新型コロナ→ウクライナ等・・・トランプ大統領は、これらの情報公開を行う可能性が高いと思います。自分なりに海外のSNS等々で精査すると、多くの方々から返答をもらえます。唯、言えることは海外の多くの専門家は真実・真相を科学的・論理的に理解しているようです。勿論、トランプ大統領も知っているでしょう。これらの内容を公開するには、彼らから極めて大きなリスクが本人、家族、末端の身内、個人資産等々にかかると言われています。逆の場合は特権・利権等が保障されると言われています。

三橋TV - YouTubeさんの動画紹介です。

 

 以下記事は、ユーチューブでも本人のインタビュー動画がありましたが事実・真実を語っており、現在は何故か削除されています。(コピーされている方はいると思います。)

原文(素人訳です、了承下さい。)

StarsAndStripes.pdf

マイケル・アントヌッチ「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」

1995年8月27日

1985年の墜落事故、救助は失敗だったと元空軍兵が語る。

 もし退避命令が出ていなかったら、米海兵隊は東京近郊の山岳地帯に日航123便が墜落した2時間後に生存者を救助していたかもしれない。マイケル・アントヌッチは1982年から1990年まで空軍に勤務、現在はカリフォルニア州サクラメントで雑誌「インサイド・カリフォルニア」の編集長を務めている。サクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチの許可を得て転載

 

マイケル・アントヌッチ著

ストライプス特別寄稿

 10年前の1985年8月12日、日本航空123便が本州中部の山岳地帯に墜落し、520人が死亡した。これは航空史上、単独の航空機による最悪の人命損失でした。日本の救助隊員が残骸に到着するまでの遅れが物議を醸しました。最初の救助隊が現場に到着するまでに、飛行機は12時間も墜落していました。

 日本当局に迷惑をかけまいとする動きがなければ、最初の救助隊である米海兵隊のチームは、墜落から2時間以内に残骸の捜索を開始できたはずです。生存者は4人でした。もっと多くの人が生き残っていたかもしれません。私は、この墜落事故の余波について独自の視点を持っています。事故当時、私はそれについて語らないように命じられていました。しかし、震災から10年目の節目に、私は、東京から西へ35マイル(約56キロ)離れた横田基地に向かう米空軍C-130の航法士として、あの夜見たものと聞いたものをどうしても伝えなければならないと感じています。私は横田基地に駐留する中尉で、8月12日の午後6時30分頃、私たちは沖縄から横田基地へ向かう飛行で大島に接近していました。JAL123便のパイロットが管制に緊急事態を宣言したのを初めて聞いたとき、私たちはほとんど気に留めませんでした。C-130では、緊急事態を宣言してエンジンを停止し、何事もなく着陸することがよくあるからです。しかし、午後6時40分頃、私たちは再びJALのパイロットの叫び声を聞きました。今度は彼の声は非常に興奮しており、航空業界の国際語である英語ではなく、日本語で管制官に話しかけていました。これは、几帳面な東京の管制官による標準的な運航手順からの非常に異例な逸脱でした。

 私はずっと後になって、JAL123便が後部安定板の大部分と下側方向舵の一部を失っていたことを知りました。機体は操縦不能で、操縦士の高浜正美機長はスロットル調整だけで操縦と高度変更を試みていました。JAL123便はまた、急速減圧を経験しており、これは即時降下を必要とする緊急事態でした。JAL123便はもはや制御できない状況でした。私たちは横田進入管制に周波数を切り替え、大倉で待機パターンに入るように指示されました。

 着陸パターンを飛行中、横田進入管制局がJAL123便に基地への着陸許可を出したのを聞きました。この時点で、私たちは本当に注意を払い始めました。飛行中の緊急事態は深刻で、航空機は目的地に到着できません、パイロットは米軍基地への着陸を希望、これは異例の事態でした。

 横田アプローチがJAL123便と交信しようとしているのが聞こえましたが、繋がりませんでした。進入許可は出ましたが、午後7時過ぎにJAL123便とのレーダー交信が途絶えたとの連絡があり、捜索を開始してもよいかと尋ねられました。燃料はあと2時間飛行できるだけ残っていました。北に向かいました。管制塔はJAL123便が最後に目撃された場所を正確に把握していませんでした。あの長い夏の日、日が沈みかけていた頃、北北西方向へ向かって向かいました。7時15分、航空機関士が高度約10,000フィートの雲底に煙のようなものを発見、ゆっくりと左旋回してそこへ向かいました。御巣鷹山周辺は非常に起伏が激しいため、高度約2,000フィートまで降下する許可を得ました。

