「あほリズム」(395)

2018-04-11 02:48:27 | アフォリズム(箴言)ではありません

        「あほリズム」


          (395)

 韓国と北朝鮮が祖国統一を目指して交渉を始めようとしているが

、そもそも民主主義国家とキム一族独裁国家がどうすれば国境をな

くすことができるだろうか?そもそも韓国の選挙民が民主主義を捨

てて「将軍様マンセ―」と讃えることなどできるだろうか?或は、

北朝鮮国民が自由社会の情報に接して、なお変わらず「将軍様マン

セー」と仰ぐことができるだろうか?唯一の可能性は北朝鮮の民主

化であり、しかしそれは到底キム一族は受け入れられないはずだ。

そんなことになれば間違いなく国民によって処刑されてしまうだろ

う。そしてそれは裏で操る中国の一党独裁体制さえ危うくする。つ

まり何も変わらない。彼らの統一願望は言わば「ハリネズミの友情

」で、想いとは裏腹に近付けば近付くほど相手の針が体に突き刺さ

る。それぞれにとっての相手の針とは、自由民主主義体制であり一

族独裁社会主義体制である。ただ日本政府は彼らのパフォーマンス

を静観していればいいと思う。中国にとって南北統一が韓国による

自由主義体制の下で決着することは到底受け入れられないことなの

で起こり得ないと思う。つまり南北は元の鞘に収まる以外、例えば

中朝が韓国へ侵略するとか、或は北朝鮮独裁体制が内部崩壊すれば

、極東は一気に有事になる。そうなれば混乱に乗じて中国の朝鮮半

島支配さえも起こりうるかもしれない。中国の狙いは案外その辺に

あるのかもしれない。

                


「天使が通る」

2018-04-10 04:54:36 | 従って、本来の「ブログ」

           「天使が通る」


 ある集りの食事会で、何度か世間話をした程度の顔見知りの人と

席を囲んだ。彼は元警察官だったがすでに定年退職をして、冬のこ

の時期は専ら好きなスキ―を楽しんでいた。彼曰く、警察官の年金

は平均的な民間企業の年金よりも多いらしく、悠々自適の生活を送

っていた。彼がスマホで撮ったゲレンデでの動画を見せられたりし

ながら、スキ―談義に花が咲いたが、私が開催中の平昌オリンピッ

クのことを口にすると、警察官独特の拒絶反応で突然「見ない」と

素気なく言った。どうも韓国で行われたことにこだわりがあったよ

うだ。他愛のない会話を期待していた私はどう繕っていいのか分ら

ず言葉を失って、それまで咲いていた花も忽ち枯れ落ちて、しばら

く二人の上を天使が通った。こういう思いは右翼思想の人と話した

時に何度か経験したことがある。軽々に口を開けない独特のリゴリ

ズム(厳粛主義)に圧倒され話が続かないのだ。かつて左翼思想家と

話した時にも同じ経験をした。平たく言えばヤクザと世間話をして

いるようなもので、余計なことが言えない。

 国防だとか公安の仕事に携わる人は、当然のことではあるがその

任務は守ることであり、守ることとは他から侵されることを防ぐこ

とである。侵されることへの警戒心から対立する相手を憎悪するの

は分らないでもないが、しかし過ぎるとどう対応していいのか分ら

なくなる。かつて左翼運動が現実離れした思想によって次第に過激

化して社会から見捨てられたように、右翼思想が現実離れした愛国

心を訴えても社会から見捨てられるだろう。私は母を愛しているが

それを他人に言いたいとは思わないし、同じようにこの国を愛して

いることを他人に公言したいとも思わない。そもそも公言したとこ

ろでどうなると言うのか。他人から母への愛を聞かされても対応に

困るように、いまさら改めて愛国心を求められても対応に困る。つ

まり思想は感情を支配できない。愛国心が他国への憎しみによって

しか語られないとすれば、国を愛する穏やかな心を見失う。私はあ

の国が嫌いだからこの国を愛しているのではないからだ。

 こうして会話は途切れたが、それにしてもどうして政治的な意見

は語り合うことが出来ないのだろうか?これはよくあることだが、

こと政治の話になると誰もが口を噤む。そして鬱積した思いがネッ

トに吐き出される。しかし右端と左端に別れて罵倒し合っていては

議論が進むわけがない。誰もが膝を交えてこの国の姿を語り合えば

、とんでもない国家が生れるわけがないと信じるのだが。甘い?

 私はもう一度花を咲かせようと思って、もう世界は限界に達した

ので好むと好まざるに関わらず北欧諸国の様な社会になるしかない

でしょと言うと、彼は黙って席を立って出て行った。

 彼にしてみれば、一生を費やしてやっと手に入れた既得権益を保

守しなければならない。そもそも政治信条なんて所詮自らが置かれ

た立場への依存からしか生れないんだから。

                        (おわり)


「依存と自立」⑤

2018-04-05 01:10:27 | 従って、本来の「ブログ」

          「依存と自立」⑤

 

