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刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)に戦った人達

2018-11-01 19:26:18 | 日記

以下文は主にウィキペディア、九州大学附属図書館に勤務(図書館学習サポーター/図書館TA・Cuter)されていた岩波 俊彦氏等の資料を参考にしています。

 

元寇(文永の役・1274年、弘安の役・1281年)の以前、後日本への侵攻、略奪、襲撃等はあったかを調べると刀伊の入寇(外国から攻め入ってくること。)「といのにゅうこう」と言う事実があります。これらの国難等にも名も無き多くの武士達等が対処しています。これらの国難等に立ち向かった人達の日本への思い、大和心、本居宣長が記しているように日本人とはを表現すれば、山桜(やまざくら)、本当によく表現したものだと思います。

寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした族が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事案を刀伊の入寇(といのにゅうこう)と言われています。これらの国難等に対し、日本武士等の活躍もありましたが、多くの武士、一般人が殺害・虐殺、拉致の犠牲になっています。

この事件に関しては、小右記(平安時代の公卿藤原実資の日記、小右記とは小野宮右大臣の日記という意味で全61巻、漢文で書かれています。)、朝野群載(平安時代の詩文・宣旨・官符・書札等各種文書を分類して算博士・三善為康が編纂したもの。)等に詳しく書かれていますが、朝鮮の史書・高麗史等には記載がありません。

日本は9世紀~11世紀にかけて記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の賊等による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であったと言われていますが、学校で元寇以外のこれらの事実を学ぶことは無いようです。

刀伊に連行された対馬判官・長嶺諸近は賊の隙を伺い、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得たと言われています。長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得たようです。

刀伊の入寇の主力は女真族であったと考えられています。女真族とは金王朝(1115年)、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国した民族です。

寛仁3年3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲、島の各地で殺人や放火を繰り返しています。この時、国司の対馬守・遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れています。

賊徒は続いて壱岐を襲撃、老人・子供を殺害、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らしています。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守・藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かい奮闘しますが、3000人という大集団には敵わず玉砕しています。

藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとしましたが、これに対し、嶋分寺側は、常(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦しています。そして賊徒を3度まで撃退しますが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かっています。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落、嶋分寺は全焼しています。 

その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退されています。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退しています。

藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行っています。

小右記には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女(女性:くらのいわめ)と多治比阿古見(たじひのあこみ)が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたと記されています。しかし賊は高麗の水軍に撃退され、このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還されています。

これらの虜囚・内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助されています。金海府では白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国しています。しかし、こうした厚遇も、却って日本側に警戒心を抱かせることとなったようです。小右記では、刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れないと、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用しています。

当時、日本は宋との関係が良好になっていたため、外国の脅威をあまり感じなくなっていたようです。日本と契丹(遼)はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられています。

有名な対馬銀山(674年、最初に天皇に献上、以降13世紀まで日本唯一の銀山)も焼損、被害は対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(男102人、女・子供244人)です。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され対馬に帰還しています。

壱岐では壱岐守・藤原理忠も殺害、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺されました。更に女性は239人が連行され、壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人です。この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられています。

記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったと言われています。

藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していました。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなりました。

九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致孝、平致行(致光?)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いものであったといわれています。

源知はのちの松浦党の先祖の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡させる活躍をしています。

歴史が示す通り、古来から世界は良い人、良い国ばかりではないようです。日本は幾多の国難を受けていますが他国の侵略を許さず、武士をはじめ多くの人達は命をかけて守っています。この事実は隣国と比べると一目りょう然です。世界の国々の歴史と日本の歴史の大きな違いの一つだと思います。歴史上世界では多くの国、民族が消えています。過去の歴史から学ぶべきことは多々あり、素直に歴史をかえり見ることは大切だと思います。

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