 残骸を発見した時は、あたりが暗くなり始めていました。尾根の斜面では大規模な森林火災が発生し、黒い煙が立ち上り、空を覆い隠していました。時刻は午後7時20分。機長のジョン・グリフィンは、残骸の上空2,000フィートに待機態勢を取りました。私は地形の状態を監視し、横田基地を基準に現在の位置を特定しました。緯度と経度の座標、そして横田基地から現場までの方位と距離を伝えました。

 墜落から約20分後、当局は残骸の位置を突き止めました。横田アプローチから、海兵隊の救助隊が私たちの位置から約40マイル離れた厚木海軍航空基地から発進の準備をしていると伝えられました。彼らは1時間以内に到着する予定です。

 急いで管制官に伝えてくれと副操縦士のゲイリー・ブレイが言いましたが、生存者はいないだろう。管制官は了解、生存者の気配はない。ゲイリーが無線を切ると、私に、そんなことを言うべきじゃなかった。ここからはわからないと言いました。

 午後8時30分頃まで楕円飛行を続けた。その後、海兵隊のヘリコプターがこちらに向かっており、方向を尋ねているという連絡がありました。私は彼らに大まかな方向を伝え、レーダーを地上から空中に向け設定しました。午後8時50分には、ヘリコプターのライトが見えました。彼らは視察・確認に降りていく予定でした。午後9時5分、海兵隊から無線で、煙と炎が濃すぎて着陸は不可能だと連絡、彼らは少し移動して、2人の乗組員に地上にラペリングしてもらうことにしました。

 彼らは私たちに司令部に連絡するように言いました。ブレイが海兵隊員と話している間、私は司令部に無線で連絡しました。

 直ちに基地へ戻れと当直士官が通報、自衛隊が向かっている。司令部に海兵隊が降下を希望していると私は彼に言いました。繰り返す、君たちも海兵隊も直ちに基地へ戻れと彼は命じました。了解、基地へ戻ると私は答えました。

 ブレイはしぶしぶその知らせを海兵隊員に伝え、彼らはそれを承知して上昇を始めた。午後9時20分、私たちの到着から2時間後、最初の自衛隊機が現場に到着、進入管制官はそれが自衛隊の救難機であることを確認、自衛隊が現場に来たので、私たちは撤退できると感じました。それに、燃料もほぼ使い果たしていた。私たちは横田に引き返し、直ちに司令部へ報告するようにというメッセージ。

 私たちを待っていたのは、第816戦術空輸群の副司令官、ジョエル・シルズ大佐だった。グリフィンが私たちの行動を簡単に説明すると、シルズ大佐は「君たちはよくやった。このことについてはメディアに話すな」と言いました。

 私たちは17時間に及ぶ緊張の一日を終え、飛行隊のビルへチェックインに向かいました。その時初めて、日本のテレビでJAL123便が改造された大型旅客機で、500人以上が搭乗していることを知りました。何が起こったのかという重大さに私たちは衝撃を受け、辺りは静まり返りました。その静寂は、スケジューラーから翌日の午後に沖縄への1週間の任務に出発すると告げられた時にかわりました。これは異例のことで、翌日、ニュースや新聞を見て、私たちは少し困惑しました。

 ニュースは、自衛隊が現場を見つけるのに苦労し、実際にはまだ残骸に到達していないという報道で溢れていました。当時、私はすぐに地図を見て自分の作業を確認しました。正しい位置を示したと確信しています。海兵隊のヘリコプターをその場所に誘導し、自衛隊の航空機をその上空で旋回させました。

どうして残骸を見つけるのに苦労することができたのだろうか?