 「自立」意識は運動能力の獲得によって生れた。運動は手段であ

り、手段は目的をもたらす。いや、目的への強い思いが手段をもた

らしたのかもしれない。運動はエネルギーを消費するためその目的

は専ら摂食と被食(食べられること)から遁れるための手段であった

。つまり運動とは動物が生き延びるための手段であった。運動の獲

得によって動物は外部への感覚を発達させ、主体としての自意識が

芽生え、運動と自意識が一体化した。そして厳しい生存競争の世界

で生存の命運は自らの意識が負うようになった。生死は自らが判断

する運動によって決定する。つまり運動の自由が「自立」をもたら

した。

 そもそもすべての生命は自然環境に「依存」せずに生存すること

はできない。運動を獲得した動物は自然環境への「絶対依存」から

離れて「自立」を獲得したが、それは「絶対自立」ではない。つま

り「依存」と「自立」は相対概念である。「自立」は「自由」と同

じように何に対する「自立」であるかを言わなければ無意味である

。さて、我々は長きに渡る肉体運動によって知識を高め科学技術に

よる機械文明を発展させた。かつてはマンパワーに頼っていた作業

も今日では様々な機械に取って代わられた。それどころか知識作業

までも機械が行うようになってもはや我々は機械文明への「依存」

なしには生きていくことはできなくなった。もしも、運動が「自立

」意識を促したとすれば、機械に「依存」して著しく運動を省くこ

とができた我々は「自立」意識を低下させてはいないだろうか?近

代文明は益々高度化してもはや人間による作業が届かない世界まで

も機械が行おうとしている。我々の運動能力だけでは到底築くこと

のできない巨大化した社会の中で運動を奪われた我々は社会に「依

存」しないで生きることができなくなって「自立」意識が退化して

いないだろうか?いまや誰も東京から大阪まで歩いて行けるなんて

思っていない。つまり文明に「依存」しないで生きることなんてで

きない。たぶん自立心を失った文明人たちによってこの文明はやが

て朽ちていくのだろう。

Baby! スクラップ&ビルトだ!

Baby! もう一度作れ

                     一応(おわり)


「依存と自立」④

2018-04-01 12:41:44 | 従って、本来の「ブログ」

       「依存と自立」④


 そもそも社会とは個人が生きていく為の言わば手段に過ぎなかっ

たが、社会が近代化して個人の社会への「依存」が高まり、遂には

社会が目的へと倒錯する。管理社会とは社会に「依存」する個人が

社会に管理される社会である。いずれAI(人工知能)によって管理

されるのだろうが、個人は「自立」精神を見失って、自らの生死ま

でも「安心して」社会に委ねるようになるに違いない。すでに我々

は生存に伴う様々な問題を科学技術に「依存」して、移動手段の発

達、作業の機械化、通信技術の進化、医療技術の進歩など、どれも

近代生活を送る上で欠かすことのできない生活手段である。その結

果、タイムロスの減少、生産性の向上、情報の共有化、疲労や苦痛

からの解放などといった、おおよそ昔の人々が切実に望んだことが

今では実現されている。すでに世界は情報のグローバルネットワー

クが網羅され、近代生活を洗脳された者が今さら近代社会への「依

存」を絶って、自然環境にもどって「自立」した生活など望まない

。それは檻の中で育った家畜が檻から出されることを望まないのと

同じである。「依存」によって生きてきた家畜は「自立」して生き

る能力が退化してしまう。つまり我々は近代社会に「依存」するし

か生きられない家畜化への道を歩んでいるのではないか。そして家

畜とは自らの生死までも飼育管理者に「依存」する矯正された生き

物のことである。

                      (つづく)


「依存と自立」③

2018-04-01 02:52:29 | 従って、本来の「ブログ」

         「依存と自立」③


 また横道に逸れてしまいましたが、そこは行き止まりで何も新し

いことはありませんでした。そもそも公務に従事していた者が公の

場で、いかに法律で認められているにせよ、公が求める証言よりも

私の保身を優先させたことに憤りを禁じ得ません。政治家のみなら

ず官僚までもが都合の悪いことは公にせずに口を拭ってしまえば国

政への不信はいや増すばかりである。彼らにとって公とは国民のこ

とでないことだけは確かのようだ。それは国民主権を掲げる民主主

義政治の危機に違いない。

 さて、再び縦道に戻りますが、すべての生命体は外部環境に「依

存」して生存していると言いましたが、たとえば植物は大地に根付

いて土壌の養分を吸収し葉を繁らせ、繁った葉は光と大気とそして

根から吸収した養分で光合成を行って成長します。つまり生命を維

持するための活動はすべて外部への「依存」によって成り立ってい

ます。何らかの理由で外部環境が失われてしまえば忽ち生存するこ

とができなくなります。すべてを「依存」に頼らざるを得ない生命

体に「自立」という言葉は無縁です。では動物はどうでしょうか。

植物との大きな違いは運動能力を獲得したことにあります。運動能

力は「依存」の束縛から脱け出す自由をもたらしました。そして運

動の自由こそが「自立」意識を目覚めさせたのです。それぞれの命

運は自らがどう運動するかの判断に委ねられた。とは言っても動物

もまた生命を維持するための糧を植物に「依存」し、呼吸は大気に

「依存」しています。すべての束縛から「自立」した訳ではない。

つまり「自立」とは「依存」の上に成り立つのです。更に社会の中

で生きる我々にとっては社会に「依存」せずに「自立」することは

できません。それどころか社会の近代化が進んで生活全般から医療

や娯楽までも、我々はすべてのことで科学技術に「依存」せずに生

きることはできません。自動車を例に挙げれば、運動の自由が「自

立」をもたらしたとすれば、自動車に「依存」することによって運

動の自由、つまり「自立」は失われました。こうして近代社会では

益々社会への「依存」度が大きくなって、ついには「自立」意識が

失われてしまうのではないかと危惧します。生きることのすべてが

社会に「依存」しなければならなくなれば、それは管理社会です。


                       (つづく)