 墜落から2週間後、タイのバンコクに滞在していた私は、墜落の写真が表紙に掲載されたタイム誌とニューズウィーク誌を買いました。生存者が4人だったと知りました。4人のうちの1人、落合由美さんの記事を読んで、私は恐怖に襲われました。

 彼女は墜落後、意識があったと説明、残骸に押しつぶされた彼女はヘリコプターを見つけ、手を振った。すぐには反応がなかった。だんだん眠ってしまいましたと彼女は言っています。男たちの話し声が聞こえ、朝になっていたんです。

 落合さんはまた、看護師に何人かの子供の声が聞こえたが、夜の間に徐々に小さくなっていったと話しています。もし海兵隊員が救助降下を許可されていたら、もっと多くの命が救えたかもしれないと思うと、私は悔しさと怒りを覚えました。海兵隊のヘリは落合由美さんが見えるほど近くにいたのです。

 ニューズウィーク誌によると、日本当局は捜索開始の命令が午後9時半まで届かなかったと主張しており、それは私たちがヘリを発見してから2時間以上も後のことでした。自衛隊のヘリコプターが最初にこの地域を飛行したのは翌朝4時40分でした。

 午前7時45分、自衛隊はレンジャーをヘリコプターから地上に懸垂下降させることを決断しました。これは、海兵隊が降下許可を拒否されてからほぼ11時間後のことでした。

 この悲劇におけるアメリカの役割については、タイム誌もニューズウィーク誌もC-130や海兵隊について言及していませんでしたが、記者たちは日本当局から伝えられた情報を信じていました。

 ニューズウィーク誌は、日本のF-4戦闘機が午後7時21分に山中で火災を発見したと報じました。もっともな話ですが、日本軍にはF-4戦闘機がなく、その日、日本にはアメリカのF-4戦闘機もいませんでした。

 タイム誌は、航空自衛隊から派遣された2機の航空機が炎を発見したと報じています。これは、午後9時半まで捜索指示が出ていなかったという自衛隊の以前の声明と真っ向から矛盾します。

夜間から朝方にかけて何が起こっていたのだろうか?

 日本の救助隊は墜落現場から42マイル離れた上野村に基地を設営していました。日本の緊急事態管理に詳しい人物から後に聞いた話によると、日本の救助隊は、米軍機が1機ではなく2機も現場に到着したことに憤慨していたという。

 日本の自衛隊が、米軍のように迅速に捜索に出かけることなどあり得ませんとこの人物は言いました。救助活動は、決まりきった手順通りに組織されなければなりませんでした。あなたと海兵隊員はただ出動しただけです。私が日本に帰国する頃には、この話は沈静化していました。私の乗組員は確かに一定の評価を受けましたが、それは私たちが期待していたものではありませんでした。

 残骸の写真を日本の新聞社に売ったとして、空軍特別捜査局の捜査を受けていると告げられました。もちろん、捜査は短期間で終わりました。乗組員には渡すフィルムを持っておらず、写真を撮るのに十分な光もなかったからです。

 さらに、ニュースメディアの報道は、私たちがそこにいたことを誰も知らなかったことを証明していました。1987年3月、横田基地から転属し、サクラメントのマザー空軍基地で航法指導を行う大尉となった後、私は空軍表彰メダルを授与されました。

 賞状に添えられた表彰状には、次のように書かれていました。アントヌッチ機長と乗組員は、日本史上最悪の航空事故となった墜落した日本航空便の捜索に派遣されました。彼は迅速に捜索計画を立て、墜落現場を発見し、救助隊を現場へ誘導しました。

 空軍が私たちの功績を認めてくれたことは嬉しかったのですが、表彰は私にとって喜びではありませんでした。これ以上の命は救われませんでしたと付け加えたかったのです。日航123便墜落事故は、実際には二つの悲劇でした。一つ目は、犠牲者の死です。

 

THE CORE - YouTube

 

 

 

 

(3) トッポ on X: "元米海兵隊情報将校であり、国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)の主任査察官を務めたスコット・リッター氏が、ロシアの独立系メディア「TV RAIN」に出演し、ウクライナ紛争に関する見解を述べました。 https://t.co/WgVXj5MLdi" / X

 

JAL123→911→311→新型コロナウイルス

911 とコロナは似ている (田中宇) てんさい(い)

 

日本政府は知っていた、3・11巨大地震・大津波が襲うことを!!8日前に。 チクリ虫

 

 

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